小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  神の憐れみがわたしたちを動かす

朗読箇所

三位一体後第1主日

創世記9:9-17

◆祝福と契約
9 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」


新約 ローマの信徒への手紙2:1-16

◆神の正しい裁き
1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
11 神は人を分け隔てなさいません。
12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

説教

神の憐れみがわたしたちを動かす

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

     わたしたちの教会では、
    洗礼を受けることを望む方に、
    ごく簡単にではありますが、
    洗礼準備会をしています。
    大人の洗礼準備会で、ときどき、
    こんな質問をされることがあります。
    「初歩的なことですが、
    罪ってなんでしょうか」。
    たしかに教会では、
    礼拝で最初にいっしょに祈ります。
    「罪の悔い改めの祈り」を。
    またこうも教え、宣言します。
    「キリストによってあがなわれ、
    罪が赦されました」と。
    ですから、罪とはなにか、
    罪が赦されるとはどういうことか、
    そのことを理解するのは、
    とても重要なことに違いありません。
    しかし案外と、
    改めて問われると返答に困ります。
    ことがらがとても大きくて、
    簡単に「罪とは・・・です」と、
    言いきることは難しいからです。
    それは「罪の赦し」も同じ。
    わたしたちはキリストの恵みにより、
    罪が赦されたと信じます。
    しかし、それがどういうことなのかを、
    簡単にわかったとは言えません。
    奥深い意味を持つ言葉だからです。
    罪の赦しということには、
    一人一人の罪の問題だけでなく、
    この世界の現実、
    この世界の罪深さの問題が関係しています。
    キリスト教の教える罪ということは、
    世の中の人々が考える「罪」とは、
    ずいぶんと異なっています。
    大抵の人にとって、
    罪とは犯罪のことであり、
    他の人に損害を与える行為です。
    だから、大多数の人は、
    自分は犯罪者だとは思いませんから、
    「人はだれも罪びとです」と言われると、
    不思議に感じることでしょう。
    自分が罪びとだなどとは思わない。
    それが率直な感想ではないでしょうか。
    キリスト教が罪と定義するのは、
    人が創造主である神を離れていること、
    あるいはパウロの言葉を用いるなら、
    「神に従わず感謝をささげない」ことです。
    しかし、これも奇妙に感じるかもしれません。
    神に従わないし神に感謝も捧げない、
    そう言われても、
    知りもしない神に従わず、
    知りもしない神に、
    感謝を捧げないことが罪だと言われても、
    そもそも神を知らないのであれば、
    理不尽な言いがかりとしか思えない。
    そう感じることでしょう。
    神を知らないのだから、
    知らない神に従うことをせず、
    知らない神に感謝をしないとしても、
    それが罪だとは言えないはずだ。
    そのような反論が出て来そうです。
    神を知らないから罪がないのであれば、
    神に裁かれることもないはず。
    そういった理屈は、
    世の中で通用している法律の、
    一般的な原則です。
    だとしたら罪びとにならないためには、
    神を知らないでいた方が良い、
    ということになってしまいます。
    そんなことはあり得ないからこそ、
    パウロは今日の箇所で、
    一見風変わりな言い方をするのです。


    だから、すべて人を裁く者よ、
    弁解の余地はない。


    罪を糾弾するのであれば、


    だから、すべて罪びとよ、
    弁解の余地はない。


    そう言うべきではないでしょうか。
    その方が納得できるように思うのですが。
    なぜパウロは「罪びと」と言わず、
    「人を裁く者」と言ったのでしょうか。
    そこに、人間の真の問題が現されています。
    人は国や文化や民族、時代を超えて、
    他の人を裁いて生きています。
    神を知らず自分を罪びとだとは思わない人も、
    みんな他の人を裁いています。
    だれかを裁くということは、
    その人を罪に定めることです。
    有罪判決を、わたしたちが下すことです。
    それは同時に、自分が裁判官の地位に立つこと、
    つまり自分を正しいとすることでもあります。
    人を裁く時、
    その人は同時に二つのことをしています。
    他の人を罪に定めることと、
    自分の正しさを主張することです。
    そうであれば、他の人を裁くということは、
    罪を知っているということの証です。
    人を裁くかぎり、
    その人は罪を知り、認めているはずです。
    しかし、それはあくまで他人の罪のことです。
    他の人を罪びととして断罪することは、
    自分が正しいと主張することでもあります。
    そこにパウロは、この世界の、
    そしてすべての人の罪深さを見ています。
    なぜなら裁く人自身が、
    同じことをしているからだとパウロは言います。
    「同じこと」というのは、
    具体的に同じ罪をおこなっている、
    という意味ではありません。
    神に従わず感謝を捧げない、
    同じようにそのような生き方をしている、
    という意味です。
    実際、この世界はまったくそのとおりです。
    パウロが言うそのままの世界です。
    他人を裁き自己正当化をすることが、
    どれほどこの世界の現実であることか。
    わたしたちは自分自身と世界を考えると、
    思い知らされることでしょう。
    他人を裁くことと自己正当化の罪が、
    どれほど世界に不正義と対立を生み出し、
    攻撃的で暴力的な現実を広げていることか。
    どれほど世界が冷淡で無慈悲なことか。
    戦争はこれまでも今も、
    必ず正義の主張によって正当化され、
    正義をかざすことでいっそう破壊的です。
    国家や民族はもちろんのこと、
    あらゆる人間関係が、
    人を裁き自分を正しいと主張する、
    その罪の支配のもとにあります。
    神に従うことをせず、
    神に感謝することなく、
    他の人を裁き自分を正しいとする人を、
    神はいったいどうなさるでしょうか。
    神はそうした人間の問題には関心がなく、
    放置したままにしておくのでしょうか。
    いいえ。
    そんなことはあり得ません。
    神はこの世界を神の御心に基づいて創造し、
    神の御心に沿う世界であることを願い、
    人々が互いに善を生きることを求めます。
    神の御心から遠く離れ、
    むしろ神の御心に反し、
    敵対している人間という存在を、
    神が放置しておくはずはありません。
    だからパウロは厳しく問いかけるのです。


