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朗読箇所

四旬節第4主日

旧約 イザヤ書57:1-2


1 神に従ったあの人は失われたが
だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても
気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。
2 しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。


新約 マルコによる福音書15:21-32

◆十字架につけられる
21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、
その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
28 (†底本に節が欠落 異本訳)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」
31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

説教

わたしたちの救いは神から来る

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    イエス様が引き出されてゆきます。
    行く先はゴルゴタという場所。
    意味は「されこうべ」(頭蓋骨)。
    そこが処刑場だったから、
    こんな名前がついたのでしょうか。
    ここが十字架による処刑の場所でした。
    イエス様が捕らえられていた総督官邸から、
    ゴルゴタまでは、直線でおよそ四百メートル。
    道なりの距離は
    もう少し長かったことでしょう。
    ふつうに歩くなら十分ほどでしょうか。
    しかし、数時間にわたる暴行を受けた後、
    十字架の横木を担いでの道行きです。
    百メートルでさえ困難だったはずです。
    古代は、いや、ごく近代まで、
    死刑は世界のあらゆる国で見世物でした。
    死刑が執行されるときには、
    大勢の人々が見物に集まりました。
    イエス様の十字架の道行き、
    教会では「悲しみの道」と呼ばれてきた、
    その道沿いにも人々が群がっています。
    途中、イエス様が何度もふらつき倒れる、
    その有様を見たローマ兵たちが、
    もうこれ以上は無理だと考えたのでしょう。
    近くにいた見物人の一人を引き出して、
    無理矢理イエス様の十字架を背負わせ、
    代わりに運ばせたのでした。
    その人の名前が伝えられています。
    シモン。
    ユダヤではよくある名前です。
    だから、シモンはたぶんユダヤ人。
    しかしユダヤ出身ではありません。
    出身地がキレネだというのですから。
    キレネは地中海の近くにあった、
    北アフリカの町の名前です。
    だからシモンは、
    おそらくディアスポラのユダヤ人。
    祖国ユダヤを離れて世界各地に離散した、
    ユダヤ人の子孫の一人なのでしょう。
    過越の祭りのためにエルサレムに来たか、
    あるいはマルコ福音書によると、
    「田舎から出て来て通りかかった」人。
    聖書協会共同訳のもっと正確な訳では、
    「畑から帰ってきて通りかかった」人。
    ですから、キレネからエルサレムに移住し、
    自分の畑を持っていたか、
    あるいは小作人であったかもしれません。
    そんなシモンが通りかかったというのです。
    ということは、シモンの場合、
    死刑を見物するために来たのではありません。
    まったく偶然居合わせただけです。
    そんなシモンにローマ兵は目を付けます。
    体格がよかったからなのかもしれません。
    目をつけられたシモンこそいい迷惑。
    逆らえませんから、彼が担いで行きます。
    ゴルゴタまでの道を。
    マルコはこのシモンについて、
    実に奇妙な紹介の仕方をしています。
    「アレクサンドロとルフォスの父」と。
    ユダヤで誰かを紹介するときは、
    「誰々の子、なにがし」と書きます。
    たとえば「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」、
    あるいは「アルファイの子レビ」と。
    「誰々の父」という、
    系図を遡る仕方で紹介されるのは、
    めったにないことです。
    マルコはシモンの紹介でそうするのです。
    「アレクサンドロとルフォスの父シモン」と。
    なぜ、通常とは逆さまの紹介なのか。
    その理由は、ほぼ疑う余地がありません。
    アレクサンドロとルフォスという兄弟は、
    マルコの教会で良く知られた人物だということです。
    ああ、あの二人の父親かと。
    マルコはもしかすると、
    少し誇らしげにこの二人の名を挙げたでしょうか。
    イエス様の十字架を代わりに担った人の、
    二人の子どもたちはわたしたちの教会の兄弟です。
    その誇りを込めてこんな書き方をしたかと思います。
    でも、マタイやルカの教会では、
    この二人の兄弟は知られていませんから、
    マタイとルカの福音書には、
    シモンは登場しますけれど、
    アレクサンドロとルフォスの名は省略されました。
    とても興味深いのは、
    十字架を無理に負わされたシモンの息子たちが、
    イエス様を信じるようになっていたことです。
    その父親、十字架を担いだシモンはどうだったか。
    それはわかりません。
    推測できることは、
    マルコ福音書が書かれた時、
    息子二人は良く知られていたが、
    父親のシモンは知名度が低かったことです。
    ずいぶん前に亡くなっていたのかもしれません。
