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朗読箇所

復活の主日

旧約 ミカ書4:1-3

◆終わりの日の約束
1 終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
3 主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。


新約 マルコによる福音書16:1-8

◆復活する
1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

説教

彼女たちは何が恐ろしかったのか

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    復活祭おめでとうございます。
    わたしたちはマルコによる福音書をとおして、
    主イエスの歩んだ道のりを、
    主イエスと共に歩んできました。
    イエス様が実際に人々を教えたのは、
    わずか二年ほどであったと推測されます。
    時間的にはほんとうに短い旅。
    しかし、魂の歩む旅としては、
    とても長い旅であったはずです。
    わたしたちのこの旅を、
    最初からほぼすべて共に歩まれた方、
    旅のところどころで共に歩まれた方、
    あるいは幾度か共に歩まれた方、
    この教会の皆さまも、
    それぞれ違いはあることでしょう。
    しかし、主イエスは先々で出会う、
    すべての人と関わりを持ちました。
    たった一度の主イエスとの出会いが、
    その人を変えることもしばしばでした。
    その意味で言うなら、
    主イエスと一度でも共に歩めば、
    何かが起きているはずです。
    そんな主イエスの旅は、しかし、
    とても衝撃的な仕方で終わりました。
    十字架刑という、最も残虐な処刑法で、
    主イエスの命が絶たれ、
    その亡骸は墓に収められました。
    死はすべての終わり。
    死者にはもう未来はなく、
    あるのは過去の記憶と、
    人々の心の内にある思い出だけ。
    それは残された人たちも同じです。
    死は、その人との未来を失わせ、
    過去の追憶のみを残すのです。
    墓地で誰もが例外なく思うことは、
    未来ではなく過去の想起です。
    そこには先のことはなく、
    将来の希望を抱くこともなく、
    過ぎた日々の記憶が残されるだけ。
    日曜日の夜明け前に、
    主イエスの亡骸を収めた墓を訪れる、
    三人の女性たちにとっても同様です。
    彼女たちはおそらく、
    とても残念に思っていたのでしょう。
    本来なら愛する人が死んだなら、
    亡骸を丁重に清め、
    香料を塗ってから布で包み、
    墓地に運んで安置するのです。
    しかし、この女性たちが尊敬し従った、
    主イエスは悲惨な死を遂げました。
    金曜日の午後遅くに。
    安息日の始まりはもうすぐです。
    日曜日まで十字架の上に放置することだけは、
    なんとしても避けたかったことでした。
    有力議員の一人が大胆にも総督に願い出て、
    遺体を引き取る許可を得ることができました。
    あとは時間との勝負。
    急いで十字架から抱え降ろして、
    とりあえず亜麻布で巻いて墓地に運びます。
    安置台において墓地の入口を石で閉ざすと、
    日が沈みました。
    安息日の始まりです。
    土曜日の夕方、日が沈むと、
    安息日が明けます。
    女性たちは急いで香料を買い求めて、
    夜明けを待ちます。
    日曜日の夜明け前、まだ薄暗い内に、
    三人の女性が墓地を目指します。
    きちんとすることのできなかった、
    埋葬の儀式を改めておこなうために。
    道々、彼女たちは何を思っていたでしょうか。
    一日半経過した遺体がどうなっているか、
    そのことを心配していたでしょうか。
    もう腐食が始まっているとしたら、
    はたして香料をうまく塗れるだろうか。
    そういったことでしょうか。
    いや、その前に難問がありました。
    いったい誰が墓を塞いだ石を転がして、
    墓を開いてくれるかという問題。
    なんの方策もないまま、
    三人はどうやって石をどけるかを話ながら、
    墓地へとやってきます。
    ところが、墓地に着くと、
    塞いでいた石はすでに転がされ、
    入口が開いているのです。
    開いている!
    いったい誰が石をどけたのでしょうか。
    弟子たちの誰かが先に来たのでしょうか。
    中には弟子たちがいるのでしょうか。
    彼女たちが中に入ると、
    白い衣を着た若者が右の方に座っています。
    驚いて叫びそうになる女性たちを制して、
    その若者が語りかけます。


    驚くな。
    あなたがたは十字架につけられた
    ナザレのイエスを捜しているが、
    あの方はよみがえらされた。
    ここにはおられない。
    あの方を安置した場所を見なさい。


    女性たちが目を向けるその場所は、
    遺体を安置するための石の板。
    その場所は動きも時間も静止している、
    死の支配する領域。
    命が終えた亡骸が置かれる終着の場所。
    置いた亡骸はそのまま
    そこにあるはずの場所。
    だが、そこに主イエスの亡骸がありません。
    告げられた場所を見つめる彼女たちの心に、
    いったいどんな思いが去来したでしょうか。
    盗まれたのだろうか。
    だとすれば誰が盗んだのか。
    犯人はこの若者か、
    それとも先に来た弟子たちか、
    あるいは主イエスの敵が盗んだのか。
    この世界の現実の中で、
    それ以外の選択が、
    盗まれたか誰かが持ち去ったという以外、
    何か選択肢があるでしょうか。
    この世の現実において、
    それ以外の選択肢はあり得ません。
    遺体をどうしたかと問い詰めようと、
    彼女たちが若者をにらんだその時、
    この若者は続けて、
    その場所と若者を交互に見つめる彼女たちに、
    こう命じたのでした。


