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朗読箇所

復活節第3主日

旧約 エゼキエル書2:1-5

◆枯れた骨の復活
1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」
2 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
3 主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。
4 恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。
5 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。


新約 ローマの信徒への手紙1:1-7

◆挨拶
1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

説教

神の福音のために選び出され、召されたわたしたち

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    イエス・キリストの使徒の中に、
    パウロという人物がいます。
    以前はサウルと呼ばれていたこの人物が、
    いったいどれほど大きな働きをしたのか、
    新約聖書を開くとすぐにわかることでしょう。
    パウロの名前で書かれている手紙が、
    新約聖書全27巻の中で13もあります。
    新約聖書の半分がパウロの名を持つのです。
    この偉大な使徒は、しかし、
    実に不思議な仕方で使徒として選び出され、
    神に召されたのでした。
    そもそもパウロは最初からの使徒ではなく、
    それどころか、正反対の立場でした。
    おそらく地上の生涯を生きていた時の、
    主イエスとは会ったこともなかったはずです。
    彼はユダヤの伝統的なファリサイ派の信奉者です。
    それだけに、
    クリスチャンと呼ばれるようになった、
    主イエスの最初の弟子たちを弾圧して逮捕する、
    迫害者のリーダーでした。
    そのパウロがダマスカスという隣国の町にまで、
    迫害の手を伸ばそうとしていた時のことです。
    手下を引き連れて向かっている途上で、
    復活の主キリストと出会うことになります。
    そのいきさつは、
    使徒言行録9:1−22に書かれています。
    とつぜん天からの光に照らされ、
    呼びかける声が聞こえます。
    「サウル、サウル、
    なぜわたしを迫害するのか」。
    「あなたはどなたですか」と問うと、
    「わたしはあなたが迫害しているイエスだ」
    と告げられるのです。
    目が見えなくなったパウロは、
    手下に手を引かれてダマスカスに入り、
    そこで三日間、
    目も見えず何も食べずに途方に暮れていると、
    一人のキリスト者老人が訪ねて来て、
    彼に手を置いて祈ります。
    すると目からうろこのようなものが落ちて、
    元通り見えるようになり、
    バプテスマを受けて元気になったのでした。
    この話を使徒言行録に書いたのはルカです。
    パウロ自身はそのときの体験を、
    ガラテヤの信徒への手紙の中で、
    このように物語っています。


      兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。
    わたしが告げ知らせた福音は、
    人によるものではありません。
    わたしはこの福音を 
    人から受けたのでも教えられたのでもなく、
    イエス・キリストの啓示によって
    知らされたのです。
    あなたがたは、わたしがかつて
    ユダヤ教徒として
    どのようにふるまっていたかを聞いています。
    わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、
    滅ぼそうとしていました。
    また、先祖からの伝承を守るのに
    人一倍熱心で、
    同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりも
    ユダヤ教に徹しようとしていました。
    しかし、わたしを
    母の胎内にあるときから選び分け、
    恵みによって召し出してくださった神が、
    御心のままに、御子をわたしに示して、
    その福音を異邦人に告げ知らせるされたとき、
    ・・・


