小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  この世界の現実があるべき姿かと神は問う

朗読箇所

三位一体の主日

イザヤ書65:17-25

◆救いの約束
17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。
19 わたしはエルサレムを喜びとし
わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
20 そこには、もはや若死にする者も
年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ
百歳に達しない者は呪われた者とされる。
21 彼らは家を建てて住み
ぶどうを植えてその実を食べる。
22 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく
彼らが植えたものを
他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり
わたしに選ばれた者らは
彼らの手の業にまさって長らえる。
23 彼らは無駄に労することなく
生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に
主に祝福された者の一族となる。
24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
まだ語りかけている間に、聞き届ける。
25 狼と小羊は共に草をはみ
獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし
わたしの聖なる山のどこにおいても
害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。


新約 ローマの信徒への手紙1:18-32

◆人類の罪
18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、
23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、
30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、
31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。
32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

説教

この世界の現実があるべき姿かと神は問う

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    きょうのローマの信徒への手紙の箇所ほど、
    聖書の中でも辛辣な言葉はないでしょう。
    どうしてパウロは、こんな厳しい言葉を、
    ローマのキリスト者たちに書き送ったのか、
    ちょっと首を傾げたくなります。
    パウロがはじめてローマに宛てた手紙で、
    パウロはローマに行ったこともなく、
    いわば自己紹介を兼ねた手紙だとしたら、
    なおさら奇妙に感じます。
    手紙のあいさつと概要を語ったあとに続く、
    本文の冒頭でいきなりですから、
    受け取ったローマの信徒たちも、
    おそらくちょっと驚いたことでしょう。
    「パウロ恐い」とさえ思ったでしょうか。
    しかし、パウロが急に強面になって、
    厳しい叱責を書いたように思われますが、
    注意深く読むと、
    パウロがこのように書いたのは、
    当然の流れであったことがわかります。
    パウロはこのことを、
    ローマの人々だけに書いたのではありません。
    パウロは神と人間の関係、
    世界と人間の関わりについて、
    全人類に共通した普遍的な問題を、
    ここで取り上げているのです。
    16節でパウロは、
    福音とは信仰によって義とされることだと、
    明確に語っているからです。
    「福音は信じる者すべてに救いをもたらす
    神の力です」と述べて、
    17節でそのことを聖書、
    ハバクク書から引用して証明しています。
    信仰によって義とされる。
    それが、パウロがユダヤ人異邦人の区別なく、
    すべての人々に、
    そしてローマの人々に対しても
    福音を宣べ伝える根拠です。
    信仰によって義とされる。
    それは別の言い方をするなら、
    人はだれも自分の力で義を獲得できず、
    人間の働きやおこないによって、
    神に認められることも、
    神に救われることもないし、
    そのようなことはできないということです。
    なぜ、人はだれも、
    自分で自分を救うことはできず、
    自分で神に救われることはできないのか。
    なぜなのか、その理由を、
    パウロは18−32節にわたり、
    徹底的に、明確、詳細に語ります。
    人は自分で自分を救うことはできず、
    自分で神に義と認められることは、
    ぜったいにあり得ない。
    その絶対的不可能さを伝えるために、
    パウロはこれほどまで露骨に、
    歯に衣を着せぬ物言いをするのです。
    曖昧さを許すわけにはいかない。
    その信念がここに表されています。
    さもないと、
    自分は大丈夫だと思い込んだり、
    福音に頼る必要は無いと言い出す人が、
    自分や教会の人々を惑わす恐れがあります。
    事実、パウロはこれまでにも、
    そのようなことを主張する人たちと、
    はげしく論争してきたのでした。
    なぜ人はだれも、