    だが、行って、
    弟子たちとペトロに告げなさい。


    日本語の聖書は、
    「さあ、行って告げなさい」と訳します。
    しかし、「さあ」と訳された言葉は、
    「アッラ」。
    「しかし」「だが」という意味です。
    だからこう訳すべきなのでしょう。


    あの方はよみがえらされた。
    ここにはおられない。
    あの方を安置した場所を見なさい。
    だが、行って、
    弟子たちとペトロに告げなさい。


    「その場所を見よ、
    だが、行って告げなさい」。
    この「アッラ(だが)」は、
    たいへん重要な、重みのある言葉です。
    なぜなら、
    動きも時間も静止した死が支配する、
    その先は何もあり得ない、
    その場所に留まることから、
    その先へ、
    次に起きる未来へと、
    目と心を向けさせる言葉だからです。
    主イエスは死んだが、
    それはすべての終わりではなく、
    そこから神の未来が始まりました。
    主イエスの死は終わりではなく、
    新たな始まりとなりました。
    若者は女性たちに、
    何と弟子たちに告げよと命じたでしょうか。


    あの方は、あなたがたよりも先に
    ガリラヤへ行かれる。
    かねて言われていたとおり、
    そこでお目にかかれる。


    ガリラヤへ行け。
    それは今の生活を、今の生き方を、
    今の世界の見方を、今の価値観を、
    劇的に変えることです。
    今の場所、今の日々を離れ、
    新たな旅を始めることですから。
    ガリラヤ。
    そこはかつて、
    主イエスが教えを宣べ伝え始め、
    弟子たちを集めて、
    主イエスと弟子たちの共同体を形作り、
    新しい生き方、新しい希望、
    新しい旅を生き始めた場所です。
    今、墓の中で若者は告げます。
    「ガリラヤで主イエスと会う」と。
    このガリラヤはただ地理的な意味でなく、
    精神的な、霊的な意味を持ちます。
    今、弟子たちは改めて招かれるのです。
    復活の主イエスとの信仰による共同体を、
    新たに生き始め、
    新たなこの世の旅を始めるようにと。
    この言葉を告げられた女性の弟子たちは、
    ほんとうに賢い人たちであったと思います。
    その言葉の意味、その言葉の重みを、
    たちどころに悟ったからです。
    もう今までと同じではいられない。
    この世の価値観に浸り、
    この世界の定住者ではいられず、
    主イエス、しかも復活の主イエスと共に、
    神の価値観に基づいて世を旅する、
    この世の旅人になることを命じられている。
    そのことを理解したのですから。
    捨てなければならないこと、
    離れなければならないこと、
    この世界との関係の変化。
    あまりに大きく衝撃的です。
    だから墓から出て逃げ去りました。
    その時の女性たちの状態を、
    マルコはこう描写しています。
    「震え、おののきながら」と。
    死で終わる世界から、
    復活の主イエスとの未来へと、
    新たに踏み出すのです。
    世界との関係が変わります。
    この世での生き方が変わります。
    何と恐ろしいことか。
    彼女たちの体験は、
    わたしたちの体験でもあるはずです。
    復活の主イエスを信じるとは、
    そういうことなのですから。
    恐れ、震え上がり、
    誰にも何も言えなかった彼女らは、
    黙ったままでいたのでしょうか。
    いいえ、そうではなかったはずです。
    復活の主イエスを信じる、
    やがて教会と呼ばれるようになる、
    新たな信仰共同体が生まれたのですから。
    二千年続くその共同体は、
    今も、ここに続いています。



週報より

  • 2022.04.17 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは礼拝後、
    復活祭を祝う昼食会をいたします。
    皆さまどうぞ食事と交わりの時間を
    お楽しみください。    
    食事を準備する間、
    子どもたちは「宝探し」をします。
    おとなの皆さまは宝物を見つけても
    ないしょにしておいてください。

    ・食事会のあと、有志の方たちで
    復活祭恒例の墓参にまいります。
    修道院の教会墓地からはじめ、
    三カ所を回る予定です。          
    車に分乗して回りますので、
    車の必要な方は牧師にお知らせください。
    途中の解散はそれぞれ自由で、
    最終的に教会に戻ってきます。

    ・月報『モレノ』5月号ができました。
    週報棚か受付テーブルからお取りください。
    原稿をくださった方、
    製作してくださった方に感謝します。

    ・あすは日本福音連盟の
    常任理事会が開かれます。
    学牧師がオンラインで参加します。

    ・イースター献金にご協力ください。
    世界宣教とキリスト教団体への募金、

    教会の働きに用います。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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