小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  聖霊は人々をどのように変えてきたか

朗読箇所

聖霊降臨祭

ハバクク書2:1-4

◆主の答え
1 わたしは歩哨の部署につき
砦の上に立って見張り
神がわたしに何を語り
わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。
2 主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように
板の上にはっきりと記せ。
3 定められた時のために
もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。
4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」


新約 ローマの信徒への手紙1:16-17

◆福音の力
16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

説教

聖霊は人々をどのように変えてきたか

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    二節だけからの説教です。
    とても短い箇所ですが、
    とても重みのある重要な、
    そして同時に理解のむずかしい箇所です。
    17節をどう訳したらよいのか、
    これまで多くの議論がなされてきました。
    それも現代になってからです。
    この短い箇所がなぜ重要なのか。
    それは、ここでパウロが、
    この手紙全体で伝えたいことを、
    短くまとめて読者に示すからです。
    この二つの節を読むと、
    パウロがこの手紙全体をとおして、
    いったい何を伝えたいのかがわかります。
    もちろんこの二節を読めば、
    充分ということではありません。
    この二節をとおして、
    パウロは読者に心備えをさせたいのです。
    これから読む手紙の本文をとおして、
    読者がいったい何を重要なこととして、
    手紙から読み取るべきなのか。
    そのことを最初に書き記しています。
    もちろんこうした手法は、
    パウロのオリジナルではなく、
    古代ギリシア・ローマの社会で、
    重要な文書が書かれる時に用いられた、
    一般的な記述方法でした。
    修辞学では propositio 提題と呼ばれる、
    全体の核心部分を最初に述べる箇所。
    それが16、17節です。
    ところが、驚くべきことに、
    パウロはそんな重要な箇所を、
    とても意外な書き出しで始めるのです。
    「なぜなら、わたしは福音を恥とはしないからです」。
    日本語の聖書には、
    この「なぜなら」という意味の、
    ギリシア語「ガル」が訳されていません。
    日本語としてぎこちないからでしょうか。
    しかし、日本語聖書が省略してしまった、
    この「なぜなら」には重要な意味と役割があります。
    16、17節でパウロは、
    三回もこの「なぜなら」という単語を使います。
    「なぜなら」、「なぜなら」、「なぜなら」、と
    前の議論を説明する仕方で、
    パウロは議論を積み重ねてゆくのです。
    遡って14節でパウロはこう書いています。


    わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、
    知恵のある人にもない人にも、
    果たすべき責任があります。
    それで、ローマにいるあなたがたにも、
    ぜひ福音を告げ知らせたいのです。


    そう書いてからパウロは16節で、
    「なぜなら」とその理由を明らかにします。
    「なぜなら、わたしは福音を恥とはしないからです」と。
    では、いったいなぜ、
    パウロは福音を恥とはしないのでしょうか。
    その理由をパウロは、
    二番目の、これも日本語聖書では省略されている、
    「なぜなら」を用いて説明します。


