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朗読箇所

四旬節第3主日

旧約 イザヤ書25:1-10

◆神の驚くべき御業
1 主よ、あなたはわたしの神
わたしはあなたをあがめ
御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された
遠い昔からの揺るぎない真実をもって。
2 あなたは都を石塚とし
城壁のある町を瓦礫の山とし
異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう。
3 それゆえ、強い民もあなたを敬い
暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。
4 まことに、あなたは弱い者の砦
苦難に遭う貧しい者の砦
豪雨を逃れる避け所
暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨
5 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように
異邦人の騒ぎを鎮め
暴虐な者たちの歌声を低くされる。
6 万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7 主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
10 主の御手はこの山の上にとどまる。


新約 マルコによる福音書15:16-20

◆兵士から侮辱される
16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

説教

低くされた者を高める神の憐れみ

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    神はどのような方であるのか。
    たぶん、わたしたちはみな、
    それぞれ自分の考えや思いがあります。
    そこには神についての願望が込められ、
    自分の限られた神知識に基づき、
    文化や社会の通念が入り込み、
    自分の心理や環境、人間関係から来る、
    トラウマや恐れやあこがれが影響しています。
    ある人にとって、神は恐ろしい審判者、
    ある人にとって、神は自分の親の投影、
    ある人にとって、神は何でも赦す過保護な親。
    権威のある人が神はこうだと言えば、
    そういうものだと思い込んでしまいます。
    実際、歴史の中でそれはよくある話でしあ。
    身分の高い聖職者や学者の考えが、
    神についてのイメージを形作り、
    あるいは教会の権力保持のため、
    神はこうだと都合良く主張することで、
    神はどのような方かを、
    人間が造り上げてきました。
    十六世紀の宗教改革者たちの、
    「聖書が教会の最高権威だ」
    というスローガンを掲げたのは、
    こうした人間の誤りを正すためでした。
    人間が神はどのような方かを語るのではなく、
    聖書がどう語っているかこそが、
    神はどのような方かを知るための、
    最高の権威だと明らかにしたのでした。
    わたしたちにとって重要なことは、
    神はどのような方かを、
    わたしの意見や他の誰々の意見ではなく、
    聖書をとおしてはっきり知ることができる、
    ということです。
    そのような確信に立って聖書を読むと、
    わたしたちは聖書が一貫して、
    神が愛であり、正義の神であることを、
    明確に語っていることに気付かされます。
    それは旧約聖書が物語る天地創造から、
    イエス・キリストに至るまで、
    聖書全体を貫く不変の事実です。
    特に新約聖書が物語るイエス様は、
    神の愛が人となって世に来られた、
    神の愛の表れそのものです。
    だから新約聖書のヨハネの手紙は、
    「神は愛である」と言い切りました。
    愛には、愛する対象があります。
    自分自身を愛することについて、
    聖書は否定していません。
    自分を愛することは大切で必要です。
    しかし、自分しか愛さない、
    いわゆる自己愛だけでは、
    その愛は不健全です。
    愛は自分の外に向けられるときに、
    真実なものとなるからです。
    では、神の場合はどうなのでしょうか。
    「神は愛である」という言葉は、
    神の本性が愛であるという意味です。
    神は何を・誰を愛するのでしょうか。
    神が愛であるということは、
    永遠の神ご自身の内に、
    永遠の愛の対象があるはずです。
    教会は最初からある確信を抱いていました。
    イエス・キリストの父なる神はもちろん、
    イエス・キリストご自身も神であり、
