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朗読箇所

聖霊降臨祭  

旧約 イザヤ書9:5


5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。


新約 マルコによる福音書11:27-33

◆権威についての問答
27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

説教

人よりも権威のある方がおられるということ

音声を聴く

  • きょうは聖霊降臨祭。
    昔、ユダヤでは過越の祭りから五十日目に、
    五旬祭という祝祭を守りました。
    「五旬」というのは五十日のことですから、
    五十日目を意味するギリシア語の、
    ペンテコステとも呼ばれてきました。
    イエス様が十字架で死なれたのは、
    過越の祭りの時です。
    それから五十日目の祝祭の時に、
    その出来事は起きました。
    エルサレムの広間に集まった弟子たちに、
    聖霊が降り、彼らを力づけ、励まし、
    新たな生き方へと踏み出させた出来事です。
    彼らはキリストを信じる生き方へと導かれ、
    キリストの福音を世に告げ知らせ、
    教会の働きを広げる働きを始めたのでした。
    しかし、わたしたちがきょう祝うのは、
    その昔の出来事だけではありません。
    聖霊が今もわたしたちのもとに来て、
    わたしたちの内に留まり、
    キリストを信じる者としての生き方へと、
    わたしたちを導き、励ましてくださる。
    わたしたちの身に起きているこの事実を、
    わたしたちはきょう、祝います。
    イエス様がよみがえられて四十日の間、
    イエス様は弟子たちと共におられました。
    その後、弟子たちの見ている前で天に昇り、
    父なる神の許に行かれました。
    主キリストの昇天を見届けた弟子たちは、
    その後どうしたでしょうか。
    彼らは天に昇られる主イエスから、
    ある指示を受けていました。


    高い所からの力を受けるまで、
    都にとどまっていなさい。(ルカ24章)


    そして、


    あなたがたの上に聖霊が降ると、
    あなたがたは力を受ける。(使徒1章)


