小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  わたしたちは何者なのか

朗読箇所

復活節第5主日

旧約 申命記7:6

◆神の宝の民
6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。


新約 ローマの信徒への手紙1:7

◆挨拶
7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

説教

わたしたちは何者なのか

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    皆さんは手紙を書くとき、
    たぶん最初に受取人を書くことでしょう。
    どのように書きますか。
    「・・さま」と名前だけが多いことでしょう。
    しかし、もし相手に対して、
    特別な思いを抱いているとしたら、
    名前の他になにかを書き添えると思います。
    たとえば、
    「わたしの大切な・・さま」とか、
    「親愛なる・・さま」あるいは、
    「わたしの親しい友である敬愛する・・さま」と。
    パウロの手紙、パウロの名で書かれた手紙は、
    新約聖書の中に十三通あります。
    どれもみな、特別な意味のある手紙です。
    だからパウロは手紙の受取人に対しても、
    特別な思いを持っていました。
    そこで、パウロの手紙はどれも、
    全て相手への特別な思いが込められています。
    似ているものはあっても、どれもみな、
    受取人についての表現が異なっています。
    手紙ごとにその表現を用いた理由が、
    そこには必ずあるはずです。
    ローマの人々に宛てた手紙、
    「ローマの信徒への手紙」もそうです。
    パウロはこのように書きました。


