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朗読箇所

四旬節第1主日

旧約 イザヤ書53:6-8


6 わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
7 苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。


新約 マルコによる福音書15:6-15

◆死刑の判決を受ける
6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

説教

神を十字架につける世界

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    わたしたちは、イエス様の地上での生涯の、
    最後の一週間をイエス様と共に旅しています。
    イエス様がエルサレムに入られたのは、
    マルコ福音書では11章です。
    その出来事があった日から数えて、
    きょうの福音書の箇所は六日目の朝です。
    日曜日にエルサレムに入られた主イエスは、
    神殿で人々に教え、
    木曜日に弟子たちと過越を祝い、
    最後の晩餐として知られる、
    あのパンと杯の儀式をおこないました。
    その後にゲツセマネの園で祈り、
    その場所で捕らえられたのでした。
    大祭司の館に連れて行かれ、
    訊問と判決を受けたのも、
    その夜から夜明けにかけてのことでした。
    そして金曜日の朝、
    ユダヤ総督としてローマから派遣されていた、
    ポンテオ・ピラトのもとに、
    主イエスは引き出されます。
    あっという間の、怒濤のような六日間。
    しかし、わたしたちにはむしろ、
    とても長い時間であったように思われます。
    イエス様は長い時間をエルサレムで過ごした。
    そんな錯覚に囚われます。
    それも無理はありません。
    なにしろわたしたちたちが福音書で、
    イエス様のエルサレム入城の箇所である、
    11:1−11の朗読を聴き、
    そこから説教が語られたのは、
    昨年の4月25日の礼拝でしたから。
    途中、クリスマス季節で中断したものの、
    わたしたちの福音書の旅によれば、
    もう十ヶ月以上も前に、
    イエス様はエルサレムに入られたのです。
    イエス様の時間とわたしたちの時間には、
    大きなずれが生じました。
    なぜそんなことになったのか、
    その理由は明らかです。
    マルコ福音書はイエス様の最後の一週間を、
    ある事実をわたしたち読者に伝えるために、
    とても詳しく丁寧に書き記したからです。
    マルコ福音書が伝えようとしているのは、
    この世の救い主に対する態度です。
    神の御子が救い主として世に来られました。
    しかし、世界はそのことを理解せず、
    受け入れようとせず、拒絶したのでした。
    その事実を徹底して物語り、
    読者に対して世界の現実を悟らせることが
    マルコによる福音書の目的です。
    メシアすなわち救い主として世に来られた、
    神の御子キリストは、
    人々を神と和解させ、
    神が求める憐れみ深さを生きることを教え、
    神の愛を受けて神に立ち帰り、
    自らも愛に基づく生き方をするようにと、
    人々を教えてきました。
    しかし、それは同時に、
    自分を正しい人間だと思い込み、
    愛を生きず、憐れみを抱かず、
    罪びとと見なす人々を断罪する、
    その時代の権力者や有力者を批判し、
    悔い改めを求めることでもありました。
    だからその結果、
    イエス様は祭司や律法学者、
    ファリサイ派や権力者から憎まれ、
    彼らの敵意にさらされることになりました。
    ついには弟子たちにも見捨てられ、
    ユダヤの人々全体から拒まれ、
    そして今、ローマ帝国によって、
    今、イエス様は裁かれています。
    最終的に主イエスは絶対孤独の中で、
    ただ一人で苦難を受け、
    十字架につけられることになります。
    マルコ福音書は、
    その事実を徹底的に明らかにする仕方で物語り、
    読者に対して世界の現実、
    つまり神に敵対し神を拒む、
    この世界の本性を悟らせるのです。
    世界全体がいかにメシアを拒み、
    そのことによっていかに徹底的に、
    神を拒み神に敵対したか。
    その事実を福音書は、
    読者に対して顕わに示すのです。
    総督ピラトが群衆に尋ねます。
    「ユダヤ人の王とおまえたちが言っている
    あの者は、どうしてほしいのか」。
    国の指導者、権力者が群衆を扇動し、
    群衆がそれに合わせて叫びます。
    「十字架につけろ!」。
    暴動の時に人殺しをして逮捕された、
    バラバという囚人と、
    イエス様のどちらを釈放してほしいのか、
    その時、群衆にはその選択肢がありました。
    しかし、国の権力者や有力者が、
    群衆を扇動して言論を誘導します。
    バラバを釈放してイエスを十字架にと。
    群衆がイエス様を十字架につけろと叫ぶのは、
    この世界と神の関係を象徴しています。
    いかに世界が神に対して敵対的で、
    怒りと憎しみを向けるか、
    いかに世界が神を葬り去ろうとするか、
    そのことの象徴に他なりません。
    マルコはその場に押し寄せた人々を、
    抽象的な言い方で「群衆」と呼びます。
    彼らが特定の誰かではなく、
    なに民族の人たちかでもなく、
    そこにいるすべての人々であることを、
    これほど顕わにする言葉があるでしょうか。
    「群衆」、
    それは人類すべての象徴です。