    神はこのようなことをおこなう者を
    正しくお裁きになると、
    わたしたちは知っています。


    すぐに続けてこうも告げます。


    あなたは、神の裁きを
    逃れられると思うのですか。


    この問いの中にはすでに答えがあります。
    「逃れられるはずがないではないか」と。
    どんな裁きを神は下すのでしょうか。
    天から裁きの火を降らせて滅ぼすのでしょうか。
    地獄の底に罪深い者を落とし込むのでしょうか。
    洪水を起こして罪びとを滅ぼし尽くすでしょうか。
    いいえ。
    パウロは神の厳正な裁きを断言すると同時に、
    その神の裁きが今すぐに下されるのではないとも、
    5節で人々にはっきりと告げ知らせるのです。
    「この怒りは、神が正しい裁きを行われる
    怒りの日に現われるでしょう」と。
    「怒りの日」というのは、
    旧約聖書に由来する表現で、
    この世の終わりの時のことです。
    神の怒りは終わりの日まで現れない。
    それが意味することははっきりしています。
    神は今すぐに裁きを下したりはしない、
    ということです
    それはいったいなぜでしょうか。
    その理由は、
    神が慈愛と寛容と忍耐の神だからです。
    神の裁きはまったく別の仕方で、
    この世に示されました。
    神がその独り子を世に遣わし、
    神の御子が人となって救いの道を拓く、
    ということによってです。
    かつて神は、
    この世界が暴虐と不法に満ちた時、
    ノアとその家族に箱舟を造らせ、
    その中にノアの家族と、
    すべての生き物のつがいを入れて、
    不法に満ちた世界を洪水で滅ぼしました。
    しかし、洪水が収まった後、
    神はノアとその家族、
    そしてすべての生き物に対して、
    一つの約束を与えました。


    人に対して大地を呪うことは二度とすまい。
    人が心に思うことは、
    幼いときから悪いのだ。
    わたしは、この度したように
    生き物をことごとく打つことは、
    二度とすまい。(創世記8:21)


    神は人が罪深い存在であることを、
    重々ご存じのうえで、
    二度と裁きを下すことはしないとの約束を、
    人に与えたのでした。
    神はご自分の慈愛と寛容と忍耐の約束を、
    ノアとその家族に与え、以来、
    その約束に忠実であり続けておられます。
    神が人の罪と不義を裁くことは、
    終わりの日までしない。
    その約束は同時に、
    救いの道、人が神に従い感謝を捧げる、
    その道を拓いてくださることでもありました。
    わたしたちはイエス・キリストの出来事に、
    その救いの道を見出すのです。
    神がなぜそのようになさるのか。
    パウロはその理由を4節で神の本質に見ています。


    神の憐れみがあなたを悔い改めに導く


    ここで「憐れみ」と訳されている言葉は、
    「慈愛」「親切」とも訳すことができます。
    とても豊かな意味を持つ言葉です。
    神が人々を愛し、慈しみ、
    親切な思いで手を差し伸べてくださる、
    そのような神の御性質をパウロは、
    ここで「憐れみ」と表現したのでした。
    神の憐れみは、
    神が傍観者でいることを許しません。
    神の御心を動かし、
    内臓を震えさせ、
    手を差し伸べないではいられなくさせます。
    その神の思いが表されたのが、
    神の御子キリストでした。
    キリストを知り、キリストの言葉、おこない、
    キリストの愛と犠牲を身に受けた人は、
    神の憐れみのゆえに、
    根底から動かされることでしょう。
    神の憐れみを受けるとき、
    人は生き方を根底から変えられるはずです。
    わたしたちはその証人です。
    わたしたちは神の憐れみにより、
    悔い改めへと導かれたのでした。
    悔い改め。
    これも大きく深い意味を持つ言葉です。
    生き方そのもの、
    わたしたちの在り方そのもの、
    わたしたちの願いと理念と希望のすべてが、
    神へと向き直らされる。
    そのことを表す言葉ですから。
    そう、わたしたちは悔い改めました。
    今も悔い改め続けています。
    神へと向き直り、
    神に向かい続けて生きています。
    だからわたしたちは、
    天の御国を目指す旅人です。


週報より

  • 2022.06.19 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは礼拝後に十分間除草をしましょう。
    参加したい方にお願いすることですので、
    参加なさらない方は
    どうぞ会堂でゆっくりしてください。
    おもに花壇と教会周りをお願いします。
    天候次第では牧師判断で中止にします。

    ・月報『モレノ』7月号ができました。  
    原稿をくださった方、
    製作してくださった方に感謝します。
    今回は稲葉基嗣先生と学牧師の
    説教二本立てです。
    最近、モレノの記事が不足気味ですので、
    皆さまの自由投稿を期待しております。

    ・今週は二つのリモート集会・会議があります。
    21,22日は福音連盟福岡大会の
    理事会・聖会・総会が開かれます。
    24,25日は日本宣教学会
    全国研究会・理事会が開かれます。
    どちらも学牧師がオンラインで出席します。

    ・来週は恒例の、
    初夏のクリーンアップ・デイです。
    教会内外・付属館のそうじを、
    有志の皆さまでします。
    ご参加くださる方は
    掃除のできる服装でいらしてください。
    その前に来週はランチの会をします。  
    昼食をごいっしょください。
    掃除の参加の有無とは関係ありません。
    来週の礼拝は
    稲葉基嗣先生が担当してくださいます。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像