小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  神の賜物による豊かさ

朗読箇所

復活節第6主日

旧約 イザヤ書65:1

◆救いの約束
:1 わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは、尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも
見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも
わたしはここにいる、ここにいると言った。


新約 ローマの信徒への手紙1:8-15

◆ローマ訪問の願い
8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

説教

神の賜物による豊かさ

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    皆さんは、なにか大切なことを始める時、
    いったい何からとりかかりますか。
    たとえば、ごはんを食べる時、
    最初に何をするでしょうか。
    好きなものから真っ先に食べますか。
    きらいなものを先にやっつけますか。
    いえいえ、そうではないでしょう。
    最初に、短くてもよいから、
    神への感謝から始めましょう。
    ごはんの前に感謝の祈りを捧げる。
    人によっては習慣となっていて、
    特に意識することもなく祈り、
    祈ってしばらくしてから、
    あれ、お祈りをしたかなと、
    どちらだったかわからなくなるくらい、
    無自覚でいることもあります。
    食前の祈りは習慣化しますが、
    一日の始まりはどうでしょう。
    何を最初にするかは、
    案外とわたしたちの生活を定めるものです。
    文句や愚痴で一日を始めるなら、
    その日全体が不愉快なものになるでしょう。
    感謝から一日を始めるなら、
    少なくともその日の始まりは、
    気持ちがよいはずです。
    パウロはローマの信仰者に手紙を書きました。
    とても重要な意味を持つ手紙です。
    この重要な手紙の本題に入るにあたり、
    パウロは神への感謝から始めました。
    ローマの信徒への手紙だけではありません。
    パウロは一部の例外を除いて、
    手紙のほぼすべてを感謝から書き始めます。
    それは習慣的なことというだけでなく、
    パウロの信念によることでもありました。
    パウロは意識的に感謝から書き始めたのです。
    感謝するということは、
    感謝の理由があるはずです。
    何についての感謝かを考えないとしたら、
    その感謝の言葉は具体性のない、
    騒がしいドラやシンパルにすぎません。
    パウロはローマの信徒への手紙で、
    最初にローマの人々について感謝しました。


