小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報   >  神は何もしないにちがいない・・・か?

朗読箇所

三位一体の主日  

旧約 イザヤ書5:1-7

◆ぶどう畑の歌
1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に
ぶどう畑を持っていた。
2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで
何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
5 さあ、お前たちに告げよう
わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ
石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
6 わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず
耕されることもなく
茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに
見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに
見よ、叫喚(ツェアカ)。


新約 マルコによる福音書12:1-12

◆「ぶどう園と農夫」のたとえ
1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
11 これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』」
12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

説教

神は何もしないにちがいない・・・か?

音声を聴く

  • イエス様が「たとえ」を語り始めます。
    いつもと同じように?
    いいえ、いつもとはまったく違います。
    話す相手も違います。

    いつもなら、弟子たちや人々に語り、
    そこにイエス様を敵視する、
    ファリサイ派や律法学者、長老らがいて、
    いっしょにイエス様の話を聞くのです。
    しかし、今回ばかりは逆です。
    イエス様がたとえを語る相手は、
    祭司長、律法学者、長老たち。
    彼らに向かって語るたとえを、
    弟子たちや群衆がいっしょに聴くのです。
    彼らはユダヤ議会の代表者たちでした。
    エルサレム神殿の境内にいるイエス様を、
    何の権威があるのかと問いただし、
    できれば逮捕したいと考えてきたのでした。
    ところが、逆にイエス様に問われ、
    やりこめられてしまいます。
    すごすごと一旦引き下がろうとする彼らに、
    イエス様がたとえで話し始めます。
    語られたたとえは、
    これほど挑発的な言葉があるでしょうか。
    預言者イザヤがイザヤ書五章で物語る、
    神がぶどう園を造るたとえを題材にして、
    しかし、イエス様がストーリーを少し変えて、
    民の指導者である祭司長や、
    律法学者、長老たちの悪を指摘するのです。
    ぶどう園を造る「ある人」とは神のことです。
    その「ある人」つまり神がぶどう園を造り、
    そこに垣をめぐらし、
    ワイン造りのための搾り場を掘り、
    見張りのためのやぐらを立てて、
    すっかりぶどう園を完成させます。
    完全に整ったぶどう園を、
    オーナーは農夫たちに貸して、
    自分は旅に出ます。
    農夫たちとは小作人のことです。
    土地や畑、設備は自分たちのものではなく、
    オーナーから借りて農作業をおこないます。
    オーナーは外国に住んでいるのでしょう。
    その時代、特にイエス様の郷里である、
    ガリラヤ地方にはそんな畑が多くありました。
    所有者は遠く離れたところに住んでいて、
    小作人に畑を貸すのです。
    ぶどう園のオーナーは小作人に農作業を任せ、
    収穫の時に、収穫したぶどうの何割かを、
    農夫に納めさせます。
    その割合はそれぞれですから、
    強欲なオーナーは半分ほども持っていくでしょう。
    通常は三割程度だったでしょうか。
    土地がよそ者の所有だということを除けば、
    オーナーも小作人も納得しての契約です。
    オーナーはぶどう園を整備すると、
    遠くに、おそらく異国に旅立ち、
    近くにはいません。
    農夫らにぶどう園の維持管理をすべて託して、
    自分自身は関わることがありません。
    だからといって、
    ぶどう園を気にしていないかといえば、
    そういうわけではないようです。
    収穫の時が来ると僕を遣わして、
    収穫物の一部を受け取ろうとするのですから。
    ところが、農夫たちは違うように考えます。
    途中、オーナーは一度も様子を見に来ず、
    何も連絡がなく、使いの者も来ません。
    だから、農夫たちはオーナーを気にしなくなり、
    やがてぶどう園には所有者がいることも忘れ、
    自分たちの所有であるかのように思い込み、
    自分たちの物のように振る舞うのです。
    「わたしのぶどう園」、
    そう考えるうちに、
    収穫の実りもすべて自分たちのものだと思います。
    すっかり自分のものと思い込んでいた矢先、
    収穫の時が来たからというので、
    オーナーが僕を送ってよこすのです。
    農夫たちはその時になって、
    改めて現実を思い出させられます。
    そうだった、このぶどう園は、
    所有者が別にいるのだったと。
    でも、オーナーは不在です。
    一度も来たことがありません。
    収穫の時に僕を一人よこしただけ。
    どうせ来る気はないのだろう。
    このぶどう園のことなど、
    あまり気にもかけていないのだろう。
    来た僕を追い返したからといって、
    オーナーは何もしないに違いない。
    一度も来なかったという事実が、
    これからも来ないだろうとの考えに進みます。
    やってきた僕を捕らえて袋だたきにすると、
    何ももたせないで追い返してしまいます。
    そこでぶどう園の主人は、
    別の僕をひとり、また遣わします。
    しかし、農夫の態度はエスカレートします。
    この僕は頭を叩かれ、侮辱され、
    やはり何ももたずに追い払われます。
    その次の僕が来ると、
    こんどは殺害してしまうのです。
    ぶどう園のオーナーはあきらめません。
    次の僕、次の僕と順に送りますが、
    みんな、殴られたり殺されたりします。
    ついに僕がみんないなくなってしまいます。
    最後に一人、愛する息子が残っていました。
    そこでオーナーは、
    「我が子であれが敬ってくれるだろう」
    そう考えて一人息子を送ります。
    ところが農夫はまったく逆を考えました。