    ローマにいる、神に愛され、
    聖なる者として召された
    すべての人たちへ。


    これがローマの信徒への手紙で、
    パウロが物語る受取人です。
    なぜこのように書いたのか。
    そこには理由があります。
    パウロはこの受取人の描写をとおして、
    二つのことをはっきりと告げている。
    わたしにはそのように思われます。
    第一に、
    「ローマにいる人々へ」という、
    どの場所のキリスト者が読者なのかを、
    受取人の最初の部分で明らかにしました。
    この手紙はローマにいるキリスト者宛。
    そのことがパウロには重要でした。
    どこかの誰かに宛てた手紙ではなく、
    特に誰ということはない受取人へでもなく、
    広く多くの人向けに書いたのでもなく、
    ローマにいる皆さんに宛てて書いた。
    それがパウロの告げたい第一のことです。
    だから原文では、
    「ローマにいるすべての人々へ」
    という言い方が最初に来ています。
    しかし同時に、
    パウロは直接にはローマ人宛であっても、
    ローマのキリスト者だけに意味のあることを、
    地域限定の手紙として書いたのでもない。
    それが第二にパウロが告げていることです。
    だから「神に愛され、聖なる者として召された」
    が後ろに付加される形で書かれています。
    つまり、直接的にはローマの人々宛だが、
    その意味は全てのキリスト者に当てはまる。
    そのようにパウロは考えています。
    すべてのキリスト者は例外なく、
    「神に愛され、聖なる者として召された」者。
    その事実は、時代を超え、
    民族や人種を超え、
    身分や境遇や財産の有無を超え、
    性別や年齢やその他のあらゆる違いを超えて、
    すべてキリストをとおして神を信じる者に、
    等しく当てはまることです。
    言い方を変えるなら、パウロは、
    この手紙の受取人を表現するにあたり、
    神を信じる者が、
    神との関係においてどのような身元であり、
    どのような身分の者とされているかを、
    最初にはっきりと宣告したのでした。
    「あなたは何者であり、誰なのか」。
    そのように問われたとき、
    特に神との関係においてそのように問われた時、
    キリスト者はだれも例外なく、
    はっきりと自分の身元・身分を自覚すべきです。
    わたしは
    「神に愛され、聖なる者として召された」
    者ですと。
    そのことは現代の日本に生きるわたしたちも、
    そっくり当てはまることです。
    わたしたちも同じく、
    神に愛され、聖なる者として召されています。
    神との関係におけるわたしたちの身元、
    わたしたちの身分がここに宣言されています。
    「わたしは誰からも愛されていない」。
    もしそのように実感するとしたら、
    その人は孤独の淵に落とし込まれることでしょう。
    誰からも愛されていない。
    それは積極的に愛していると言われるだけでなく、
    誰もわたしを気にかけていない、
    誰もわたしを心に留めず無関心なままだ。
    そういう実感をも含んでいます。
    それは間接的にせよ殺されるに等しいことです。
    反対に、誰かに愛されているという確信は、
    それが積極的に愛すると言うのではなくても、
    その人を心に留め、無関心ではいないだけでも、
    そのように実感することができるなら、
    その人を支え、善を生きようと思わせるはずです。
    愛してくれる相手に報いたい、
    関心をもってくれる人に感謝を伝えたい、
    心に留めてくれる人を悲しませたくない。
    そのように願うはずですから。
    人は、しかし、残念ながら身勝手です。
    自分と関わりのない人には無関心になり、
    自分の利益や役に立つ人ではければ心に留めない。
    意図的に積極的にそうするのではなくても、
    忙しいから、他にすることがあるから、
    自分とは関係がないから、
    という理由で無関心になります。
    パウロはここでキリスト者とは何者か、
    第一の特徴を明らかにするのです。
    「神に愛されている」と。
    たとえ人から理解されず、
    相手にされず、無関心の浪に沈められ、
    あるいは嫌われ、無視されていても、
    神に愛されているという確信があるなら、
    人は神との交わりによって、
    孤独の淵に沈められることなく、
    神に喜ばれる道を歩もうと、
    心の内に願うことでしょう。
    パウロはキリスト者の正体を語っています。
    キリストを信じるとは、
    神に愛される者とされたということだと。
    神は愛する者を無視したり、無関心ではいません。
    神がその人に心を向け、寄り添い、
    手を差し伸べて招き寄せます。
    招き、呼び寄せて、
    聖なる神に属する、
    神の民として受け入れます。
    これが、キリスト者の、
    すなわち、わたしたちの正体であり、
    わたしたちが自分を何者と考えるかの、
    第一の存在証明(アイデンティティ)です。
    神は、愛し、聖なる者として召した者たち、
    つまり、このわたしたちを放ってはおきません。
    悪と不正義に満ちた荒れ野を生きる人々を、
    その荒れ野の中に放置して無関心ではいません。
    わたしたちは間違いなく、
    荒れ野と呼ぶしかない、この世界を生きています。
    キリストを信じて生きるようになるまで、
    わたしたちはかつて、この世界の定住者でした。
    この世界だけを住処として、
    この世界の中だけに幸福と成功と安心を求め、
    この世界の定住者として少しでもましに生きようと、
    努力し苦闘し、大抵の場合挫折し失望してきました。
    キリストを信じる者とされたとき、
    わたしたちの身元が大きく変えられました。
    わたしたちがこの荒れ野の世界を生きることには、
    変わりありません。
    しかし、荒れ野を当てもなくさ迷う放浪者から、
    神に属する者、天に永遠の国籍を持つ者とされ、
    そのような身分の者として神に召されたのでした。
    わたしたちは今も荒れ野の世を生きています。
    しかし、もはやこの世で一生を終える、
    この世の定住者として生きてはいません。
    天に国籍を持つ、
    天の御国へと向かっている旅人として、
    この荒れ野の世を旅して生きています。
    その旅を続けてゆくわたしたちには、
    いったい何が必要でしょうか。
    お金? ある程度の財産?
    仕事? 楽しみ? 
    たしかにそうしたものは必要です。
    でも、そうしたものがわたしたちを、
    神の民にはせず、天の国籍を与えはしません。
    それだけを願い求めるのであれば、
    わたしたちはこの世の定住者と変わりません。
    わたしたちが神の民として、
    天の国籍を持つ旅人として、
    この世を旅して生きるためには、
    いったい何が必要不可欠なのでしょうか。
    パウロはなによりもはじめに、
    二つのなくてはならないものを、
    ローマのキリスト者のために祈りました。
    ローマの信仰者だけでなく、
    時代を超えて、
    現代のわたしたちを含む、
    全キリスト者にとって、
    絶対に無くてはならないものとして、
    二つのことを祈りました。