    聖なる神の霊も神であると。
    神の内に父と子と聖霊という、
    三つの在り方の区別があると信じました。
    しかし、区別はあるが、
    父と子と聖霊が唯一のただひとりの神。
    それはどういうことなのかについて、
    教会が得た確信はこうです。
    父と子と聖霊を一つに結ぶのは、
    互いへの愛であると。
    永遠の完全な愛が父と子と聖霊を結び、
    その愛のきずなのゆえに、
    神は三つにいましてひとりの神である。
    その事実を言い表す言葉が、
    三位一体という用語です。
    しかし、神の内における互いへの愛は、
    それが真実で完全であるとしても、
    言い方を変えるなら、
    父なる神の子なる神への愛が、
    深く完全であり、
    子なる神キリストの父への愛が、
    深く揺るぎないものだとしても、
    三位一体の神の内においてだけであれば、
    その愛は閉ざされたものになります。
    愛には拡がりが必要です。
    愛の対象は限定的であることはできません。
    愛には定員を設けることはありませんから。
    神が世界を創造したのはなぜか。
    その理由と動機について、
    ほんとうのところは神の御心の内にあって、
    神の内に秘められていることです。
    しかし、わたしたちはある程度の確信を持ち、
    こう信じることができます。
    神は神の外に愛すべき対象を求めたと。
    神は世界を創造し、この世を愛されました。
    特に神は、人を人格的存在として創造し、
    命を与えて人を愛しました。
    一方通行ではなく、
    神と人が互いに人格的に愛し合うために。
    そこで神は人に自由な意志を持つ人格を与え、
    神と人が愛の交わりを生きることを願いました。
    神が愛を神ご自身の内側で完結させてしまわず、
    神の外に愛の対象を持ち、
    なかでも神と人が互いに愛し合うためでした。
    神はひとたび世界と人間を創造したからには、
    神は世界と人間への愛を貫きとおします。
    神は気まぐれな方ではなく、
    愛と正義において一貫した方だからです。
    パウロの手紙1コリント13章によれば、
    「愛は情け深い、ねたまない。
    愛は自慢せず、たかぶらない。
    礼を失せず、自分の利益を求めず、
    いらだたず、恨みを抱かない。
    不義を喜ばず、真実を喜ぶ」。
    そうであるとするなら、
    愛する者が本来の創造の姿から堕落し、
    みじめさの中で嘆くのを見るなら、
    神は人を愛するゆえに心を痛め、
    深く悲しむことでしょう。
    そして、愛する者への深い同情を抱きます。
    そのような時、
    愛は憐れみ深さとして表されます。
    だから愛の神のことを、
    聖書は憐れみ深い神であるとも語るのです。
    同じように、
    神はご自分の愛する人々が、
    弱い者とされているとき、
    虐げられているとき、
    苦難の中にあるとき、
    そして悪の犠牲にされているとき、
    神はその愛を憐れみ深さとして、
    それらの人々に向けるはずです。
    この世界は人間の罪に満ちています。
    人の罪がもたらす苦難、暴力、
    不正義、神からの離反が満ちています。
    だから聖書は神を繰り返し、
    憐れみ深い神としても物語るのです。
    神のそうした本性は、
    天地創造のはじめから表されてきました。
    たとえば、神はアダムとエヴァを、
    自由な意志を持つ存在として創造し、
    彼らとの人格的な愛の交わりを願いました。
    二人が彼らの自由を保障する、
    ただ一つの神の戒めを破って、
    食べてはならないと言われた、
    善悪の知識の木からの実を食べ、
    その結果エデンから出ることになったとき、
    神は怒りで二人を追放するのではなく、
    二人に皮の衣を作って着せたのでした。
    わたしには神が憐れみ深く、
    二人をエデンから外へと送り出した。
    そのように感じられます。
    それ以後も神は人々が離反を繰り返しても、
    人に対する愛を失うことなく、
    世界と人間の悲惨な現実を憐れみ、
    繰り返し憐れみの手を差し伸べてきました。
    神の愛が憐れみ深さとして、
    もっとも強く向けられるのは、
    聖書全体をとおして、
    弱い者、虐げられている者、
    強い者や権力者や大富豪の貪欲や、
    彼らの冷淡さのゆえに苦しむ者、
    貧しくされた者、悲嘆に沈む者たちです。
    神が遣わしてくださる救い主は、
    そのような者たちを愛し、憐れみ、
    救いの手を差し伸べる方。
    そのことをもっとも力強く歌ったのは、
    主イエスの母となられるマリアでした。


