小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  夕と朝、それは祝福を告げるリズム

朗読箇所

復活節第7主日

旧約 創世記1:1-19

◆天地の創造
1 初めに、神は天地を創造された。
2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。


新約 マタイによる福音書14:22-33

◆湖の上を歩く
22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

説教

夕と朝、それは祝福を告げるリズム

音声を聴く

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    身を横たえて眠り
    わたしはまた、目覚めます。
    主が支えていてくださいます。(詩編3:6)

    こんな風に、朝の目覚めを歌っているため、
    きょう一緒に交読した詩編3篇は
    伝統的に「朝の祈り」と呼ばれています。
    でも、この詩を朝の祈りと呼ぶことは
    相応しくないんじゃないかと感じるのは私だけでしょうか。
    私には、この詩人の心は暗い夜の闇に包まれているかのように思えます。
    詩人は、多くの仲間たちから責め立てられ、
    圧倒的な孤独の中にいます。

    詩人に向かって「お前に神の救いはない」と語りかける人々について、
    日本語訳の聖書は「苦しめる者」と訳しています。
    けれど、詩編が記された言語であるヘブライ語の聖書は、
    「狭める」とか「縛る」とか言った意味を持つ単語が使われています。
    なので、詩人は自分を苦しめる人々を
    自分を縛る人々、窮屈にする人々として描いています。
    つまり、物理的、精神的、霊的な窮屈さを与える存在として
    自分に敵対したり、自分を責め立てたりする人々を描いています。
    彼らは詩人の前に立ちはだかり、
    逃げ道を塞ぐように、この詩人を囲い込んでいる。
    そんな情景がこの詩編の冒頭の嘆きの言葉から想像できます。
    誰も自分の味方としてそばにいてくれず、
    この詩人は日々、孤独に、彼らの言動に耐えていました。
    「お前に神の救いがあるはずない」。
    「お前のようなヤツを神が救ってくれるものか」。
    そんな風に、彼らが自分に向かって口々に語りかける言葉が、
    何度も繰り返され、色々な人々から言われるため、
    まるで本当のことであるかのようにも思えてきてしまいます。
    そんな経験を思い起こしながら、
    詩人は神に向かって祈りました。
    自分の現状を嘆き、神に向かって叫びました。

    この詩人は、このような状況の中で
    自分が眠ることが出来ると語っています。
    わざわざ自分の睡眠について語っているので、
    この詩人は眠れなかったのでしょう。
    眠る前に一日を振り返り、彼らの言葉を何度も思い出してしまう。
    心がざわつき、沈み込み、
    どうしても眠りにつくことができない。
    そしていつの間にか夜の闇が深まり、
    静かな夜に、自分の心の声が何度も響き渡るのです。
    そんな詩人の姿を、私はこの詩編の冒頭から想像します。
    ですので、朝の祈りというよりは、
    深夜の祈りと呼びたいくらいです。
    暗闇の中での圧倒的孤独を感じながら、
    多くの人々に囲まれて責め立てられる状況について、
    夜、神に向かって嘆きの叫び声を上げて祈る。
    そんな詩編のように私には思えます。
    この時に詩人が眠れなかった原因とはきっと違うのでしょうが、
    現代に生きる私たちも心がざわつき、眠れないことがあります。
    そんな夜を過ごすことは、これからもきっとあるでしょう。
    なので、そのことを思うと、
    この詩編は何と現代に生きる私たちの心に
    寄り添ってくれる祈りの言葉なのでしょうか。

    この詩編を通して詩人が描く、詩人自身の姿は、
    この詩編を用いて祈った、後の時代の人々にとって、
    イスラエルの王であったあのダビデ王の物語と
    重なり合うところがあったのでしょう。
    息子アブサロムに裏切られ、命を狙われ、
    自分に敵対する人々がどんどん増えていく。
    この詩編を用いて祈っていた人々は
    そんなダビデの姿とこの詩人の姿を重ね合わせて見て、
    「ダビデがその子アブサロムから逃れたとき」と
    表題を付けたのも納得できます。

