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朗読箇所

三位一体後第2主日

出エジプト記16:1-16

◆マナ
1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。
2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。
3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
6 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、
7 朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
9 モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、
10 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。
11 主はモーセに仰せになった。
12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。
15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」


新約 ヨハネによる福音書6-28-35


28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

説教

信頼と落胆の狭間に何かが降ってきた

音声を聴く

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    きょうの礼拝に向けて詩編4篇を読んでみて
    わたしが真っ先に抱いた感想は、
    何て曖昧な表現が多く、謎に満ちた詩編なのだろうかということです。
    「いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか」と詩人は訴えていますが、
    実際に名誉を傷つけられ、辱めを受けているのは誰なのでしょうか。
    素直に読めば、それは詩人自身のようにも思えますが、
    神の訴えを詩人が代弁している可能性も捨てきれません。
    また、5節の「おののいて」という言葉は
    ヘブライ語では「震える」という意味の単語が使われていますが、
    なぜ震えるのかをこの単語そのものは説明していません。
    新共同訳聖書は、神の前に恐れを抱いて震えるようにと
    詩人が呼びかけているように読めます。
    一方で、聖書協会共同訳は、「怒りに震えよ」と訳しています。
    誰かに傷つけられた自分の名誉やその経験に対して怒りを抱くのは良い。
    でも、復讐をしたり、相手を呪ったりして、
    罪を犯すなと詩人が記したのだという解釈に基づいた訳です。
    こんな風に曖昧さが目立つため、
    この詩編4篇という作品は、
    広く解釈される余地があって、
    時代や文化を超えて、たくさんの人の状況に寄り添い、
    祈りとして用いることが出来る詩編だといえるでしょう。

    このように、意味を確定しにくい、
    曖昧な表現が目立つ詩編なのですが、
    詩人がこの詩編に込めている中心的なメッセージはとても明確です。
    それは、神こそ信頼できる方だということです。
    詩人はまるで自分に言い聞かせるかのように、
    この詩を用いて信仰者たちに呼びかけています。
    「神があなたの祈りやその叫び声を聞いてくださることを知りなさい。」
    「神をおそれなさい。」
    「罪から離れなさい。」
    「自分の心に語りかけて、沈黙しなさい。」
    「神に捧げものをして、神に信頼しなさい。」
    たくさんの呼びかけを積み重ねて、
    イスラエルの民が神と向き合う準備を整えているかのようです。

    なぜこの詩人は、神に信頼するようにと、
    人々を力強く励ます必要があったのでしょうか。
    そして、なぜ自分にその言葉を
    言い聞かせる必要があったのでしょうか。
    7節に記されている「多くの人」の言葉は、
    この詩人が置かれた状況を少しだけ教えてくれます。
    多くの人たちは、こんな風に問いかけました。
    「誰が私たちに良いものを示せるのだろうか。」

    このような問いかけに対して、イスラエルの民は
    「神こそが、私たちに良いものを与えてくださる」と信じていました。
    でも、現実は良い事だらけではありません。
    困難が溢れています。
    不平等や貧困や抑圧があります。
    「だから、神よ、こんな私たちに向かって微笑んでください。
    私たちの毎日の生活を祝福してください。」
    そんな風に神に信頼し、
    神が必ず良いものを与え、祝福してくださると期待する。
    信仰者の前向きな祈りが記されているように見えます。
    でも、7節のこの言葉は、
    嘆きや落胆の言葉として訳せる可能性があります。
    「主よ、あなたの御顔の光は
    私たちから去ってしまった。」
    このように訳すと、
    「神の救いなんてない。
    神はもう私たちのもとから去ってしまった。
    だから自分たちに良いものを与えてくれる者など何処にもいない」
    という、叫び声にも似た激しい嘆きのように感じます。
    なので、7節の言葉は、多くの人たちが神に向かって願っているのか。
    それとも、神に向かって嘆いているのかよくわかりません。
    ですので、この言葉が持つ曖昧さから、
    神への信頼と落胆、神への願いと神に対する嘆きの狭間を
    詩人が揺れ動いている姿を私は想像します。
    「神を信頼したい。
    でも、落胆してしまう現実がある。
    神に落胆してしまう。
    でも、それでも、神を信頼し続けたい」と、
    詩人の心は激しく揺れ動いているのです。

    そう考えると、この詩編が歌う現実は、
    まさに私たちの現実そのもののようにも感じます。
    神は私に良いものを与え、私の人生を導いてくださるんだ。
    そんな風に神に対する信頼を抱くこともあれば、
    反対に、神が遠のいていくように思えることだってあります。
    「神は私に向かって決して微笑んでいない。
    私のもとから神の祝福は去ってしまったんだ」と落胆する。
    そんな風に信頼と落胆の狭間で揺れ動くことは、
    私たちの抱える現実でもあります。