    主はその腕で力を振るい、
    思い上がる者を打ち散らし、
    権力ある者をその座から引き降ろし、
    身分の低い者を高く上げ、
    飢えた人を良い物で満たし、
    富める者を
    空腹のまま追い返されます。
    その僕イスラエルを受け入れて、
    憐れみをお忘れになりません。
    (ルカ1:51−54)


    神は低い者を高め、
    高ぶる者を低くされる神。
    神の憐れみが神の正義とつながるのです。
    もちろん、神は自動機械ではありません。
    いつでもどこでもすぐに、
    そのようになるわけではありません。
    神は人に自由な意志を与えました。
    神は人の意志を尊重なさる方です。
    たとえそれが神の御心に反するとしても、
    人々が自分の意志で悪をおこない、
    他の人々を苦しめ、苦しめ、
    暴力の極みをおこなうとしても、
    神はそのつどすぐに介入なさいません。
    だからといって、
    神は無関心に放置してはいません。
    神はすべてを見ておられます。
    神は心を振るわせ、嘆き悲しみつつ、
    忍耐して、目を背けることをせず、
    すべてを見ておられます。
    そして、時として、
    神が憐れみ深い正義の神であることを、
    人々に表すために、
    小さな者を助け、
    高ぶる者を権力の座から引き降ろします。
    しかし、それはしるしとして起きることで、
    いつも必ずということではありません。
    だから神を畏れることをしない人は、
    神などない、裁きなどないと思い込み、
    高ぶりと冷淡、無慈悲であり続けます。
    苦難と暴力にさらされている人は、
    神の助けがないと思い込むとき、
    神に失望します。
    しかし、そうではありません。
    神は憐れみ深い神。
    もっとも低められ小さくされ、
    虐げられ苦しめられている者たちに、
    神の憐れみの目は向けられています。
    この世界は人間の罪によって損なわれ、
    不義、悪、不正、貪欲、高慢、
    暴力、そして無関心と冷淡が満ちています。
    その現実から神は目を背けず、
    憐れみのゆえに神の心は震え動いています。
    イエス様の裁判、虐待、十字架を見ると、
    神が目を向けず何もなさらないかのようです。
    きょうの福音書で主イエスは、
    十字架にかけられるその前、
    ひどい虐待をローマ兵から受けます。
    神の御子のこれほどの苦難に、
    なぜ神は沈黙しておられるのか。
    その疑問がわたしたちを苦しめます。
    神の御子に対して無関心なのだとしたら、
    神はわたしの苦難の時にも、
    無関心なままではないのか。
    その恐怖が心をよぎります。
    たしかに、神はイエス様の苦難に介入せず、
    主イエスを殺そうとする人々を打ち倒さず、
    主イエスを虐待するローマ兵を滅ぼさず、
    主イエスを磔にする十字架を吹き飛ばさず、
    あたかも神はなにもせず、
    御子から目を背けたままであるかのようです。
    いいえ、神は見ておられます。
    深い慟哭と痛みを抱えながら。
    神の憐れみ深い目は、
    その時の御子イエスに向けられています。
    人々から蔑まれ、
    低さの極みに落とされてゆく、
    愛する我が子に、神は目を注ぎます。
    神は憐れみのゆえに低くされた者を高める神。
    それゆえに、神は御子を地の底から、
    低さの極みである陰府から引き上げ、
    復活させて天の神の右の座へと高めます。
    マルコによる福音書がなぜ、
    主イエスに対する暴力と虐待、
    そして主イエスの十字架のことを、
    これほどまでに詳しく物語るのか。
    その理由は、この方が、
    すべての人々の中でもっとも、
    苛酷な暴力と虐待によって命を奪われ、
    もっとも低さの極みに落とされたことを、
    はっきりと告げ知らせるためです。
    そしてもう一つの理由は、
    すべての人が主イエスの苦難と死に、
    「わたしは関係がない」と言わないためです。
    たしかに、その時その場にいたのは、
    二千年前のエルサレムにいた、
    あの祭司長や律法学者、
    ピラトやローマ兵、
    そして群衆です。
    でも、時代を超えてすべての人々は、
    それらの人々の中のどこかにいます。
    神を十字架につける仲間の一人として。
    なぜなら、十字架につけられる主イエスは、
    この世界で苦難を受け、犠牲にされる、
    すべての人々を象徴しているからです。
    だからわたしたちを含めて全ての人は、
    十字架の主イエスによって、
    赦されることが必要です。
    神は主キリストを低い所から引き上げ、
    天の御座へと高めます。
    しかし、それは今ではありません。
    御子がもっとも低い所へと降った、
    その後のことです。
    今はただ、
    わたしたちは思い起こしましょう。
    神の憐れみは低くされた者を高めることを。
    そして、低くされている者に、
    憐れみの目を向ける人々に対しても、
    神は憐み深くあってくださることを。
    わたしは心から願います。
    神がわたしにも、
    憐れみ深い目を向けてくださるようにと。
    皆さんは?



週報より

  • 2022.03.20 週報より抜粋・要約

  • ・月報『モレノ』4月号ができました。 
    原稿をくださった方、
    製作してくださったモレノ・チームに
    感謝します。
    リフォームが完了した別館の写真が
    掲載されています。
    内覧会にいらっしゃることのできない方も、
    写真をお楽しみください。
    とてもすてきな牧師館に仕上がりました。

    ・神学校の入学試験の結果、
    二名の方の入学が決まりました。
    在校生のお二人は最終学年です。
    よい学びと研修ができるよう、お祈りください。
    学牧師の授業は4月4日から始まります。

    ・日本キリスト教協議会(NCC)をとおして、
    ウクライナへ募金をします。
    先週の募金額は38,000円で、
    火曜日に送金しました。
    日本聖書協会も
    支援物資と聖書を送る支援を始めました。
    現地で支援活動をしている
    ウクライナ聖書協会への支援です。
    そこで、きょうの募金は
    ウクライナ聖書協会への募金とさせてください。
    募金にご協力くださる方は、
    赤い屋根の箱に入れてください。
    ロシアの政権交代と、
    ロシア軍の侵略行為の即刻停止を祈ります。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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