小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  神に叫ぶ神

朗読箇所

四旬節第5主日

旧約 エレミヤ書17:14-18

◆エレミヤの嘆き
14 主よ、あなたがいやしてくださるなら
わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら
わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。
15 御覧ください。彼らはわたしに言います。「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい」と。
16 わたしは、災いが速やかに来るよう
あなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じです。わたしの唇から出たことは
あなたの御前にあります。
17 わたしを滅ぼす者とならないでください。災いの日に、あなたこそわが避け所です。
18 わたしを迫害する者が辱めを受け
わたしは辱めを受けないようにしてください。彼らを恐れさせ
わたしを恐れさせないでください。災いの日を彼らに臨ませ
彼らをどこまでも打ち砕いてください。


新約 マルコによる福音書15:33-41

◆イエスの死
33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

説教

神に叫ぶ神

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    イエス様の御受難を思い起こす四旬節は、
    あと二週間を残すだけとなりました。
    来週は受難週です。
    何週間もかけてご受難をたどってきました。
    しかし、実際にはゲツセマネの園での逮捕から、
    十字架の死に至るまでの時間は、
    十二時間ほど。
    わずか半日の間の出来事です。
    半日というと、とても短く感じられます。
    しかし、時間の長さは
    何を体験しているかによって、
    大きく感じ方は異なるものです。
    ぼんやりとテレビを観て過ごすなら、
    半日などあっという間でしょう。
    しかし、意識を失うことさえ許されない、
    想像を絶する痛みと苦しみの中では、
    一分と言えども無限に近く感じることでしょう。
    マルコ福音書はイエス様のご受難の出来事を、
    三時間ごとに区切る仕方で物語ります。
    実際、イエス様のご受難には、
    いくつかの大きな節目があります。
    それが三時間という時間の幅で起きるのです。
    その事実にマルコは、
    何か意味あるいは不思議を感じたのでしょう。
    マルコは意図的に、
    三時間ごとの区切りに基づいて、
    この半日ほどの出来事を語ります。
    夜中に逮捕され、
    大祭司に訊問されます。
    逮捕から三時間後の夜明けに、
    イエス様はローマから派遣されていた、
    総督ピラトの官邸に連行されます。
    そこでピラトから十字架刑を言い渡され、
    処刑をおこなう役割のローマ兵らに引き渡され、
    暴行と虐待を受けることになります。
    イエス様が十字架を負ってゴルゴタへと歩かされ、
    十字架につけられたのは三時間後の午前九時。
    そしてそれから三時間後、昼の十二時に、
    全地が闇に包まれたとマルコは伝えています。
    それから三時間後の午後三時。
    イエス様が神に向かって叫ぶのです。
    兵士たちがイエス様を十字架につけたのは午前九時。
    しかし、十字架につける作業は、
    時間のかかる仕事でした。
    24節「兵士たちはイエスを十字架につけて」
    という文の「十字架につける」という動詞を、
    マルコは現在形で表現しました。
    直訳すると、
    「彼らは彼を十字架につけている」。
    ギリシア語の現在形には時間の幅があります。
    あたかも現在進行形のように。
    その動作が継続しておこなわれたことを意味します。
    おそらくマルコは、
    ここで「十字架につけた」ではなく、
    現在形の「十字架につけている」という表現を、
    あえて、意図的に用いたのでしょう。
    十字架につけるのは、
    一連のむごい作業だからです。
    おそらく足を重ねて五寸釘より太い釘で、
    十字架の木材に打ち付けて固定します。
    手首の骨と骨の間を横木に打ち付け、
    それだけでは裂けてしまいますから、
    縄で腕を縛ってから、
    釣り上げるか十字架を立てて固定する、
    その一連の工程が必要です。
    十字架につける作業が一瞬のことではなく、
    苦痛を増し加えてゆく残虐行為であったことを、
    継続の動作を表す現在形を用いることで、
    直接の描写をすることなしに、
    読者にありありと想像させるのです。
    午前九時にイエス様は十字架にかけられました。
    勝ち誇った祭司長や律法学者らが、
    イエス様をののしり、あざけります。
    それから三時間。
    同情も憐れみも慰めの言葉もなく、
    向けられるのは侮辱と悪意を込めた嘲笑。
    死に至るまでの無限と思われる時間を、
    イエス様は完全な孤独の中で過ごします。
    十字架にかけられての三時間。
    それが十字架上のイエス様にとって、
    どれほど長く感じられたことでしょうか。
    ただひとり、十字架の上で、
    主イエスはいったい何を思い、何を願い、
    何を祈ったでしょうか。
    マルコは人々や祭司長、
    律法学者らが、イエス様に向かってののしり、
    あざけったこと以外、何も伝えてはいません。
    イエス様にとって限りなく長い三時間が過ぎて、
    昼の十二時になると、
    「全地は暗くなり、それが三時まで続いた」。
    マルコはそう物語ります。
    なにが全地を闇で覆ったのか、
    全地が暗くなった原因はわかりません。
    この闇の拡がりは何を意味するのかを、
    マルコは読者の想像に任せます。
    何かのしるしなのでしょうか。
    容赦なく照りつける日差しから、
    せめて神の御子を守ろうとする、
    神の憐れみによる配慮なのでしょうか。
    あるいは父なる神が御子に対して抱く、
    深い憐れみと嘆きの思いが、
    全地にまで及んだということでしょうか。
    あるいは、神から何の助けも来ず、
    奇跡は起きず、神にも見捨てられたのかという、
    イエス様の霊的な絶対孤独が、
    世界を闇に閉ざしたのでしょうか。
    その場に居合わせた人々は、
    何事かと恐れを抱きながら、
    空を見上げ、周囲を見まわしますが、
    それ以上なにも起きることはありません。
    そのまま、さらに三時間が過ぎ、
    無限と思われる苦悶の時間が流れてゆきます。
    そして午後三時。イエス様がついに口を開きます。
    イエス様の口から発せられたのは、
    おそらくイエス様が日常に用いていた言葉、
    アラム語での叫びでした。


    エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。


    イエス様が発した意味のある言葉としては、
    これが最後の言葉でした。
    その意味をマルコは訳して伝えています。


     我が神、我が神、
    なぜわたしをお見捨てになったのですか。


    この最後の言葉がいったい何を意味するのか。
    この二千年、ずっと議論されてきました。
    これは旧約聖書の詩編22編の引用でしょうか。
    たしかに、詩編22編はこう歌います。


    わたしの神よ、わたしの神よ。
    なぜわたしをお見捨てになるのか。


    さらにこの詩編は続けてこう歌います。


    なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、
    呻きも言葉も聞いてくださらないのか。


    まさしく、十字架上のイエス様の姿を、
    この詩編は歌っているかのようです。
    しかし、詩編22編は激しい嘆きと悲嘆の後、
    後半で神への賛美と信頼を歌って終わります。


    主は貧しい人の苦しみを
    決して侮らず、さげすまれません。
    わたしの魂は必ず命を得
    子孫は神に仕え
    主のことを来たるべき代に語り伝え
    成し遂げてくださった恵みの御業を
    民の末は告げ知らせるでしょう。


    もしイエス様が詩編22編から引用したのなら、
    たとえ引用そのものは最初の一節だけだとしても、
    イエス様は詩編の後半部分、
    神への信頼の歌を念頭におきながら、
    この詩編を引用したにちがいない。
    ある研究者たちはそのように結論付けます。
    十字架の上でさえ神への深い信頼を寄せて、
    主イエスは詩編22編を口にした。
    そういうことなのでしょうか。
    そうだとしたら、十字架の苦しみは、
    ハッピーエンドが決まっているドラマの中での、
    一時的な波乱の部分にすぎず、
    イエス様もそのことを知っていたことになります。
    ほんとうにそうでしょうか。
    もし、イエス様は詩編22編から引用し、
    神への信頼を表明したのだとすれば、
    あるいは福音書記者マルコが、
    主イエスの言葉は
    詩編22編の引用だと考えたなら、
    マルコはこの言葉を、
    旧約聖書のギリシア語訳から引用するか、
    あるいはヘブライ語で引用したはずです。
    そうであれば、
    「我が神、我が神」という呼びかけは
    「エロイ、エロイ」ではなく、
    「エリ、エリ」であったはずです。
    だからこのイエス様の叫びは、
    詩編の引用ではなく、
    イエス様の魂の底からの、
    神に向かっての叫び。
    そう考えるべきです。
    文字通り、
    主イエスはそのとき、
    叫んだのです。
    神の御子が神に向かって。
    神に向かって叫ぶ神の叫び。
    そうに違いありません。
    「神よ、なぜ、あなたはわたしを見捨てたのか」。
    きっと、極限の苦痛と精神の限界の中で、
    だれもが発する叫びが、
    このイエス様の叫びに集約されています。
    霊的な悲嘆の中で人が発する叫びを、
    主イエスも想像を絶する痛みと苦しみの中で、
    神に向かって叫んだのでした。
    イエス様の最後の叫びは、
    苦痛と悲嘆の死を遂げる、
    全ての時代の全ての人々の叫びを集約し、
    象徴する叫びです。
    それが自然災害による苦難であれ、
    戦争や殺戮の現場であれ、
    重い病や事故によるものであれ、
    苦悶と恐怖の中で死にゆく人々が、
    神に向かって叫びます。
    いまウクライナでそれほど多くの人が、
    神に向かって叫びを上げていることか。
    「我が神、我が神、なぜわたしを見捨てるのか」と。
    誰でも苦難のただ中にあるとき、
    誰かがそこにいてくれて、
    同情と共感を込めて手を取ってくれたら、
    嘆きは消えることはなくても、
    魂は慰めを感じることができるでしょう。
    嘆きと苦悩を分かち合ってくれる人がいれば、
    霊的な痛みは和らぐことでしょう。
    だが、もし、苦難の中にあるとき、
    誰も憐れんではくれず、
    誰も共感してくれず、
    嘲りと侮辱だけを投げつけられる中で、
    孤独の死を遂げるとしたら、
    それはどれほど恐ろしいことでしょうか。
    そのような中でも、
    神はわたしを見捨てないと信じられるなら、
    神が共にいて支え、助けを与え、
    慰めてくださることを実感できるなら、
    人は絶対孤独の絶望に飲み込まれ、
    深い闇の淵に落とし込まれる恐怖の中で
    死を迎えることから救われることでしょう。
    イエス様はどうだったのでしょうか。
    十字架の上で死にゆくその時、
    イエス様は何を思い、
    何を考えたでしょうか。
    六時間にもわたる、
    無限と思われるような、
    苦悶の時間が流れてゆきます。
    天を見上げるイエス様は、
    天に何を見たのか。
    照りつける太陽のまぶしさでしょうか。
    昼になって拡がった闇を見たでしょうか。
    しかし、イエス様を救い出し、
    十字架から下ろすための天使を神は遣わさず、
    神の手はイエス様を助けるために伸ばされず、
    あざける悪しき者が打ち倒されることはなく、
    慈悲深い死もなかなか訪れず、
    ただ神の沈黙だけがその場を支配します。
    「なぜ、わたしをお見捨てになったのか」。
    なぜ、神の助けが来ないのか。
    なぜ、神はご臨在を示してくださらないのか。
    この「なぜ」という叫びは、
    その時のイエス様の真実の叫び、
    魂の底からの叫びのはずです。
    いったいどれほど多くの人たちが、
    イエス様と同じように、
    この叫びを上げてきたことでしょうか。
    深い淵の底で、闇の中で、苦難の中で、
    どれほど多くの人たちが、
    イエス様の十字架の叫びを聞くとき、
    ああ、イエス様はわたしと同じだ、
    わたしといっしょにこの深い淵の底におられる、
    わたしといっしょに闇の中に来ておられる。
    そのように実感することでしょうか。