    主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶのは、
    その時その場ではユダヤ人だったでしょうが、
    彼らは人類を代表する、
    象徴的な存在です。
    十字架につけろと叫ぶ群衆とは、
    世界の全体、全人類にほかなりません。
    神の御子イエス・キリストを拒み、
    十字架につけて葬りさろうとすることは、
    神の御子が世に表し、教え、求めて来た、
    神の愛、憐れみ深い生き方、
    正義と公平を守ること、
    平和を作ることを拒み、
    葬り去ることです。
    人類のどこかの民族、
    どこかの文明、
    どこかの世界の中で、
    神が求める正義と公平を常に表し、
    愛に満ち憐れみ深い社会を作り、
    和解と赦しに基づく平和を作るといったことが、
    これまで、あり得た試しがあるでしょうか。
    もちろん個人でそのように生きた人は、
    いたかもしれません。
    しかし、そのような個々人の存在が、
    社会そのもの、世界全体を変えることは、
    人類の歴史の中で起きたことはありません。
    この人間の罪深さには、
    ユダヤ人もギリシア人もローマ人もなく、
    日本人もアメリカ人もロシア人もありません。
    人類全体が神を受け入れず、
    神を拒み否定してきた事実を、
    福音書はあのイエス様の裁判の場面に、
    象徴させているとしか思えません。
    福音書は人類全体が主イエスを拒み、
    否定するその事実を読者に語るのです。
    そして、そのことによって、
    人類そのものが神を拒んできたという事実を。
    神を十字架につけて殺すことは、
    神を排除し神のない世界を求めることです。
    神を十字架につけよとの要求は、
    平和を否定し、
    愛と憐れみを殺し、
    正義を蹂躙しようとする、
    人間の意志の表れです。
    人類はいったいなぜ、何のために、
    神を拒み、否定するのでしょうか。
    その理由は明らかです。
    自分たちが世界を所有し主人になるため、
    人間が世界の支配者として君臨する、
    そのような世界を作るためです。
    その世界では、
    人々は自分の利益を第一に求め、
    自分の繁栄と栄光を増し加えるために、
    力を注ぎ、競争原理を生み出し、
    持つ人と持たない人の区別を作り、
    時には自分の利益や栄光にそぐわない者を、
    攻撃し、排除し、殺そうとします。
    そうである限り、
    この世界から争いはなくなりません。
    戦いは絶えることがなく、
    対立は繰り返され、
    そのことによって、
    ある人々が多くを手に入れ、
    ある人々は持っているものを奪われ、
    この世界は神の御心とほど遠い、
    愛と憐れみの欠如した、
    平和のない世界であり続けます。
    主イエスの十字架は、
    そのような世界の現実を顕わに示し、
    この世界がどのようなものかを、
    十字架という光で照らし出します。
    歴史をとおして、
    人類はそのような罪深さを生きてきました。
    そしてそれは過去の物語ではなく、
    この世界で今も現実に起きています。
    わたしたちは改めて、
    この世界が神を十字架につける世界だと、
    今、思い知らされています。
    この世界の悲劇、冷酷な現実、
    この世界の惨状の背後には、
    誰かの利益や特権への執着、
    どこかの人々の豊かさや権力への欲望、
    自分が出し抜かれて損をすることへの恐れ。
    そうした思惑がうごめいています。
    神の御子は十字架につけられて殺されました。
    それによって神の愛と憐れみ、
    正義と公平もこの世界から葬り去られて、
    神は敗北するのでしょうか。
    神の求める愛も憐れみも、
    正義も公平も、
    罪と欲の振るう暴力の前では、
    ただ無力に破壊されるだけでしょうか。
    いいえ、断じてそうではありません。
    わたしたちは信じます。
    十字架は神の勝利なのだと。
    神は十字架による御子の死によって、
    神の愛をもっとも力強く証しました。
    暴力に対して暴力で立ち向かえば、
    暴力は際限なく膨れ上がります。
    核兵器の脅しに対して、
    核兵器で対抗すれば、
    愛も憐れみもない世界が出現します。
    もし主イエス・キリストが、
    十字架につけられて殺され、
    それで終わったとしたら、
    主イエスは自らの信念に徹して、
    殉教の死を遂げた、
    悲劇の義人で終わったことでしょう。
    主イエスの復活は、
    主イエスの復活というだけでなく、
    主イエスが教え人々に求めた、
    神の愛と憐れみ、
    神の正義と公平、
    神の平和の復活でもあります。
    暴力と敵意の極みであってさえも、
    神の愛を絶やすことはできず、
    神の憐れみはこの世界に絶えず芽吹き、
    神の正義は滅ぼされず、
    神の平和が世界全体を覆う時が来る。
    わたしたちが主イエスの復活を信じるとは、
    そのような世界が現実になるという、
    その希望を信じるということでもあります。
    今世界で起きている、
    侵略と破壊という戦争行為に対して、
    わたしたちはとても無力さを感じています。
    神の正義も平和も、
    あたかも十字架につけられ、
    世界から葬り去られているかのようです。
    しかし、それで終わることはない。
    主イエスがよみがえられたのだから、
    神の愛と憐れみ、正義と公平、
    そして神の平和が勝利を収める時が来る。
    わたしたちは、そう信じて祈ります。