    自分で救いを獲得することはできず、
    自分のおこないで義と認められることが、
    だんじてあり得ないのか。
    その理由をパウロは、
    18−32節でくどいほどに告げました。
    とても辛辣な言葉ですが、
    ここでパウロが述べていることは、
    まさしく世界と人間の現実そのものです。
    人はだれも皆、
    「不義によって真理を妨げる人間の
    あらゆる不敬虔と不義」を生きています。
    パウロによれば、そのことこそ、
    世界そして全人類が普遍的に負っている
    究極の問題に他なりません。
    「そんなことを言われても、
    わたしはあなたの言う神を知らない」
    という言い訳をパウロは許しません。
    わたしはユダヤ人ではないし、
    キリスト教徒でもないから、
    ということも通りません。
    たとえ聖書の啓示を知らなくても、
    神の創造の手による世界で生き、
    善悪を識別して、
    正義と秩序をこの世界に見るかぎり、
    人は神について、
    また神の義について無知ではありません。
    たとえ「神」という言葉は知らなくとも、
    神の見えない性質を人は認知するはずです。
    人は民族や文化や時代を超えて、
    神の善と正義を多少なりとも意識し、
    神聖なものへの畏敬を抱き、
    永遠性への想いとあこがれを持ち、
    世界のその上を見上げる時、
    神を崇め感謝を抱くはずです。
    神の性質は被造物に現されているので、
    人はたとえ漠然とではあっても、
    神を知るはずだからです。
    それはキリスト教を信じるとか、
    なにか他の宗教を信じる、
    という意味ではありません。
    そこまで明確ではなくとも、
    人は世界を通して、
    世界の上を、
    聖書の言葉を使うなら天を見上げます。
    そのとき、人はだれでも、
    この世界が秩序と正義、
    そして互恵性の原則を持つことを認め、
    信じるようになるはずです。
    それは同時に、
    人が世界の支配者ではないことを認め、
    世界を人間の支配と所有の対象とはしない、
    ということを意味するはずです。
    「はず」というのは、
    現実にはそうではないからです。
    パウロはその事実を明確に、
    はっきりと指摘したのでした。
    人間の問題は、
    人が情欲に従って生きること、
    つまり自己目的で世界を消費し、
    世界を自分や自分の国家、民族のものとし、
    所有と獲得を広げ、増し加え、
    互いに競い合い、奪い合い、
    その結果、神の秩序を破壊し、
    世界を貪りの対象としていることです。
    本来、人はこの世界の中だけに目を向け、
    世界の何かを、多くを、あるいは全てを、
    手に入れられるだけ入れる生き方ではなく、
    世界を造り、統べ治めている、
    世界に秩序と正義を与える方、
    世界を互恵性のもとに創造した方を見上げ、
    その方に目を向けて生きるべきです。
    しかし、人はそうしてきませんでした。
    人は人類の初めから現代に至るまで、
    この世界を欲望の目で見て、
    獲得の対象としてしか考えません。
    領土を広げ、富を増やし、
    世界の中に自分の持ち分を確保し、
    より多く得ようと、
    人々は競い、争い、対立し、
    戦ってきました。
    その結果、この世界がどうなったか、
    何に満ちているかをパウロは示します。
    神を知っているはずなのに、
    そのことを無価値だと思い込み、
    自分に利益や勝利をもたらす、
    自分の創り出した神以外はみとめず、
    自分の情欲に基づいて生きて来た結果、
    この世界は、
    「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、
    妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、
    陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み、
    傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、
    悪事をたくらみ、親に逆らい、
    無分別、身勝手、薄情、
    無慈悲になったのです」と
    よくもこれほどまでたくさん、
    パウロは並べ上げたものです。
    邪悪さの一覧表は、
    他の箇所でもパウロは書いています。
    しかし、これほどたくせんではありません。
    それだけ、パウロはこの世界の問題を、
    深く思い詰めているのでしょう。
    そして、これらの悪徳一覧を見ると、
    ああ、なんと現代世界の現実そのものでしょう。
    いま、わたしたちはこの世界を見る時、
    パウロの辛辣な言葉がまさしく、
    この世界の姿そのものを明らかにしていると、
    そのように思わざるを得ません。
    事実、人類は常に、
    自分の欲望を神として崇めてきました。
    自分の情欲をもっとも大切なもの、
    すなわち神として崇拝してきました。
    その欲が大きいか小さいか、
    隣国を侵略して手に入れようとするものか、
    ささやかな願望なのかは、
    程度の問題であって、
    本質的なことではありません。
    神はそんな世界を気にかけず、
    世界をそのように貪り破壊する人間に、
    無関心なままなのでしょうか。
    いいえ、そうではありません。
    だからパウロは最初にはっきり告げます。