    この二つの命令が彼らに与えられたのでした。
    イエス様は弟子たちに、
    聖霊が降り、高い所からの力を受けるまで、
    何もしないで待つように命じたのです。
    なにか行動を起こすことをせず、
    なにかをしようとしてもいけない。
    ただ、静かに待っていなさいと。
    もちろん彼らはぼんやりしてはいませんでした。
    祈りながら、待っていました。
    なぜ、すぐに何かをしてはならないのか。
    その理由は、聖霊の力なしで何かをすれば、
    それは自分たち人間の意志や、
    世の中の仕組みに合わる仕方で、
    物事を考えたり行動したりするからです。
    人々から違和感や反感をもたれないように、
    国家や宗教指導者に敵視されないように、
    周囲に合わせてうまく受け入れられるように。
    そのような考えで行動することでしょう。
    イエス様はそれをするなと言われたのです。
    聖霊が降り、高い所からの力を受けて、
    神の霊による権威の下に置かれるまで、
    しばし待ちなさいと。
    教会をどのように築き、
    どのようなものとして形作るのか。
    どう信仰者として生きるのか。
    そのことを、神の霊による権威なしに、
    自分たちや世の中の権威に基づいておこなえば、
    教会は神の教会とはならず、
    信仰者は神の民として生きることもできません。
    世に、そして世の権威に迎合し、
    あるいは自分の考えを真っ先に主張するからです。
    教会は神の霊の権威のもとで形成され、
    信仰者は神の霊の権威に従うべきです。
    それがこの世での信仰的な生き方です。
    わたしたちは世の権威を尊重します。
    自分で考え判断することも重要だと知っています。
    しかし、信仰を抱いて生き、
    信仰的な言葉を語り、行動するためには、
    世の権威に従うのではなく、
    神の権威に基づいて生き、語り、行動することが、
    わたしたちの生きる姿勢でなければなりません。
    もしそうしないなら、
    教会は国家や世の流れを権威として服従し、
    世の権威に干渉され、影響を受け、
    結局、この世の権威の下に位置付けられます。
    教会は、そうした過ちの歴史に事欠きません。
    古代、四世紀はじめに、
    教会は国家の下に保護されるようになり、
    国家によって権威付けられました。
    その結果、キリストは戦の神にされ、
    教会はそれを受け入れてしまいました。
    戦前・戦中の日本でも、
    教会は軍国主義に飲み込まれました。
    軍事国家の権威による圧力に敗北して、
    戦争と、アジア諸国の支配という国策に、
    日本の教会は引き込まれてしまいました。
    教会が国家の権威を自らの上に置くとき、
    信仰者が国家や社会の権威に服従するとき、
    教会は神の教会であることから堕落し、
    信仰者は神の民であるよりも、
    この世の国の民であることの方に、
    優先順位を明け渡すことになります。
    だから、上からの力を受けること、
    すなわち聖霊がわたしたちに降ることが、
    すべてに先立って優先しなけれがなりません。
    聖霊が降るまでは何もするな、
    聖霊が降る時、
    なにが権威であるかが明らかになる。
    それが主イエスの命じたことでした。
    上からの聖霊を受け、
    その支配と導きをこそ第一の権威とする。
    それが教会というものであり、
    わたしたち信仰者の大原則です。
    聖霊による勇気づけと励ましがなければ、
    人はだれもみな、
    世の権威、世間の風潮、国家の権威に、
    脅され、威圧され、すくみ上がるでしょう。
    だからイエス様は「待て」と命じました。
    だから弟子たちは待ちました。
    十日間、祈りながら。
    そしてその時は来ました。
    弟子たちに聖霊が降り、神の力を受けて、
    彼らは世間に迎合せずに福音を宣べ伝え、
    国家の脅しに屈することなく教会を築き、
    神の御心を世に表す働きを進めました。
    神の権威を第一として、
    自分の考えや自分の立場を神の権威の下に置き、
    世間の風潮や国家の権威を神の権威の下に置く。
    そのことがなければ、
    人は自分を第一の権威にし、
    世間や国家に迎合してゆくことでしょう。
    そのような生き方を代表する人々が、
    きょうの福音書には登場してまいります。
    この世の権威を帯びた人々がやって来て、
    その権威をかざしてイエス様を脅すのです。
    エルサレム神殿に来たイエス様は、
    神殿で不正な商売をする商売人を追い出し、
    不正な利益を得ている神殿祭司を批判し、
    人々に教えていました。
    「わたしの家は祈りの家であるはずが、
    あなたたちは強盗の巣にしてしまった」。
    ユダヤ当局や神殿の支配者たちが、
    黙って見過ごすはずがありません。
    祭司長、律法学者、長老たちがやってきた。
    マルコはそのように語ります。
    祭司長、律法学者、長老。
    これら三つのグループは、
    エルサレムのサンヒドリン、
    すなわち国を代表して議会を構成する、
    ユダヤの三大勢力です。
    つまり国を挙げてイエス様に詰め寄るのです。
    イエス様を威圧して黙らせるために。
    しかも、場所はエルサレム神殿の中。
    まさに彼らの本拠地です。
    最高の権威を身に帯びている、
    あるいは帯びていると信じている彼らが、
    イエス様を脅しにかかります。


    何の権威で、
    このようなことをしているのか。
    だれが、そうする権威を与えたのか。


    もし、この世の中だけで生きていて、
    この世の権威しか頭の中になかったなら、
    国家権力からこんな脅しをかけられたら、
    誰がびびらずにいられるでしょうか。
    「何の権威で」。
    「だれが権威を与えたのか」。
    この問いは権力による脅迫です。
    我々が権威であり、
    我々はおまえに許可など与えていない。
    我々の許可なしにこんなことをすれば、
    どうなるか分かっているのか。
    それが彼らの言おうとすることでした。
    そして、それはまぎれもない事実でした。
    彼らはユダヤ社会と神殿での、
    最高権威を代表しているのですから。
    国家と宗教、そして民衆の指導者、
    それらの権威が威信をかけて、
    イエス様を問い詰めるのです。
    どうしてその時、
    イエス様は萎縮せず恐れることもなく、
    たった一人、彼らと向き合えたのか。
    考えれば考えるほど、驚きです。
    なぜなのか。
    人よりも権威のある方のもとにある。
    その確信があったからだとしか考えられません。
    祭司長、律法学者、長老たちは周到に準備をし、
    示し合わせて来たに違いありません。
    そうであれば、服装もしかりであったでしょう。
    祭司長は祭司の服を身にまとい、
    律法学者は身分を示す房のついた衣を着て、
    長老たちは有力者らしい衣服に身を包んで、
    集団でイエス様に迫ります。
    かたや彼らに向き合うイエス様は、
    長い旅のためにくたびれた服を着て、
    びびった弟子たちが後ろに引き下がる中、
    ただ一人で彼らと渡り合います。
    しかし、その時どちらの方が威厳に満ちていたか、
    その後のやりとりを見れば明らかです。
    問い詰めに来た彼らに向かって、
    イエス様が逆に尋ねます。