    これは跡取りだ。
    さあ、殺してしまおう。
    そうすれば、相続財産は我々のものになる。


    そこで、息子を捕らえて殺し、
    ぶどう園の外に放り出したというのです。
    これが、祭司長、律法学者、長老たち、
    民の指導者に対して語った「たとえ」です。
    彼らは何がたとえられているのか、
    すぐに悟ります。
    ぶどう園のオーナーは神だと。
    ぶどう園は神の民であるイスラエルの人々。
    そして悪い農夫らとは、自分たちのことだと。
    次々に送られて来た僕とは、
    イスラエルに次々に遣わされた預言者たち、
    そして一人息子とは、
    神の独り子、つまりイエス様のことだと。
    このたとえが告げているとおり、
    ユダヤの国の指導者たちは昔から、
    神は来ないだろうと高をくくり、
    神は何もしないにちがいないと考え、
    不正を働き、人々を搾取し、
    貧しい者や小さな者を苦しめ、
    神を崇めず感謝せず、
    御利益を期待して偶像崇拝に走りました。
    そのことを批判して、
    悔い改めを迫る預言者たちは、
    王や支配者によって迫害され、
    命を狙われ、殺されてきました。
    そして今や、彼らは、
    神の独り子を殺そうとしているのです。
    そしてもうすぐに、一両日の内に、
    彼らはイエス様を捕らえて不当に裁き、
    十字架につけて殺すことになります。
    なんとひどい祭司長や律法学者や長老たち、
    なんと浅はかな民の指導者たちか。
    わたしたちはそのように思うでしょうか。
    彼らが悪の元凶なのでしょうか。
    いいえ、違います。
    イエス様はその時代の彼らだけが問題だとは、
    考えていません。
    なぜなら、昔からずっと、
    神の遣わす使者たち、預言者たちは、
    迫害され、弾圧され、殺されてきたからです。
    つい最近にも、
    最後のそして最大の預言者である、
    バプテスマのヨハネが処刑されました。
    神の遣わす使者は嫌われ、憎まれる。
    それがイエス様の時代の、
    ユダヤの人々だけの問題でなく、
    すべての時代や文化や民族を超えて、
    人間の問題だということを、
    わたしたちは見落としてはなりません。
    このたとえの農夫とは、
    あらゆる人間のことであり、
    このたとえは、人間の現実を語るのです。
    たしかに、この世界は神が造り整えて、
    人間の管理の手に委ねた世界です。
    創世記で神が天地創造の時、
    神は人に向かってこう告げました。


    産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。
    海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を
    すべて支配せよ。(1:28)


