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朗読箇所

復活節第7主日  

旧約 ミカ書7:1-2

◆民の腐敗
1 悲しいかな
わたしは夏の果物を集める者のように
ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく
わたしの好む初なりのいちじくもない。
2 主の慈しみに生きる者はこの国から滅び
人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい
互いに網で捕らえようとする。


新約 マルコによる福音書11:20-26

◆枯れたいちじくの木の教訓
20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
26 (†底本に節が欠落 異本訳)もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

説教

見当外れな応答に秘められた深い意味

音声を聴く

  • それは、イエス様たちがエルサレムに着いて、
    三日目の朝のことでした。
    ベタニアという近くの村から都に向かいます。
    歩いたら一時間かもう少しかかるかの距離。
    前日もイエス様たちは同じように都に行きました。
    前の日には、ある事件が起きました。
    向こうにいちじくの木を見つけたイエス様は、
    木に近づいて実があるかと探すのです。
    ところが、葉は茂っているのに実がない。
    そこで、イエス様は裁きの言葉を告げます。
    「いまから後、いつまでも、
    お前から実を食べる者がないように」。
    なんだか回りくどい言い方ですね。
    はっきりと言えばよいのに。
    「二度と実を付けるな」と。
    なぜわかりやすく、そう言わなかったのか。
    それは神が実を求めているのに実がない、
    その事実を裁きとして告げるためです。
    実が付くか付かないかが問題なのではなく、
    実によって喜ぶ人がないという事実を、
    裁きの宣告として告げたのでした。
    ある哲学者が、
    人は誰かによって必要とされていることが、
    生きる意味を与えると言いました。
    その喜びが失われることは、
    生きることの意味が失われることです。
    その事実を教訓として示すために、
    イエス様はいちじくの木に告げたのでした。
    「お前から実を食べることがないように」と。
    さて、その次の日、
    イエス様と弟子たちは再び都に向かいます。
    すると、道の途上で弟子たちは、
    あのいちじくの木が枯れているのを見ます。
    マルコはその様子を、
    「根から枯れ果てていた」と描写しました。
    イエス様は木に向かって、
    「枯れてしまえ」とは言いませんでした。
    しかし、一日にして枯れ果てていました。
    この事実に、弟子たちはもちろんのこと、
    わたしたちは何を思うでしょうか。
    どう受け止めるのでしょうか。
    主イエスの冷酷さでしょうか。
    あるいは神による裁きの恐ろしさでしょうか。
    たぶん、それは間違った受け止め方です。
    イエス様がエルサレムに入られた時、
    それは特別な意味を持つ時間でした。
    聖書がずっと昔から予告してきた、
    終わりの日の出来事だからです。
    終わりの日に、神はメシアを遣わす。
    その時は審判の日。
    その時はメシアによる救いが成就する時、
    その時は神の国が表される日、
    そして、その時は神による収穫の時です。
    ちょうど農夫が、時が来ると刈り入れをし、
    あるいは実を収穫するように、
    神は神の喜ぶ良い実を人々に求めます。
    神が人々に求める良い実は、
    物ではなく、財産ではなく、成功でもなく、
    愛であり、慈しみ深さであり、
    憐れみであり、神への信頼という実です。
    前の日の朝、
    イエス様はいちじくの木に実を求めました。
    おそらくその木は威勢がよかったのでしょう。
    葉が茂っていて元気な木でした。
    しかし、実がありません。
    だからイエス様は裁きを告げたのでした。
    預言者たちは、しばしば、
    ぶどうやいちじくを、
    神の喜ぶ良い実の象徴として用いました。
    きょうわたしたちはミカ書を読みました。
    ここでミカは神の嘆きを告げ知らせます。

      悲しいかな
    わたしは夏の果物を集める者のように
    ぶどうの残りを摘む者のようになった。
    もはや、食べられるぶどうの実はなく
    わたしの好む初なりのいちじくもない。