    初めに、私は、
    イエス・キリストを通して、
    あなたがた一同について
    私の神に感謝します。


    いったい何について感謝しているのでしょうか。
    その理由をパウロは、続けてこう語ります。


    あなたがたの信仰が世界中に
    語り伝えられているからです。


    ローマのキリスト者の信仰が、
    世界中に語り伝えられている。
    それは現代であれば簡単でしょうが、
    SNSもメールもメッセンジャーもない、
    古代の世界では尋常ではありません。
    何かを世界中に伝えることは、
    いわば至難のわざです。
    パウロの言葉は大げさなのでしょうか。
    それとも、ローマのキリスト者の信仰は、
    それほどまでにすばらしく偉大なのか。
    わたしは永らく、
    ローマの人々の信仰が称賛されていると、
    かってに思い込んできました。
    しかし、手紙を読み進めてゆくにつれ、
    そうではないことが分かってきます。
    実際、ローマのキリスト教徒の間には、
    分裂と対立があり、
    相互不信に陥り、
    批判し排斥し合う現実がありました。
    そうだとすれば、
    彼らの信仰が世界中に知られているとは、
    いったいどういう意味でしょうか。
    手紙の冒頭だからお世辞から始めたのか、
    それとも皮肉を込めた表現なのか。
    いいえ、どちらも間違いです。
    パウロが神に感謝するその理由は、
    もっと単純で純粋なことでした。
    ローマにキリストを信じる人々がいること、
    そしてそのことが世界中の人々、
    特に同じ信仰を分かち持つ人々に、
    広く知られていること。
    その二つの事実のゆえに、
    パウロは神に感謝しているのです。
    教会はいつの時代もどの世界でも、
    人の集まりに他なりません。
    人が集まるのであれば、
    そこには意見や考え、信念の違い、
    性格や人間性の違いがあります。
    時には文化や立場が異なります。
    おおらかな人と厳格な人、
    ルーズな人と几帳面な人がいます。
    誤解や過ちも入り込みます。
    それゆえに教会には、
    いろいろな問題や困難がつきまといます。
    ローマのキリスト者は著しく分裂し、
    深刻な相互不信と相互批判がありました。
    もしかするとそうした現実さえも、
    世界中、特に他の地域の教会に、
    広く知られていたかもしれません。
    わたしだったら、そんな問題があれば、
    秘密にして知られないようにと願います。
    でもパウロは逆です。
    そうした事実があることは承知していますが、
    それでもローマの人々の信仰が、
    世界中に語り伝えられていることを、
    神に感謝すると言うのです。
    パウロがここで感謝するのは、
    ローマのキリスト者が他の教会よりも、
    立派で優れているからではありません。
    彼らが模範的な信仰者だからでもありません。
    パウロの感謝は、ローマという帝国の都に、
    信仰による共同体が存在していて、
    その信仰共同体があればこそ、
    信仰共同体だけが表すことのできる、
    神の恵みと賜物がある。
    その事実のゆえに感謝するのです。
    信仰者の群れが存在しないとしたなら、
    人々に伝えることのできないはずの、
    神の祝福が世の人々に示されている。
    その事実こそがパウロの感謝の理由です。
    実際、信仰者の共同体なしには、
    人々に伝えることのできない、
    神の恵みと祝福があります。
    そもそも神の民はどこであれ、
    まず神に礼拝を捧げ、感謝を祈ります。
    そもそも神の民はどこであれ、
    キリストの恵みを語り、
    世に表し続けています。
    その群れの交わりにおいてのみ体験できる、
    豊かさと喜びがあります。
    だからパウロはローマのキリスト者について、
    その群れが模範的だからという理由ではなく、
    そこに信仰者の群れが存在する事実のゆえに、
    はじめに神に感謝を捧げたのでした。
    パウロはローマに行ったことがありません。
    ローマにパウロが伝道したことはなく、
    ローマの教会はパウロが設立したものではなく、
    そこにはほとんど知り合いもいません。
    いわば、パウロとは直接関係のない教会。
    そんな教会にどうして手紙を書いたのでしょうか。
    その理由は、パウロが自他共に認める、
    「異邦人の使徒」であったからです。
    ローマのキリスト教徒は、
    その多くは異邦人つまりユダヤ人ではありません。
    だから、パウロは自らが異邦人の使徒であるゆえ、
    ローマのキリスト者にも霊的な責任がある。
    そのように考えていました。
    そこでパウロはローマを訪れたいと切に願い、
    その前にまず手紙を書き送ることで、
    予め関係を築いておきたいと願ったのでした。
    それにしても、はるばるローマまで、
    いったい何のために行こうとするのでしょう。
    その目的をパウロ自身が書いています。


    霊の賜物をあなたがたに幾らかでも
    分け与えて、力づけたいからです。


    パウロは自分の賜物をローマの人々に与え、
    そのことで力づけたいのだと言います。
    パウロの霊の賜物とはなんでしょう。
    素直に考えるなら、それは、
    使徒としての権威、使徒としての教え、
    神から受けた力、信仰的な権限などでしょうか。
    そうであれば、言葉は軟らかい表現ですが、
    要するにパウロの教えをありがたく受け、
    使徒としてのパウロの権威に従え。
    そういう意味にも理解できます。
    事実パウロは続けて、こう言います。


    あなたがたのところでも、
    何か実りを得たいと望んで・・。


    受けとめようによっては、
    まるで教えてやるから授業料を払え、
    と言っているかのようにも聞こえます。
    でも、そのように受けとめるとしたら、
    わたしたちはパウロの真意を理解していません。
    パウロはここで、
    教会というものの本質について、
    信仰者の交わりの意味について、
    深い洞察を語っているからです。
    パウロは教会が特別な神の恵みの共同体だと、
    深く、強く確信していました。
    教会だけにある特別な神の恵みを、
    信仰に生きる人は受け継いでいます。
    その恵みとは、神の賜物の互恵性です。
    賜物という言葉、カリスマは、
    一部の人だけに与えられた特殊な能力や恵み。
    一般にそのように思われています。
    実際、カリスマという言葉は、
    広くそのような意味で使われています。
    カリスマ美容師と言えば、
    ふつうの美容師にはない特別な才能のある、
    特殊な美容師を指すと考えられています。
    だからカリスマはその人だけの賜物。
    しかし、パウロが語る神の賜物は、
    互恵性の中にあってこそ、
    つまり互いのために用い合ってこそ、
    賜物としての真価が発揮されます。
    賜物は自分だけの所有物ではなく、
    互いに与え合い、分かち合い、
    用い合うことによって、
    みんなが共に豊かになるためのものです。
    そこでパウロは、このように語ります。