    この詩編がイスラエルの人々によって歌い継がれたのには、
    単に個人的な孤独や嘆きがうたわれているからではありません。
    イスラエルやユダの民族的な経験がその背後にあります。
    彼らは決して強い民族ではなく、
    小さく、弱い民族でした。
    ですから、周辺の民族や巨大な帝国に攻められ、
    取り囲まれる危険はいつでもありました。

    個人的な危機においても、
    民族的な危機においても、
    彼らの中にはいつも問いが湧き上がってきました。
    一体、自分たちの救いはどこにあるのだろうか。
    この問いは、いつも彼らの頭を悩ませる問題でした。
    強大な帝国が信じる他の神々にこそ、救いはあるのでしょうか。
    彼らのもつ軍事力にこそ、救いはあるのでしょうか。
    アッシリアやバビロニア、エジプトやペルシアなどの属州となって、
    彼らに守られる立場に身を置くことこそが、救いなのでしょうか。
    それとも、自分たちの努力によって
    なんとかして救いを獲得しなければいけないのでしょうか。

    いいえ、
    救いは主である神のもとにあります。
    これが詩人の強い確信でした。
    私たちも同じ信仰に立って、
    毎週の礼拝を始めています。
    「私たちの救いはどこからくるでしょうか」。
    「私たちの救いは天と地を造られた主から来ます」と。

    もちろん、詩人にとって、危険な状況は変わりません。
    でも、詩人は自分の確信をその危機の中で表明しました。
    自分たちを苦しめる人々に囲まれている状況を描くこの詩編は、
    神のもとに救いがあるという現実を
    とても詩的に表現しています。

    詩人は、神を盾と呼びます。
    残念ながら、日本語訳は「わたしの盾」と訳していますが、
    ヘブライ語で読むと「わたしを取り囲む盾」です。
    本来、盾はある特定の方向しか守ることができません。
    でも、盾である神は、すべての方向から信仰者を守る方だと、
    この詩人は表現しています。
    そしてもうひとつ、詩人の確信が2−3節の嘆きの中に隠されています。
    ヘブライ語で2節は神の名前である「ヤハウェ」で始まります。
    そして、3節は神を意味する「エロヒーム」で終わります。
    つまり、神の名前で詩人の嘆きは囲まれているわけです。
    神が、私の嘆きを包み込んでくださる。
    私の抱えるどうしようもない状況を神は知っていて、
    私のこの嘆きを聞いて、嘆きを知って、
    その嘆きを包み込んでくださる。
    そう信じることが出来たから、
    詩人は夜、眠りにつくことができたのでしょう。
    神の守りの中で眠り、また目覚めることが出来ると、
    詩人は神への強い信頼を込めて歌いました。

    現代に生きる私たちにとって、夜は一日の終わりだと思います。
    なので、夜に眠ることは、
    一日の終わりを無事に迎えた姿として映ります。
    そしてその反対に、夜に眠れないことは、苦しい一日の終り方です。
    でも、古代の人々の視点は少し違うことを
    きょう、私たちは思い起こしたいと思います。
    彼らにとって、
    古代イスラエルの人々にとって、
    一日は日没から始まりました。
    夜は終わりの時ではなく、一日の始まりを告げる時でした。
    だから、創世記1章は繰り返しています。
    夕があり、朝があった。
    朝から始まるのではなく、
    夕、朝。夕、朝と、
    夜から始まるリズムこそ、古代の人々の基本的なリズムです。
    現代に生きる私たちは、
    朝に目が覚めて、自分のするべきことを行い、
    夜が来ても、日中のやり残しを続けることがあります。
    だから、現代に生きる私たちにとって、
    朝も夜も活動できる時間です。
    でも、電気などない、夜は明かりが乏しかった古代の人々にとって、
    夜は活動に適した時間ではありません。
    いえ、何よりも、一日は夜から始まるのですから、
    自分の活動から一日は始まりません。
    無防備で、何も出来ない状態から、
    意識もなく、ただ夢をみて、この世界に身を委ねる、
    そんな夜から一日が始まります。
    私が眠りについているときから、神の守りは始まっています。
    私がすでに無防備のときから、神は動いています。
    私が何もしていないときから、神が造ったこの世界は動いています。
    古代の人々にとって、一日はそのようにして始まりました。
    自分がするべきすべてのことを
    自分の抱える悩みや嘆きさえも含めて、
    一度すべて手放すことから一日をはじめる。
    そして、夜の間は、神が活動してくださる。
    神が眠りにつくすべての者たちを守ってくださる。
    だから、朝を迎え、目が覚めたときは、
    神の働きを引き継いで、生きれば良いのです。
    このように、夕と朝の繰り返しは、
    私たちが神に造られた世界で生きていることを伝え、
    私たちが神の祝福に包まれ、
    神の守りの中で生きていることを告げる祝福のリズムです。
    ですから、抵抗することや逃げ出すことに目を向けるよりも、
    この詩人はまず最初に、神のもとに救いがあることに目を向けました。
    「お前に神の救いはない」と語りかけるあの声に、
    詩人はきっと、こう答えるでしょう。
    「そうです。私の救いのために私が出来ることは何もありません。
    救いは神のもとにあるからです。」