    神が望む実を求めて探しても、実がない。
    そのことを預言者は象徴として語るのです。
    慈しみが人々の中にないこと、
    正しい心の者がいないことの象徴として。
    いちじくの実を楽しみに求めるように、
    神が人々に求めるのは、
    善をおこなうことであり、
    憐れみ深さであり、
    慈しみであり正義です。
    それらを神が探し求めても、
    見出すことができない。
    その神の嘆きを預言者は告げました。
    いま、イエス様はまさに、
    その事実を体験しているのです。
    葉は茂っているのに実がない木によって、
    神殿が祈りの家ではないという事実によって。
    葉が茂っていることは、
    この世での繁栄の象徴です。
    この世で豊かに生い茂り繁栄していても、
    神の求める実がなければ、無に等しい。
    だからイエス様は、
    いちじくの木への裁きを、
    終わりの日の裁きの象徴として、
    神が実を収穫する日の象徴として、
    宣告したのでした。
    次の日、弟子たちは驚きの光景を見ます。
    あの木が根から枯れ果てていたのです。
    そこで、前の日のことを思い出したペトロは、
    イエス様に語りかけます。
    「先生、ご覧ください。
    あなたが呪われたいちじくの木が、
    枯れています」。
    ペトロがこの言葉を告げましたが、
    ペトロ一人の感想ではなかったことは、
    それに応答したイエス様の言葉を、
    マルコは「彼らに言われた」と語るからです。
    それにしても、
    木が枯れていることを告げた弟子に、
    イエス様の応答はあまりに奇妙です。
    「先生、あの木が枯れています」。
    そう告げた弟子たちに向かって、
    「神を信じなさい」などと応答しますか?
    とんちんかんなやりとりのように思います。
    なぜイエス様は、
    まったく見当外れとしか思えない言葉で、
    弟子たちに応答したのでしょうか。
    それとも、このイエス様の応答には、
    何か秘められた深い意味があるのでしょうか。
    もしかすると、
    見当外れなのはイエス様ではなく、
    弟子たちの方だったのでしょうか。
    その前の日、
    弟子たちはあの裁きの言葉を聞いていました。
    そしてその翌日、
    イエス様の言葉を思い出した弟子は、
    木が枯れている事実をイエス様に告げます。
    「先生、木が枯れています」。
    たしかに驚きはあったことでしょう。
    しかし、ペトロのその時の態度は、
    まるで傍観者か見物人のようです。
    驚きの出来事ではあるとしても、
    自分たちには関係のない、
    あのいちじくに起きた出来事。
    弟子たちはそう受け止めていました。
    本当であれば、
    あのいちじくに起きたことを、
    彼らは象徴として、
    自分たちに当てはめるべき象徴として、
    自らの身に起こり得ることとして、
    受け止めるべきでした。
    神の求める実のない木であってはならない。
    そのように自らのこととして理解し、
    受け止めるべきことでした。
    しかし、弟子たちはそれを、
    自分たちへの戒め、
    自分たちの生き方への警告ではなく、
    驚きではあっても他人事でした。
    だからイエス様は、
    「神を信じなさい」と告げたのでした。
    神を信じなさい。
    それは神をわたしと関わる方として、
    わたしの中に神の求める実を探す方として、
    神に向き合いなさいということです。
    神を信じるとは、
    神の望む良い実を持つことを、
    神がわたしに望んでいると信じることですから。
    神を信じるとは、
    神が終わりの日に、
    わたしの中に良い実を探す方だと信じて、
    神に喜ばれる実を生む生き方をすることですから。
    わたしたちは神の喜ぶ良い実について考える時、
    わたしたちが生み出す何か、
    わたしたちがおこなう何かだと考えます。
    たしかにそのとおりです。
    神は終わりの日に、
    わたしたちに憐れみ深さ、
    慈しみ、義と公平を求めますから。
    しかし、それだけではなく、
    もう一つ、神の喜ばれる大切な実があります。
    それは、何かをおこなうということではなく、
    神への信頼を抱いて生きることです。
    神は御心をおこなわれる方だと信頼すること、
    そして、神の御心はわたしたちを脅したり、
    恐れさせたり、不幸に陥らせることではなく、
    たとえ苦難の中を歩むとしても、
    そのことをとおして最善を為してくださる、
    そう信じることです。
    神は、御心に反することはなさらず、
    かならず御心をおこなわれる。
    そして神の御心はわたしたちを愛し、
    慈しんで天の御国へと至らせることにある。
    そう信じるとき、そしてその時だけ、
    後に続くイエス様の言葉が理解できるでしょう。
    実際、続けてイエス様が語られた言葉は、
    実に謎めいています。
    直訳してみます。