    なぜなら、福音は信じる者すべてに
    救いをもたらす神の力だからです。


    パウロには絶対的な確信がありました。
    福音すなわちイエス・キリストの出来事こそが、
    民族や人種、身分階級、知恵の有無に関係なく、
    すべての人に救いをもたらす神の恵みなのだと。
    キリストをとおして人々は、
    罪を赦され、神に受け入れられ、
    天の国と永遠の命の約束を信じて、
    この世における旅人として生きる者とされます。
    この確信があればこそ、パウロは、
    地中海世界各地を旅して福音を宣べ伝え、
    人々をキリスト者として招き、教会をたて、
    いずれローマに行って福音を告げ知らせることを
    切なる願いとしつつ、この手紙を書いています。
    それほどにパウロは、
    福音の素晴らしさと力を信じています。
    そうであれば、いったいなぜ、
    パウロは「わたしは福音を恥とはしない」
    などと書いたのでしょうか。
    福音を信じることは恥だと思う人々が、
    パウロの時代にはいたのでしょうか。
    おそらく、そうなのでしょう。
    どうして福音が恥だと思われたのか。
    そこには理由があったはずです。
    キリストを救い主と信じて生きること、
    つまり福音を信じるということは、
    信じる人の生き方を根底から動かし、
    変化させ、新たにするからです。
    福音を信じた人々、
    すなわちイエス・キリストを救い主と信じ、
    キリストを「わたしの主」と呼ぶ人は、
    もはやそれ以前と同じでいることはできません。
    キリストを信じても何も変わらないとしたら、
    真にキリストを信じたのではなく、
    自分の都合のよいものに変換られた、
    自分の創り出したキリストを信じただけです。
    キリストを信じるなら必ず、
    その人は生き方が変えられ、
    新たにされるはずです。
    命の目標はこの世のどこか・何かではなく、
    神の国に置かれ、天の故郷を望むはずです。
    生きるうえで第一に求める価値は、
    富や名声や快楽ではなく、
    憐れみ深さと互いに愛し合い、
    平和を造ることへと変えられます。
    それが福音を信じて生きるということです。
    それはとてもよいことのように、
    とてもすばらしいことのように思われます。
    だとしたらなぜパウロは、
    「福音を恥とはしない」などと言うのでしょうか。
    そもそも、わたしたちはいったい何を、
    恥と感じるものなのか。
    そのことを考えると、
    パウロの言葉の意味が分かることでしょう。
    わたしたちは、自分が異質であり、
    他の人からはずれていると思う時、
    恥だと感じるのではないでしょうか。
    わたしは高校の時、
    祖母といっしょに暮らしていました。
    とてもすてきな祖母で、
    わたしの信仰を育ててくれたのは祖母でした。
    でも、一つだけ嫌なことがありました。
    祖母が毎日の弁当を作ってくれていました。
    それが、他のクラスメートよりも、
    一回り大きな弁当箱で、
    そこに白ご飯に梅干しが一個乗っています。
    おかずは豚肉とピーマンを炒めたもの、
    あるいは塩鮭を焼いたものが一切れ。
    男子校でしたからカラフルではないけれど、
    周りのみんなの弁当は、もっと多彩でした。
    みんなの弁当とはあまりに違う。
    だから恥ずかしくて、
    弁当を開くと蓋を前に立てて、
    両腕で塞いで覗かれないようにして、
    急いで食べていました。
    たまに弁当を家に忘れて学校に行ってしまいます。
    そんなときは、ちょっとほっとしました。
    学食でカレーライスか日替わり定食ですから。
    ところが、弁当を忘れてしまったとき、
    祖母が電車に乗って弁当を届けてくれるのです。
    四時間目の終わり頃に、
    教室の廊下に人影が見えると祖母でした。
    今では心から感謝していますが、
    その当時は恥ずかしさが先立ちました。
    周囲の人々の考え方、振る舞い、
    習慣、価値観と異なるとき、
    わたしたちは周囲から変な人とみられ、
    異質でおかしな人と思われます。
    そんなときに恥だと感じることでしょう。
    みんなと違うことに気付いたとき、
    みんなと同じことをしないとき、
    忘れ物をして教室で一人立たされるとき、
    わたしたちは恥だと感じます。
    その度合いが強まると、
    恥の感覚は恐れに変わり、
    周囲の目は興味本位から脅しに変わります。
    みんなと同じように国家に忠誠を誓わず、
    みんなといっしょに王を礼賛しないとき、
    軍国主義のただ中で戦争に反対するとき、
    恐れに近い恥を感じることでしょう
    パウロの時代、古代ローマ社会で、
    剣闘士のショーをみんなと見に行かないとき、
    周囲の人々に合わせて不道徳な娯楽を楽しまず、
    みんなといっしょに楽しむのを拒むとき、
    自分たちが異質であることを思い知らされます。
    日本社会で国家神道に同調しないとき、
    非国民と呼ばれて職を追われることがありました。
    内村鑑三がそうでした。
    地域の神社の祭りに参加しないとき、
    自分たちだけが違うことを恥と感じ、
    あるいは周囲から同調圧力がかかり、
    時に公然と、あるいは暗黙の脅しを受けます。
    多様性が乏しい社会や、
    同質で均一なことが美徳と思われる社会では、
    そのような圧力は強まります。
    福音を信じてキリストを救い主とすることは、
    世間や周囲を基準とする生き方から、
    キリストの愛と憐れみ、正義と公平を基準とする、
    別の生き方へと劇的に変えられることです。
    世間や周囲に合わせて、
    異質にならないことを価値とすることから、
    世間ではなくキリストに合わせ、
    神の国の価値を生きる者とされることです。
    今や、この世の考えや価値がものさしではなくなり、
    キリスト者は神の国と神の義を第一に求めます。
    なんと、世間の多くの人々と異なることでしょう。
    わたしたちが抱く希望、願い求める価値は、
    キリストの福音をものさしとしています。
    そのようにわたしたちを変えることが、
    わたしたちの内に来てくださる、
    聖なる神の霊の働きです。
    今から二千年ほど前、
    キリストの十字架と復活を体験し、
    復活のキリストの昇天を見届けた弟子たちが、
    一つ所に集まって祈っていました。
    すると彼らに聖霊が降り、
    彼らはその時から変えられました。
    使徒言行録は彼らが諸国の言葉で話し出したと、
    不思議な現象を伝えています。
    しかし、それ以上に重要なことは、
    彼らが世間の目を逃れて潜み、
    みんなと違う者であることを恥としていたのが、
    大きく変えられたことでした。
    福音を恥としていた彼らが、
    福音を誇りとして生きる者へとされたのでした。
    それが聖霊の働きでした。
    キリストを信じる者に聖霊が降る。
    それが主キリストの約束であり、
    最初のあの聖霊降臨の出来事以来、
    今に至るまで、信仰者にとっての現実です。
    聖霊が人々をどう変えるのか。
    それは明白です。
    世の人々、世の風潮、世間にではなく、
    福音を恥とはしない、
    キリストと共に生きる者としての、
    愛と慈しみを生き、
    正義を祈り求め、
    平和を作り、
    天の故郷を目指してこの世を旅する、
    神の民へと変えるのです。
    わたしたちはそのように変えられたのです。


週報より

  • 2022.06.05 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。
    ペンテコステは、
    五十日目を意味するギリシア語です。
    主イエスの復活から五十日目に、
    弟子たちに聖霊が降り、
    その時から主イエスを信じる人々の
    共同体(教会)がはじまり、
    キリストの福音を宣べ伝える働きが
    進められてきました。
    教会はこの日を記念して
    聖霊降臨祭として祝ってきました。
    過去の記念というだけではなく、
    いまも聖霊の力により、
    人々がキリストを信じ、
    信仰的な生き方を祈り求め、   
    教会の働きが世界で進められています。

    ・きょうは礼拝後、
    有志の方で十分間除草をします。
    ご参加くださる方はよろしくお願いします。
    希望者だけの参加ですので、
    参加なさらない方はお茶をどうぞ。

    ・十分間除草のあと、
    月例教会役員会を開きます。   
    教会役員の皆さまは付属館にいらしてください。
    役員会で話し合ってほしい議題がありましたら、
    お知らせください。



    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像