    恵みと平和があなたがたにありますように。


    パウロは「恵み」と「平和」を祈り求めました。
    恵みと平和。
    この二つは、この世界においては絶望的に乏しく、
    かつこの世界に生きるすべての人にとって、
    絶対的に必要不可欠なものです。
    この世界にはいろいろな恵みがあります。
    大地の恵み、海の恵み、自然の恵み、太陽の恵み、
    たしかにそれらは間違いなく神の恵みです。
    でも、パウロはここで、
    そういった自然的な恵みのことよりも、
    神によって愛されている人々に、
    神が与えてくださる特別な恵み、
    つまり神を信じてこの世を旅する、
    神の民に対して神が与えてくださる恵みを、
    パウロは語っています。
    神が愛し、神の民として召した者に、
    いったいどのような恵みを、
    神は与えてくださっているでしょうか。
    二つの大切なことがあると思います。
    一つは、苦難や試練、悪や不正義の世で、
    わたしたちがくじけたり悲嘆しないで、
    わたしたちを支えてくださる、
    神のたしかな約束です。
    神はわたしたちをキリストとのきずなのゆえに、
    神の愛する子として受け入れ、
    最後まで神に属する者として愛してくださる。
    その約束を与えてくださっています。
    もう一つの大切な恵みは、
    わたしたちが天の国籍を持つ者として、
    この世の旅の終わる時には、
    天の国へと招き入れてくださるという希望です。
    それはわたしたち個人のことだけでなく、
    終わりの日にはキリストが再び来られ、
    この世界に神の正義と公平を実現してくださる。
    その希望をも恵みとして神から受けています。
    もう一つのなくてはならないもの、
    パウロが信仰者のために祈り求めた、
    もう一つの大切なものは、
    神の平和です。
    この世界に最も乏しい、
    絶望的に乏しいもう一つのものが、
    神の平和です。
    この世界の現実がそのことを証明しています。
    そのような世界の現実にあって、
    パウロはわたしたちを含む全ての信仰はのため、
    神の平和があるようにと祈ります。
    そして、パウロは信じていました。
    わたしたちも信じています。
    神は平和を与えてくださると。
    それはわたしたちキリスト者だけが、
    世界の現実と関係なく、
    自分たちだけ平和だと思い込んで生きる、
    ということとはまったく異なります。
    神が神の平和を与えてくださるということは、
    一つにはわたしたちが、
    神に愛されているという確信を、
    しっかりと抱くことができるということです。
    神に愛されているのであれば、
    神を恐れることはなくなります。
    神の罰、神の報復、神の怒り、
    そうしたことを恐れ、あるいは、
    これは神の罰かという恐れや心配から、
    わたしたちは解放されることでしょう。
    神はわたしたちに災いではなく、
    善意と慈しみを向けていてくださる。
    そう確信することができるからです。
    そして神の平和が与えられるということの、
    もう一つの大切な意味は、
    わたしたちが「平和を作る者」とされている、
    ということです。
    かつて主イエスは人々に教えました。


    平和を造る人々は幸いである。
    その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)


    わたしたちは今「神の子と呼ばれ」ています。
    だからわたしたちは「平和を造る人々」のはず。
    わたしたちは身近な人たちとも、
    世界の遠くの人たちとも、
    和解を願い、和解をもたらそうとします。
    そのことをとおして、
    わたしたちは人々が互いに、
    シャロームを、心からの平安を、
    互いへの慈しみを、抱き合う平和を造ります。
    そういう世界を造ろうと願います。
    わたしたちはキリスト者。
    その意味と祝福の、
    そしてはたすべき使命の、
    何と大きく豊かなことか。
    そのような生き方をすることが、
    なんと喜びに満ち感謝なことか。
    そのことを心から実感して、
    この世の旅を続けましょう。
    真実のシャロームに満ちあふれた、

    天の御国に行き着くその時まで。



週報より

  • 2022.05.15 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは礼拝後、
    有志の方で十分間除草をします。
    きょうはガーデンと教会周りを中心に
    お願いいたします。    
    除草に参加しない方は一足先に
    ティータイムをお過ごしください。

    ・ピアノの調律と修理が終わりました。
    ピアノ献金、ありがとうございました。

    ・きょうは十分間除草のあと、
    月報『モレノ』編集会をします。
    モレノ・チームの皆さま、
    協力してくださる方は付属館にどうぞ。
    原稿の締切は本日ですが、
    ページ数が分かれば木曜日までOK。

    ・学牧師はあす、
    諸会議が続きます。
    10時から11時半まで、
    NCC教育部常任理事会が開かれます。
    11時半から12時半まで、
    神学校理事会が開かれます。   
    午後1時から3時半まで、
    関東地区牧師会が開かれます。
    いずれもオンラインでの会議です。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像