    福音書が書かれたのは、
    イエス様の十字架から三十数年後ですから。
    シモンも初代のクリスチャンとなり、
    シモンはすでに天に召されて久しいが、
    二人の息子たちは今も教会にいる。
    そういうことだと考えておきましょう。
    彼らは十字架にかけられて死んだ主イエスを、
    救い主と信じたのでした。
    イエス様の十字架の死。
    そこに、神の救いの働きを見たのでした。
    イエス様の十字架を見上げていた群衆は、
    イエス様を信じた少数の人々とは正反対でした。
    処刑を見物に来た人々、
    仕事として十字架を執行するローマ兵、
    そしてイエス様を殺そうと企んできた、
    祭司長や律法学者たち。
    それらの圧倒的多数の人たちは、
    十字架上のイエス様を見上げてののしり、
    あざけり、笑いものにするのです。
    祭司長と律法学者たちが、
    イエス様に侮辱の言葉を投げかけます。
    「他人は救ったのに、自分は救えない。
    今すぐ十字架から降りるがいい。
    それを見たら、信じてやろう」。
    彼らのこの言葉がいったいどういう意味か、
    わたしにはずっと疑問でした。
    イエス様が十字架から降りるのを見たら、
    いったい何を信じようと言うのでしょうか。
    十字架のイエス様を救い主と信じる、
    ということでないのは確かです。
    十字架から降りて自由になってみせたら、
    信じてやろうというのですから。
    奇跡を起こせることを信じるのでしょうか。
    あるいは自分を救う力があることでしょうか。
    この疑問についていろいろ考え、
    思い巡らしてゆくなかで、
    わたしはある確信にいたりました。
    十字架から降りて見せたら、
    自分を救えるのだと信じてやろう。
    そういう意味であったに違いありません。
    自分を救う力があると信じよう。
    それこそが彼らの価値観でした。
    そして、それがこの世界で、
    大多数の人が価値と信じることです。
    つまり「自分を救う」力があることが、
    最大の価値と信じられています。
    わたしには自分を救う力がある。
    それが人々の自信と自慢の源であり、
    親が子どもたちに教え込む価値もそうです。
    自分で自分を救えるようになれ。
    そういうことではないでしょうか。
    学校も社会も、その価値を人々に教え、
    植え付けてきました。
    自分の力で自分の立場を確保すること、
    自分の力でそれなりの成功を収めること、
    自分の力で地位を築くこと、
    自分の力で財産や権力を獲得すること。
    それが救いであり、
    自分を救うことなのだと。
    自分を救えない人は軽べつされ、
    あざけられ、低く見下され、
    世の敗北者とみなされます。
    特にいまの時代では、
    自分を救えないと見なされた人には、
    「自己責任」という言葉が向けられます。
    祭司長や律法学者が言い放った、
    十字架上のイエス様への言葉は、
    まさにそういう意味でした。
    おまえは自分で自分を救えない敗北者だと。
    そのレッテルを貼って罵ったのでした。
    彼らはイエス様を恐れ、
    危険人物とみなしてきました。
    イエス様の教える愛と憐れみが、
    彼らにとって脅威だと悟ったからです。
    愛と憐れみ。
    それらこそ、彼らの依存してきた、
    自分を救えることこそが価値だという考えを、
    根底から覆す危険思想だったからです。
    祭司長や律法学者らの信じていたことは、
    自分たちは律法を守り正しく生きているから、
    神の祝福を得て名誉と地位と富を与えられている。
    自分たちは自分を救うことができているのであり、
    貧困者や下層民や病人らは、
    自分を救えない罪びとだから、
    そのようなみじめさの中にある。
    そういうことが彼らの信じていたことでした。
    今で言う自己責任という言葉と考えは、
    古代から変わらずあったのです。
    そうした考えに基づいて築かれる社会を、
    愛と憐れみは根底から覆します。
    愛と憐れみは自分を救うことではなく、
    他人を救うこと、
    特に小さな者、弱い者を救うことだからです。
    自分を救うことに価値を置かないなど、
    祭司長や律法学者に象徴される、
    自分を救うことが価値あることだと信じる、
    そのような人々には理解できないことです。
    逆に、彼らの安全と安泰を脅かす危険思想です。
    そんな教えを説き、おこなってきたイエスは今、
    彼らの策略により十字架の上にいます。
    イエス様の命といっしょに、
    その危険な教え、
    愛と憐れみも十字架にかけられました。
    勝ち誇った祭司長や律法学者らが、
    イエス様を揶揄し、罵倒します。
    あとはその死を待つばかり。
    自分を救うことがいちばん価値あること。
    その確信を彼らは、
    イエス様の十字架の場でいっそう深めます。
    そうでしょうか、彼らが正しいのでしょうか。
    自分を救うことがいちばんの価値となるとき、
    自分を救うことのできる人と、
    自分を救うことのできない人が分断され、
    自分を救うことができていると思う人が、
    この世を支配するようになります。
    みんなが自分を救うことを追い求め、
    成功した人は支配者となり、
    自分を救えない人は敗北者として、
    自分を責め、仕方が無いとあきらめる。
    そういう世の中になります。
    国家が自分を救うことを最高の価値とするとき、
    その国家は覇権主義に陥ります。
    マルコ福音書8章35節でイエス様は、
    こういう言葉を教えました。