週報より

  • 2022.03.06 週報より抜粋・要約

  • ・きょうはティータイム後に
    月例教会役員会を開きます。
    きょうのおもな議題は、
    月ごとの報告・決算の承認と
    復活祭の祝い方、
    次年度の役員会役割分担について、
    その他です。 
    皆さまから役員会への提案、
    ご要望など、あればお知らせください。

    ・別館リフォームがほぼ完了し、
    昨日業者と確認しました。
    とてもすてきな家に仕上がりました。

    ・ウクライナ情勢が緊迫し、
    混迷を深めています。
    ロシアに正義と平和を重んじる
    新たな政府が誕生し、
    即刻軍事侵攻が終了することを
    神に心から祈ります。
    命の危険にさらされている人々、
    難民となった人たちを覚えて祈ります。
    いかなる軍事力・暴力の行使にも反対し、
    対話と和解を求めます。
    この危機に乗じて日本が
    憲法改正・軍備増強に走ることのないよう、
    心から祈り、
    できる仕方でそのような動きに、
    教会として反対します。

    ・現時点での申し込みに基づいて、
    係の表を作成しました。
    申し込んでくださった方々に感謝し、
    確認をよろしくお願いします。
    まだこれからの申し込みも大歓迎です。

    ・あすは神学校の入学試験がおこなわれます。
    入学志願者の方たちのためにお祈りください。  


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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