    「なぜ」なのか。なぜ苦難に遭うのか。
    なぜ神は沈黙しておられるのか。
    その「なぜ」に対する答えは、
    わたしたちの中にはありません。
    神の御子でさえ、
    人となって世に来られたからには、
    答えを持ち合わせてはいません。
    神の御子でさえ、
    「神よ、なぜなのですか」と問うものの、
    答えはその時に与えられません。
    悲痛の叫びをあげる主イエスの姿は、
    神に叫ぶ神の姿です。
    ここで改めて、考えて見ましょう。
    この主イエスの叫びは、
    神の御子の、
    神に対する絶望の叫びでしょうか。
    この叫びは、
    神の御子が神への信頼を抱くことが出来ない、
    落胆と嘆きの叫びなのでしょうか。


    「なぜ」と問うても答えは知ることができない。
    それは神の御子についてもそのとおりでした。
    わたしたちもいつか神に問うことでしょう。
    我が神、我が神、なぜわたしを見捨てるのかと。
    答えはありません。
    この世においては。
    しかし、それは、答えがないこととは違います。
    最後の、そして究極の答えは、
    この世界の中にはありません。
    そのことを主イエスがいちばんご存じでした。
    死も嘆きも過ぎ去り、
    目から涙がぬぐい取られる、
    そのことが現実となる、
    天の御国において、
    すべては明らかにされる。
    そのことだけは、答えの得られない
    「なぜ、わたしを見捨てたのか」
    という問いを発するその瞬間にも、
    イエス様が抱いておられた確信だったはずです。
    だから主イエス・キリストは、
    主の祈りの中でわたしたちに、
    「こう祈りなさい」と教えました。
    「御国を来たらせたまえ」。
    「なぜわたしを見捨てたのか」という叫びの中に、
    わたしは声には出されないもう一つの
    主イエスの叫びを
    このイエス様の叫びの中に感じるのです。
    「天の父よ、御国を来たらせたまえ」と叫ぶ魂の声を。

     主キリストの恵みと平和が、
    皆さんと共にありますように。



週報より

  • 2022.04.03 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは両牧師が不在の礼拝です。
    皆さまのご協力と礼拝へのご参加、
    心より感謝します。    

    ・今週水曜日と金曜日は、
    日本聖書協会三役会、
    理事会があります。
    銀座の聖書協会ビルで、
    学牧師が出席します。

    ・明日は日本ナザレン神学校の入学式が
    目黒教会でおこなわれます。
    学牧師の出講日は毎週水曜日で、
    今年度は対面授業です。
    説教学の授業を神学生と
    牧師対象の公開授業でおこないます。
    実り多い授業となりますよう、
    お祈りください

    ・来週は礼拝のあとで、
    ミニ運動会をします。
    子どもと、
    気持ちが子どもの人たちが参加できます。
    参加してくれた方には、
    すてきな賞品が・・、 
    きっとあるでしょう。
    たくさんの子どもたちの参加を待っています。

    ・復活祭のごあんない                  
    今年の復活祭(イースター)は、
    4月17日です。       
    教会で昼食を用意しますので、
    どうぞお楽しみに。    
    食事の後、有志の皆さまと墓参にまいります。


    ・イースター献金にご協力ください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像