      だれでも、この山に向かって、
    引き抜かれて海に投げ込まれろと言い、
    心の中で決して疑わず、
    言ったとおりになると信じるなら、
    彼にはそのようになる。

    このイエス様の言葉を誤って解釈するとき、
    人は疑いを抱かないようにと必死になって、
    神に願いを祈り求め続けるか、
    あるいは必死に祈ってもかなわないとき、
    自分の信仰が足りなくて、
    信じ切れていないからではないかと、
    自分の信仰の不足に苦しむことになります。
    この言葉が、
    「神を信じなさい」という命令に続いている。
    そのことを見損なってはいけません。
    神を信じるとは、
    神が必ず御心をおこなう方であると信じること。
    そうであれば、
    わたしたちはこう考えるべきです。
    神はわたしたちが必死に祈り、
    いっさい疑いを抱かないなら、
    わたしたちの祈りのとおりにしてくれる、
    というような方ではない、
    そんなことはあり得ないと。
    神が御心をおこなわれることを信じるなら、
    イエス様の言葉は謎ではありません。
    山が動いて海に投げ込まれることが、
    たしかに神の御心だとわたしたちが信じて、
    そのように心から祈り、
    そして事実、
    そうなることが神の御心であるなら、
    そのとおりになることでしょう。
    神はわたしたちの祈りを聞いてくださいます。
    しかし、それは、
    わたしたちの願いのとおりに、
    神がかなえてくださるということとは違います。
    神は御心をおこなわれる方ですから。
    わたしたちの願いとは異なる結果になるのは、
    むしろ当たり前のことです。
    思い通り、祈りの通りにならないからと、
    神に怒ることの方が不信仰です。
    神は祈りを聞き、
    その祈りをかなえてくださいます。
    わたしたちの浅はかな考えではなく、
    神の御心がおこなわれる仕方で。
    そしてそれは疑いなく、
    わたしたちにとって最善が為されることです。
    だからイエス様はこう言われたのでした。

      祈り求めるものはすべて
    既に得られたと信じなさい。
    そうすれば、そのとおりになる。



    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.05.16 週報より抜粋・要約

  • ・月報『モレノ』6月号ができました。  
    原稿をくださった方、
    製作を担当してくださった方に感謝します。
    今月も増大号ですのでどうぞお楽しみに。
    7月号の原稿を募集しますので、
    月の担当者以外の方で、
    なにか書いてみようと思われる方は、
    ぜひよろしくお願いします。

    ・オンラインによる、
    チャリティコンサートのお知らせ
    日本キリスト教団東美(とうび)教会の
    陣内大藏牧師から、
    フジコ・ヘミングさん他による
    教会でのオンラインによる       
    チャリティコンサートの案内が来ました。
    「小さな小さなチャリティーコンサート
    in 東美教会」
    https://www.youtube.com/watch?v=XJNf4Tz8xeA
    出演:吉永真奈(箏奏者)
    ・TENKA合唱団(武蔵野一小6年有志)
    ・陣内大蔵(歌)
    ・フジコ・ヘミング(ピアノ)
    7月末までの期間限定・無料配信ですので、
    ぜひご覧ください。
    チャリティコンサートですので、
    お志のある方は募金をお願いします。
    *Youtube動画の下の説明欄
    「もっとみる」の所をクリックすると、
    動画の詳細や寄付ページの
    リンクなどが記載されています。

    ・明日は学牧師は、
    三つのオンライン会議に続けて参加します。
    神学校理事会、NCC教育部常任理事会、
    福音連盟常任理事会です。

    ・明日からグレース・オンライン
    「1ペトロを読む」の講座が始まります。
    8週間の講座ですが、いつでも始められ、
    何度でも視聴できます。
    詳しくは会堂後ろのポスター
    または学牧師にお尋ねください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    ・小山駅・教会間の送迎をしています。
    詳しくは牧師にお尋ねください。
    東口のエスカレーター下を9:45出発、
    帰りは教会を12:40出発予定です。


  • 以上

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