    悲しいことに、私たちの生きる日本社会からは、
    詩人が語る言葉とは正反対の声が度々聞こえてきます。
    「キミには努力や勉強がもっと必要だ。
    真面目さが必要だ。
    それに、能力や技術もしっかり身に着けなければいけない。
    それが君の成功や将来につながるのだから。」
    そして、それが出来なかったら、自己責任と断罪されます。
    そう、最終的な救いは、
    自分で獲得しなければならないと、
    何度私たちは言い聞かされてきたことでしょうか。
    でも、詩編3篇は私たちに伝えます。
    神にこそ、救いはある。
    そして、創世記1章が響かせる、夕と朝のリズムは私たちに伝えます。
    あなたは、神に造られた世界で生きている。
    神の守りと祝福の中ですでに生かされている。
    だから、私たちはもっと神に向かって嘆いて、叫んでも良いのでしょう。
    「主よ、助けてください」。
    神が祝福を告げるこの夕と朝のリズムを、
    私たちの嘆きのノイズで、雑音で掻き乱し、
    神に向かって叫んで良いのです。
    「主よ、助けてください」と。



週報より

  • 2022.05.29 週報より抜粋・要約

  • ・きょうの礼拝は稲葉基嗣先生の担当でした。
    毎月一回ほどの割合で
    礼拝の担当をお願いしております。
    きょうからは午前10時からの
    朝の学びの時も引き受けてくださいました。
    毎週10時から
    「おとなのための教会学校」をおこなっています。
    その日の礼拝説教のための
    聖書箇所を共に学ぶ時間です。
    興味がおありの方は、
    横の部屋にいらしてみてください。
    授業料無し、出入り自由、
    気が向いた時だけの出席OKです。

    ・きょうは礼拝後、有志の方で十分間除草をします。
    ご参加くださる方はよろしくお願いします。
    希望者だけの参加ですので、
    参加なさらない方はお茶をどうぞ。
    もし気温が高すぎるようでしたら、
    牧師判断で中止するかもしれません。

    ・今週は、水曜日と金曜日に
    聖書協会関連の会議が開かれます。
    水曜日は三役会・財政委員会が
    銀座の聖書協会ビルで開かれます。
    金曜日は理事会・評議員会が
    市ヶ谷で開催されます。
    どちらも学牧師が出席します。

    ・来週は聖霊降臨祭です。
    聖なる神の霊が今も天のキリストと
    地のわたしたちを繫いでくださいます。
    来週は礼拝後、月例教会役員会を開きます。
    教会役員の皆さまはよろしくお願いします。
    教会へのご要望、ご意見などがありましたら
    牧師にお知らせください。

    ・5月は神学校月間です。
    日本ナザレン神学校のために
    お祈りと献金をお願いします。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像