    自分の命を救いたいと思う者は、
    それを失うが、
    わたしのため、また福音のために
    命を失う者は、
    それを救うのである。


    イエス様に向かって祭司長や律法学者が放った、
    自分を救えば、信じようと言った言葉は、
    自分を救うことができるなら、
    おまえはこちら側の仲間だと信じよう。
    そういう意味ではなかったでしょうか。
    自分を救うことができる、
    そう信じることは、
    自分の救いは自分で勝ち取ることができる、
    そう信じることです。
    だから、自分を救うということは、
    彼らにとって人間の手の及ぶ程度のもの。
    この世の何かに救いを依存することです。
    それが何であれ、
    財産であれ、社会的地位であれ、
    名誉であれ、権威であれ、
    領土であれ、支配であれ、
    この世の何かが救いになる、
    そう信じることです。
    だから、その何かが失われるなら、
    自分の命を失うことになります。
    そして、命を失うとき、
    その先に何もないことに気付くことでしょう。
    それがすべての終わりです。
    命を失うとき、命を得る。
    そのイエス様の言葉は、
    命の終わりは命のはじめだと信じる人には、
    意味のある言葉となります。
    しかし、自分を救おうとする人は、
    命の終わりと共に救いも終わります。
    わたしたちは自分を救うことは、
    わたしたち自身にできないし、
    またするべきことではないと信じます。
    わたしたちの救いは、
    この世の何かから来ることはなく、
    自分の手で獲得するものでもないからです。
    わたしたちの救いは神から来ます。
    十字架の上で命を失い、
    神の力によってよみがえらされた、
    神の御子イエス・キリストから来る。
    それがわたしたちの信じていることです。
    神の国と永遠の命は、
    主キリストの十字架と復活をとおして、
    わたしたちに約束されているのですから。



週報より

  • 2022.03.27 週報より抜粋・要約

  • ・先週のウクライナ支援募金は
    ウクライナ聖書協会に送りました。
    ウクライナ聖書協会は、
    近隣諸国の聖書協会の協力も得て、
    必要な食料、医薬品その他の物資を
    ウクライナ国内外に配布し、
    難民や戦場と化した地域の人々に
    届ける活動をしています。
    日本聖書協会をとおして、
    先週の募金¥27,500円を捧げました。
    きょうのウクライナ募金は、
    ウクライナ・ナザレン教会に送ります。
    詳しくは会堂うしろに掲示した
    「理事長書簡」をご覧ください。 
    募金は受付テーブルの
    赤い屋根の募金箱に入れてください。
    ゆうちょ振替口座でも受け付けます
    (通信欄に目的を書いてください)。

    ・復活祭(イースター)献金にご協力ください。 
    教会の働きの他に、世界宣教、
    アジア学院その他に募金します。
    受付テーブルに献金袋がありますので、
    ご利用ください。
    教会のゆうちょ振替口座にご送金くださる方は
    目的を明記してください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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