    パウロのあのダマスカス途上での体験が、
    実は使徒として召された体験であったことを、
    パウロはガラテヤの手紙で証しています。
    この劇的な出来事をとおして
    使徒として召されたパウロは、
    決して文筆家ではありませんでした。
    書斎にこもって文章を書くのが仕事ではなく、
    パウロは伝道者であり牧者であるという意味で、
    使徒に召されたのでした。
    だからパウロは書斎の人ではなく旅人でした。
    特にパウロは自他共に認める、
    「異邦人」すなわち非ユダヤ人の使徒として、
    ユダヤの地ではなく諸国の人々に、
    神の福音すなわち良い知らせを告げ知らせました。
    当然、パウロは旅の人でもありました。
    一つ所に、数ヶ月から二年ほど滞在し、
    次の場所へと移動して福音を語りました。
    いまのトルコにあたる小アジア、
    エーゲ海周辺、マケドニア、
    そしてギリシア半島を旅し、
    最終的にはローマで殉教の死を遂げました。
    おかげでシリアからギリシアに至る各地に、
    いくつもの教会が生み出され、
    あるいはすでに存在していた教会の発展に、
    パウロは大きく貢献しました。
    ではなぜ、文筆家ではないパウロが、
    たくさんの手紙を書いたのでしょう。
    それは、たくさんの手紙を書かなければならない、
    やむを得ない事情があったからです。
    パウロが異邦人の使徒として各地を巡り、
    教会を生み出してゆき、
    異邦人のキリスト教徒が増えるに従い、
    ユダヤの伝統を重んじるユダヤ人信仰者との間に、
    深刻な問題が生じて対立を生むようになりました。
    教会はどこまでユダヤの伝統を受け継ぐのか、
    ユダヤ教との関係はどうなのかという問題です。
    具体的には、キリストを信じた異邦人は、
    律法を守る義務があるのでしょうか。
    ユダヤの伝統を受け継ぐユダヤ人キリスト教徒は、
    律法を守る必要があると考えました。
    パウロはキリストを信じることが律法の成就だから、
    キリストを信じた者は律法を守る必要は無い、
    そのように考え教えていました。
    当然、ユダヤ人キリスト教徒と、
    パウロとパウロの伝えた福音を信じる人々の間で、
    意見の違いが生じ、対立が生まれました。
    問題は、律法を守ることが必要だとする、
    ユダヤ人キリスト教徒の拠点が、
    すべての教会の母なる教会、
    エルサレム教会であったことです。
    だからパウロはとても困難に直面しました。
    エルサレム教会から各地の異邦人教会に、
    公式な使いが派遣されてきました。
    「律法を守り、割礼を受けることが必要だ」
    という指示を携えての訪問です。
    エルサレム教会からそのような指示が来たので、
    各地の異邦人教会の人々は困惑し戸惑います。
    パウロに教わったことは間違いなのか。
    異邦人も律法を守り割礼を受けねばならないのか。
    今でこそ数時間、あるいは半日あれば、
    エフェソからコリントまで飛ぶことができます。
    でもパウロの時代、簡単ではありません。
    数週間かけて一つの教会に行ったとして、
    別の教会に行くにはまた数週間かかります。
    一つの教会を訪れて問題を解決しても、
    別の教会の問題に対処するのは、
    何週間も先になり手遅れになりかねません。
    だから自分が行くことのできない場合、
    パウロはその代わりとして手紙を書き送りました。
    それがパウロの手紙がたくさん書かれた理由です。
    しかし、ユダヤ人キリスト教徒も、
    パウロをとおしてキリスト教徒となった
    異邦人キリスト教徒も、
    どちらも同じキリストを救い主と信じる、
    神の民同士のはずです。
    同じ信仰の兄弟姉妹の間で対立することは、
    神が喜ぶことなのでしょうか。
    このような対立からは喜びも感謝も生まれず、
    互いへの愛を育むことがありません。
    互いに否定し合うのではなく、
    それぞれの信仰的な生き方を尊重して、
    キリストの福音において一致すること。
    そこにパウロは教会の未来を望み見ました。
    ユダヤ人と異邦人がいっしょに神をあがめ、
    共に礼拝を捧げるようになること。
    それが自らの使命だとパウロは確信します。
    異なる者同士、人間的には敵対する者同士が、
    神に感謝と賛美を捧げることにおいて、
    和解し一致して喜びあえること。
    それこそ神が求めることのはずです。
    だからパウロはそのことの実現に全力を傾けます。
    具体的な方策として、
    異邦人の諸教会から献金を集めて、
    エルサレムの聖徒たちに届けることにしました。
    この献金をエルサレム教会に捧げ、
    エルサレムのユダヤ人キリスト教徒が、
    この異邦人の捧げ物を感謝して受け取り、
    異邦人の代表団といっしょになって、
    神をさんびし、感謝を捧げる礼拝を守ることで、
    和解と一致が実現できるはずです。
    パウロの呼びかけに応えて各地の教会から、
    献金と共に異邦人信仰者の代表が続々と、
    集合場所のコリント教会にやってきます。
    みんながそろったら、異邦人代表団は、
    パウロに率いられてエルサレムへと出発します。
    その出発に先立って、
    パウロは今まで行ったことのない西の世界、
    ローマにある教会に手紙を送ることにしました。
    エルサレムへと出発するまでに、
    パウロにはある未来のビジョンが示されました。
    それは、エルサレムで和解と一致が実現できたら、
    もうエルサレムからギリシアまでの領域で、
    パウロが働く必要はなくなります。
    次は、未知の領域であるローマ世界の西半分、
    イタリアからスペインまでに福音を伝えること。
    それをこれからの使命と考えたのでした。
    ローマの教会がその働きの拠点となってくれたら、
    パウロにとって、また福音の宣教にとって、
    とても力強いことでしょう。
    そこで書かれたのが、ローマの信徒への手紙です。
    パウロの期待を込めた、渾身の手紙です。
    この手紙の冒頭で、
    パウロははじめて訪れるローマの信仰者に、
    パウロの自己紹介と言える仕方で、
    差出人である自らのことを書きました。
    新共同訳聖書よりも聖書教会共同訳の方が、
    訳としては優れていますので、
    聖書協会共同訳から引用します。