    では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。
    そうしたら、
    何の権威でこのようなことをするのか、
    あなたたちに言おう。
    ヨハネの洗礼は天からのものだったか、
    それとも、人からのものだったか。
    答えなさい。


    自分たちが権威だと思っている人たちに、
    イエス様は天の権威を、
    すなわち神の権威を問いかけるのです。
    神の権威について、きみたちはどう考えるのかと。
    もし、バプテスマのヨハネが生きていたら、
    彼らはヨハネにも同じように尋ねたでしょう。
    何の権威で洗礼を授けるのかと。
    そして、ヨハネが答えても答えなくても、
    それはヨハネの言うことだと主張して、
    はねつけたことでしょう。
    しかし、バプテスマのヨハネはもういません。
    ヘロデ王に処刑されましたから。
    だから、ヨハネの勝手な主張だとは、
    彼らはもはや言うことができません。
    祭司長、律法学者、長老たちは、
    自分たちがヨハネの洗礼をどう考えるか、
    自分たちの考えを言わなければなりません。
    イエス様は彼らに問うのです。
    きみたちはどう考えるのかと。
    この問いの前では、
    彼らは自分たちの権威の影に隠れて、
    自分の意見を言わないですませることは、
    もはやできません。
    天から、すなわち神からだと言うか、
    神からではないと言うか、
    彼らが自分たちの判断を示すことが求められます。
    だが、いったい彼らはどうしたか。
    彼らは判断を下さないことにしました。
    ヨハネの洗礼は神の権威によるものだと答えれば、
    ではなぜヨハネを信じなかったかと追及されます。
    しかし、神の権威によるのではないと答えれば、
    バプテスマのヨハネは神から遣わされたと信じる、
    大勢の民衆を敵に回すことになります。
    だから彼らは唯一残された返事をしました。


    分からない。


    しかし、この返事は、
    彼らの威厳も高慢さも、
    ただの張りぼてにすぎないことを顕わにする、
    敗北を決定づける返事に他なりませんでした。
    そこで、イエス様が彼らに宣告します。


    それなら、
    何の権威でこのようなことをするのか、
    わたしも言うまい。


    すごすごとその場を去る敗北者の姿が目に浮かびます。
    権威者だと思い込んでいた彼らの心に湧き上がる、
    怒り、敵意、憎しみが、
    彼らをいっそう、神の権威から遠ざけるのです。
    神の神殿に仕える祭司、
    民の信仰を導くはずの律法学者、
    神の民を裁くべき長老が、
    自分自身を権威の源であるかのように思い込み、
    実は人の目を権威としているに過ぎない。
    その事実が顕わにされたのでした。
    人はだれも、
    神の権威の下にあることを認めないかぎり、
    自分や、世間や、あるいはこの世の権威の下に、
    自分とこの世界を位置付けることでしょう。
    人よりも権威のある方がおられる。
    そのことを認めてはじめて、
    人は、この世のなにがしかの権威を絶対視する、
    その高慢さから解放されます。
    聖霊を受けているわたしたちは、
    常に神の権威のもとにあることを信じます。
    神の権威に、そして神の権威だけに服して、
    聖霊の力により、この世を歩んでまいります。
    それが聖霊を受けた者の生き方ですから。



    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.05.23 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。
    主イエスの十字架は、
    ユダヤの過越祭のただ中での出来事でした。
    三日目によみがえられた主イエスは、
    四十日間弟子たちと共に過ごし、
    天の御国へと昇って行かれました。
    それから十日後、
    過越の祭りから五十日目(ペンテコステ)は、
    ユダヤの五旬祭(ペンテコステ)の日に、
    そのことが起きました。
    集まって祈っていたイエス様の弟子たちに、
    聖霊が降りました。
    聖霊によって天のキリストと
    一つに結ばれていると確信した弟子たちは、
    この時から主キリストの福音を宣べ伝え、
    教会を各地に広げてゆきました。
    わたしたちはこの出来事を
    聖霊降臨祭(ペンテコステ)として祝います。

    ・きょうは礼拝後、10分間除草をします。
    ご参加くださる方はよろしくお願いします。
    有志の方にお願いするものですから、
    参加しなくてもかまいません。
    10分が過ぎたら終了の合図をします。


       


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    ・小山駅・教会間の送迎をしています。
    詳しくは牧師にお尋ねください。
    東口のエスカレーター下を9:45出発、
    帰りは教会を12:40出発予定です。


  • 以上

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