    不義によって真理を妨げる人間の
    あらゆる不敬虔と不義に対して、
    神は天から怒りを現されます。


    なんと恐ろしい言葉でしょう。
    神が天から怒りを現すとは。
    この言葉をどう受けとめるべきでしょうか。
    かつて神が腐敗と堕落の町、
    ソドムとゴモラに対して天から火を降らせ、
    すべてを焼き尽くして滅ぼし、
    死海の底に沈めたように、
    神は怒りをもって天から火を降らせ、
    人類を滅ぼすという予告でしょうか。
    神は怒りのゆえに、
    永遠の劫火が燃える地獄に、
    人々を投げ込むというのでしょうか。
    いいえ。
    パウロは驚くべき神の御心を語ります。


    それで、神は彼らを
    恥ずべき情欲に任せられました。
    ・・・
    神は、彼らを無価値な思いに渡され、
    そのため、彼らはしてはならないことを
    するようになりました。


    だから、人はいっそう、やりたい放題をし続け、
    世界を搾取し破壊してきました。
    神はなにもしない、
    神などいない。
    そう思い込んだからです。
    神を恐れないという人間の問題は、
    現代にその度合いが飛躍的に高まり、
    もうこの世界はほとんど瀕死の状態です。
    それなのに人類は奪い合い搾取し、
    侵略し、独裁的に支配し、威嚇し合っています。
    そのような行為が死に価するという、
    神の定めを知っていながら、
    それをおこない、
    おこなう者とその行為を是認しています。
    だが神は放置しているのでしょうか。
    結局、神はこの世界と人類を見捨てて、
    勝手に滅びるまで怒ったままなのでしょうか。
    「神が恥ずべき情欲に任せた」というのは、
    神がもう何もせず救いもしないという、
    神の放置の宣言でしょうか。
    わたしたちは、そうではないと知っています。
    神は無視も放置もしません。
    わたしたちは神に問われています。
    この世界の現実があるべき姿なのかと。
    そんなことはない。
    神は世界を変える道を備え、
    この世界の罪深さを悔い改めて、
    あるべき姿を求めさせてくださるはずだ。
    そう信じる人に、
    イエス・キリストという福音を、
    信じる者に救いをもたらす神の力を、
    現してくださいました。
    神は強制的に暴力的に世界を裁いて、
    御心からかけ離れた世界を滅ぼすのではなく、
    天地創造の時に人の手に委ねた世界を
    人の手に委ね続け、
    そこに神は独り子イエス・キリストを遣わして、
    人々が信じて救われるよう、
    忍耐して待ってくださいます。
    今も神は忍耐して待っておられます。
    人が自分を神の位に高め、
    自分の欲を崇めて生きることをやめて、
    神を崇め感謝を捧げるようになることを。
    この世界の現実があるべき姿ではない。
    そう考える人は、
    キリストをとおして明らかにされた、
    神の福音を信じて、
    世界を神のものとして大切にし、
    この世界に神の御心である、
    憐れみの秩序と正義をもたらそうと願います。
    そしてイザヤが預言したような、
    狼と小羊が共に草を食み、
    獅子は牛のようにわらを食べる、
    誰かが他者を損なうことのない、
    互恵性の原則を創り出そうとします。
    わたしたちは、
    そのような生き方へと召し出されているのです。


週報より

  • 2022.06.12 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは三位一体の主日です。
    教会暦は、昨年の待降節から
    先週の聖霊降臨祭まで、
    主イエスの御生涯と救いの働き
    までの出来事に沿ってきました。
    先週の聖霊降臨祭で、
    およそ半年にわたる期間が終わり、
    聖霊の降臨によって礼拝をとおして
    救いの出来事を体験してきました。
    キリストの救いの働きと
    聖霊の体験を祝ってきたことで、
    神が父、子、聖霊の三位一体の神
    であることが明らかにされました。
    きょうはそのことを記念する、
    三位一体の主日です。
    約半年、次の待降節まで、
    教会暦は三位一体節となります。

    ・きょうはティータイム後、
    モレノ編集会をします。          
    モレノ・チームの皆さまは
    付属館にお集まりください。
    原稿はきょうが締め切り日です。

    ・土曜日は、鎌倉雪の下教会で
    聖書協会共同訳セミナーが開かれます。
    コロナ禍で長く中断されていましたので、
    久しぶりの再開です。
    公開セミナーで、関心がおありの方は
    オンラインで視聴可能です。
    鎌倉雪ノ下教会YouTubeチャンネル
    で検索してください。
    6月18日(土)13:15より


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像