    あなたがたのところで、
    お互いに持っている信仰によって、  
    共に励まし合いたいのです。


    ここでパウロは、
    「お互いに持っている賜物によって」
    と言うのではなく、
    「お互いに持っている信仰によって」
    と表現していることに注目してください。
    このことは、キリストを信じる者は誰でも、
    その人の持っている信仰のゆえに、
    その人のあらゆることが賜物でもある、
    という意味に受けとめるべきです。
    賜物はもはや、特殊な能力や才能だけでなく、
    その人が神から受けているすべてです。
    信仰のゆえに抱く愛、憐れみ、共感、
    互いのための祈り、励まし、
    共に泣くこと、共に喜ぶこと、
    寄り添うこと、ほったらかしにしないこと、
    それらは賜物です。
    互いへの忍耐、寛容、
    争った後の和解、赦し合い、
    できる手助け、親切、
    わたしたちの持っている財産、金銭、
    それらは全部、賜物に違いありません。
    賜物である以上、
    自分だけに溜め込んだり、
    自分の中にしまい込んでいては、
    賜物としての意味がありません。
    賜物は互恵的に用い合うためのものですから。
    神の賜物は、どれ一つとして、
    自分のためだけに与えられるものはなく、
    互いに用い合うために与えられています。
    もし、自分の賜物を自分にしか用いないなら、
    たとえば愛を自分だけに向けるなら、
    ただの自己愛であって神の愛と異なります。
    もし財産を自分だけのために使い・蓄えるなら、
    その人は守銭奴です。
    もし自分の賜物を自分だけでしか用いないなら、
    その人は実際にはとても貧しい人です。
    自分の賜物を分かち合わないなら、
    他の人々の賜物も分かち合われず、
    自分の賜物しか持つことができないですから。
    神の賜物は、互いに用い合う、
    互恵性にこそ真の価値と意味があります。
    実際、わたしたちは、
    神の賜物においてとても豊かです。
    ほんとうに豊かさの中を生きています。
    自分や家族の誰かが重い病を負ったとき、
    わたしたちは自分や家族のために
    いっしょうけんめい祈ることでしょう。
    しかし、その祈りは数人だけのものです。
    しかし、わたしたちは知っています。
    「わたし」が病に倒れたなら、
    教会の信仰の交わりを生きている、
    何十人もの人の祈りが、同情が、慈しみが、
    わたしを取り巻き、支え、
    わたしを決してひとりぼっちにしないことを。
    だから、わたしたちはとても豊かです。
    神の賜物による豊かさを生きています。
    互いの賜物を分かち合う豊かさを、
    わたしたちは生きています。
    わたしが喜ぶとき、
    いったいどれほどの多くの人の喜びが、
    わたしと共にあることでしょうか。
    わたしが悲しんでいるとき、
    いったいどれほど多くの人が、
    わたしと共に悲しんでいてくれるでしょうか。
    わたしが皆さんに祈ってくださいと願うとき、
    それはただの空虚な音にすぎないでしょうか。
    いいえ、わたしたちは信じ、知っています。
    「祈ってください」と告げれば、
    わたしの背後には心からの熱い祈りが、
    実に多く豊かに注がれ、
    わたしを包んで支えてくれることを。
    信仰による賜物を分かち合い、
    信仰によって共に励まし合い、
    共にこの世を歩む信仰の友がいることが、
    どれほど霊的に豊かであることか、
    わたしたちは心に留めていましょう。
    パウロはそういう豊かさを生きた人であり、
    いまローマの信仰者にも、
    その豊かさを生きてほしいと願って、
    この手紙を書いています。
    それがローマで現実になったことは、
    ローマ教会二千年の歴史が証明しています。



週報より

  • 2022.05.22 週報より抜粋・要約

  • ・月報『モレノ』6月号ができました。
    6月号も無事に発行することができました。
    原稿をくださった方、
    製作してくださった方、
    ありがとうございました。
    原稿は常時募集していますので、
    なにか書こうと思い立ったら、
    編集長か牧師にお渡しください。

    ・先週の十分間除草にご協力くださり、
    感謝します。 
    教会の周囲がとてもすっきりして
    見栄えがよくなりました。
    来週29日も礼拝後に
    十分間除草をおこないますので、
    来週もまた、ご協力くださる方は
    よろしくお願いします。

    ・今週金曜日は、
    日本キリスト教協議会教育部
    の理事会が開かれます。
    学牧師が出席します。

    ・来週の礼拝は稲葉基嗣先生担当です。
    どうぞお楽しみに。 

    ・5月は神学校月間です。
    日本ナザレン神学校のためにお祈りください。
    神学校は皆さまの献金で運営されています。
    神学校月間献金にご協力ください
    (献金袋があります)。

    ・大阪桃谷教会の
    木坂聖一先生を覚えてお祈りください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像