    ある人々はこの神の言葉を信じるキリスト教が、
    自然や世界を破壊してきたと批判します。
    しかし、「地を従わせよ」「支配せよ」は、
    オーナーが神であり、
    神の意志と願いにふさわしく管理することが、
    本来求められていることです。
    自分のもののように思い込んで、
    好き勝手に振る舞うことは、
    この神の言葉とは真逆です。
    問題は人間そのものにあることは、
    キリスト教だろうがイスラムだろうが、
    仏教だろうが無神論者だろうが関係なく、
    神のぶどう園を搾取し、破壊し、
    荒らしていることから明らかです。
    最大の問題は、
    神を信じるか信じないかを超えて、
    神は来ないに違いない、
    神は何もしないに違いない、
    そう考え、そう思い込んでいることです。
    神は何もしないにちがいない。
    そう思い、そう信じ込むから、
    人は自分の利益、自分の欲、自分の儲けのため、
    自然を壊し、互いに奪い合い、
    儲けを増やすために正義を斥けます。
    神は来ないに違いない。
    神は何もしないに違いない。
    こうした人間の思い込みに対して、
    聖書は全力をもって、否を突きつけます。
    旧約聖書の預言者たちがどれほど繰り返し、
    主の日が来る、
    その日が来れば、
    終わりの日には、
    という言葉を告げてきたことでしょうか。
    イエス・キリストが言わなかったでしょうか。
    わたしは来る。
    あなたたちはわたしが来るのを見ると。
    主の昇天を見て立ちすくんでいた弟子たちに、
    主の使いが告げなかったでしょうか。
    あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、
    天にいかれるのをあなたがたが見たのと
    同じ有様で、またおいでになると。
    パウロが手紙の最後で、
    「マラナ・タ、主よ来てください」
    という言葉を高く掲げなかったでしょうか。
    神はぶどう園を人に託しました。
    それは、ぶどう園すなわちこの世界を、
    適切に管理し、
    良い実をもたらことを望んでのことです。
    神が望む適切な管理とは、
    この世界が神の創造の姿を保ち、
    神が見てすべて良いと言われる仕方で、
    この世界を維持し、その範囲で用いることです。
    神が望む良い実とは、物質的なものではなく、
    霊的な実り、すなわち、愛と憐れみを満たし、
    正義と公平をおこない、
    神への感謝を抱いて生きることです。
    人は身勝手に、こう考えています。
    神などいない。
    神は来たりはしない。
    神は何もしないにちがいない。
    その結果、人は神の望むことではなく、
    自分が望むことを第一に求めます。
    しかし、いや、それだからこそ、
    わたしたちは問わねばなりません。
    本当に神は来ないのかと。
    本当に神は何もしないで放置するかと。
    わたしたちが神を信じるということは、
    神が来られることを信じることです。
    神が何もしない方ではないと信じることです。
    収穫の時が来ることを信じることです。
    その時、神は来て良い実を求めるでしょう。
    そのことを常に心に留めて生きることが、
    キリストを信じる者の姿です。




    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.05.30 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは三位一体の主日です。
    昨年の待降節から約半年間、
    わたしたちは教会の暦を、       
    キリストのご生涯をたどる仕方で
    祝ってきました。       
    キリスト降誕、公現祭、四旬節、
    受難、そして復活を祝い、
    先週わたしたちは、
    聖霊降臨を記念して祝いました。
    聖霊が降ったことを祝い、
    父なる神、御子キリスト、聖霊という、
    三位一体の神の祝日が
    ひととおり終わりました。
    三位一体の主日は、
    その締めくくりとなる日であると同時に、
    半年間にわたる三位一体節の始まり
    でもあります。           
    この季節は「三位一体後第〜主日」
    と数えますので
    来週は三位一体後第1主日です。

    ・今週木・金曜日は、学牧師は
    日本聖書協会の用事で銀座に行きます。
    二日間東京に出ますが、
    4月に新型コロナワクチンを接種しましたので、
    どうぞご心配なさらないでください
    (いちおうお知らせまで)。
    まだ65歳以上に限られますが、
    かかりつけ医院でも接種が始まります。
    未接種で65歳以上の方は、
    病院のHPを確認すると良いかもしれません。

    ・来週は礼拝後に月例教会役員会を開きます。
    教会役員の皆さまはよろしくお願いします。
    役員会で話し合ってほしいことがあれば、
    どうぞお知らせください。
    おもな議題は月の報告と承認、
    牧師館リフォームに関してなどです。

    ・稲葉基嗣先生のアジア太平洋神学院卒業式が
    おこなわれました。
    改めて、卒業おめでとうございます、
    そして現在の学びに祝福を祈ります。



    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    ・小山駅・教会間の送迎をしています。
    詳しくは牧師にお尋ねください。
    東口のエスカレーター下を9:45出発、
    帰りは教会を12:40出発予定です。


  • 以上

フッター画像