    キリスト・イエスの僕、
    使徒として召され、
    神の福音のために選び出されたパウロから


    この手紙の受取人は、
    当然のことながらローマのキリスト教徒たちです。
    受取人をパウロは7節でこのように書きました。
    同じく聖書協会共同訳から引用します。


    ローマにいる、神に愛され、
    聖なる者として召されたすべての人たちへ


    皆さんはこの差出人パウロについての記述と、
    受取人ローマの信仰者についての記述が、
    並列関係にあることを気付かれたことでしょう。
    パウロも、ローマにいる信仰者も、
    どちらもが神に「召された」ということです。
    それぞれの召された役割は異なります。
    パウロは「使徒」として、
    ローマの人々は「聖徒として」。
    だが「召された」ということにおいて同じです。
    もう一つ、見落としてはならない並列関係は、
    「(神に)選び出され」と「神に愛され」です。
    両者は違う言葉で相互に補い合う仕方で、
    パウロは自身とローマの人々が、
    神とどのような関係にあるかを語るのです。
    この二つは互換的です。
    神に選び出されたということは神に愛されること、
    神に愛されることは神に選び出されることです。
    神はくじ引きや偶然で、
    無目的に誰かを選び出しません。
    深い愛をもって選び出します。
    神に愛されるということは、
    何の意味も目的もなしに愛されることはなく、
    神と共に歩み、神の御心を受けとめる者として、
    選び出されることに他なりません。
    神が誰かを選び出すとき、
    神がある人々を愛するとき、
    そこには必ず目的があります。
    別の言い方をすれば、
    神に選び出された者、
    神に愛された者は、
    神がその人を必要としているということです。
    どのような役割へと召されるかは、
    人それぞれです。
    パウロは使徒として、
    ローマの人々は聖徒として召されました。
    しかし、たしかなことが一つあります。
    神に選び出され、召された人々には、
    神の目的があるということです。
    それはわたしたちにとってもそのとおりです。
    わたしたちはそれぞれ、
    聖徒として神に召されました。
    なんのためでしょうか。
    自己目的の実現のためではありません。
    わたしたちは金持ちになるため召されたのではなく、
    物事がうまく行くようにと召されたのではなく、
    成功や安全や御利益のために召されたのではなく、
    他の人よりもましになるため召されたのでもなく、
    良い目をみるために召されたのではありません。
    わたしたちが召されたその理由を、
    パウロははっきりと告げます。
    「神の福音のために」と。
    わたしは神の福音のために召されている。
    それがいまや、
    わたしたちの生きる意味です。
    自分のため、
    あるいは家族のために生きてはならない、
    ということを言っているのではありません。
    神の福音のため、ということには、
    二重の意味があります。
    ひとつは、わたしや皆さんが、
    神の福音をもっとも大切なこととして、
    生涯全体をとおして目指しているという意味です。
    わたしたちは事実、
    金のために生きてはいません。
    財産のために生きてはいません。
    名誉のためにも、世間体のためにも生きていません。
    国家のため、民族のために生きてはいません。
    神の喜んでくださる生き方を心がけ、
    天の国籍をしっかりと守り、
    永遠の命を受け継ぐ望みを抱いて、
    今のこの命を喜び感謝して過ごすために、
    わたしたちは生きています。
    神の福音のためということの、
    二重の意味のもう一つは、
    神の御心と神の働きが、
    わたしたちをとおしてこの世に表されるため、
    ということではないでしょうか。
    神は間違いなく世を愛しておられます。
    だが、その神の愛は、神の民である、
    このわたしたちをとおして表されることです。
    神の憐れみ深さは世界のすみずみにまで及びます。
    しかし、神の憐れみをこの世に示すのは、
    神に愛され、神に召し出された聖徒である、
    わたしたちの役割です。
    神は正義の神です。
    人間の正義ではなくどこかの国家の正義ではなく、
    神の正義をこの世に告げ知らせ、呼びかけるのは、
    神に聖徒として召されているわたしたちの務めです。
    こうして、神に選び出され、召されたわたしたちは、
    二重の意味で、神の福音のために、
    今を生きています。



週報より

  • 2022.05.01 週報より抜粋・要約

  • ・ゴールデン・ウィークが始まりました。
    それぞれご予定がおありのことと思います。
    皆さまの休日が
    それぞれ守られますよう祈ります。

    ・今月の月例教会役員会は来週の礼拝後です。
    きょうは礼拝後とくになにもありませんので、  
    どうぞゆっくりお過ごしください。
    来週は役員の皆さまは
    どうぞよろしくお願いします。
    役員会へのご要望・ご意見などがありましたら
    お知らせください。

    ・また除草が必要な季節になりました。
    連休明けから、隔週で
    十分間除草を再開したいと思います。
    前の週に予告しますので、
    皆さまのご協力をよろしくお願いします。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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