    このような祈りがイスラエルの民の祈りであり続けたのは、
    イスラエルの民が神への信頼を常に堅く持っていたからでは
    もちろんないでしょう。
    むしろ、イスラエルの神への信頼は、揺れに揺れまくりました。
    たとえば、周辺の民族が信じる神々に
    イスラエルの民が魅力を感じ、惹かれていたのは明らかです。
    多くの神々は、民族の繁栄を保証したからです。
    さきほど読んだ出エジプト記の物語にも、
    神への信頼と落胆の間で心が揺れ動く
    イスラエルの民の姿が描かれています。
    彼らは叫びました。
    「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、
    パンを腹いっぱい食べられたのに。」(出エジ16:3)
    エジプトでの強制労働から解放され、
    神が与える新しい土地を目指して荒野を移動している時に
    イスラエルの民が語った言葉です。
    荒野の中であっても、
    神が自分たちを助け、
    神が良いものを与え続けてくれるということを
    彼らは信じきれませんでした。
    過ぎ去ったエジプトでの強制労働の日々の方が
    はるかにマシに思えてしまいました。
    「誰が良いものを与えるのだろうか。」
    「果たして、神は良いものを自分たちに与えてくれるのだろうか。」
    イスラエルの民は、荒野を歩んでいるときから、
    神に対する信頼と落胆の狭間で揺れ動いていました。

    そんな彼らに神が与えたものとは何だったのでしょうか?
    神が与えた食べ物の名前が、
    マナであったことはとても面白いことだと思います。
    ヘブライ語ではマン。
    「何?」って意味です。
    はじめてこの食べ物を見たイスラエルの民が
    「これ、何?(マン・フー)」と言ったことが
    この名前の由来でした。
    神が与える良いものを手に取り、
    「これなに?」って問いかけながら、
    神が約束した土地を目指して
    イスラエルの民は旅を続けました。

    約束の地を目指す荒野での旅の中で毎日、
    天からのパン、マナが降り続け、
    神がイスラエルの民を養い続けてくださったことは、
    イスラエルの民の心に深く刻まれた信仰的な経験でした。
    彼らは「これなに?」と旅の中で問い続けました。
    確かな答えを得たというわけでも、
    神が信頼に足る者だという
    確かな保証を得たわけでもありませんでした。
    神への信頼と落胆の狭間で、
    彼らは出会うあらゆる出来事に
    「これなに?」と問い続けたように思うのです。
    「これなに?」って思うけれども、
    疑問や嘆きや落胆が伴うけれども、
    それでも、神は約束した場所へと導いてくれた。
    これがイスラエルの民が荒野の旅で経験したことでした。

    私たちも信仰にあって、
    イスラエルの民と同じような旅をしています。
    現実の困難の中で、
    神への信頼を常に堅く持ち続けることはとても難しいことです。
    神よりも頼りになるように見えることが
    何と多いことでしょうか。
    神への落胆が大きくなればなるほど、
    他のものに頼りたくなります。
    確かな資産を手にして、安定を手にしたい。
    自分の身を守るために、
    たくさんのお金を割いて技術や能力を身につけたい。
    誰かの権威や自分の地位に頼りたい。
    確かな情報を手にしたい。

    もちろん、詩人はそれらすべてを悪とは言いません。
    心や身体の健康のためには、
    ある程度の経済的基盤は必要ですし、
    生きるため、誰かを助けるために、
    私たちは色々な力を身につける必要だってあります。
    けれども、この詩人に言わせれば、
    それらのものだけに頼り、過剰に追い求めることは虚しいことです。
    金銭やモノの価値は常に変わらないものではありません。
    常に変わっていく、不確かなものです。
    力や権威をいくら身につけようとも、満足できません。
    この世界のあらゆるものよりも、
    確かに私たちを励まし、支え、
    私たちの人生を導いてくださるのは神の他にはない。
    日常の中で出会うあらゆることに
    「これなに?」と戸惑い、問い掛けることが多いけれども、
    それでも神は良いものを与え、
    私たちを約束の地へと必ず導いてくださる。
    これが、神への信頼と落胆の狭間を揺れ動きながらも、
    神に信頼して生きることを強く自分に言い聞かせ、
    祈りの言葉にした詩編4篇の詩人の確信でした。

    私たちもまた、天の御国へと向かう旅の途上です。
    私たちの旅も「これなに?」の連続です。
    「これなに?」と問う度に、
    神への信頼と落胆の間を、喜びと嘆きの間を行き来します。
    でも、心に強く留めておきたいと思うのです。
    神は、イスラエルの民が約束の地へとたどり着くまで、
    マナを与えることを決してやめなかったことを。
    神は良いものを与えることを決して止めません。
    だってほら、神は独り子であるイエスさまを
    私たちのもとに送ってくださったではありませんか。
    私たちに命を与え、私たちを養う命のパンであるイエスさまを。
    神への信頼と落胆の狭間で揺れ動き、
    「なにこれ?」と問いかける私たちと一緒に
    イエスさまがこの旅を歩んでくださいます。


週報より

  • 2022.06.26 週報より抜粋・要約

  • 準備中です
  • ・きょうは礼拝後に「ランチの会」をいたします。
    みなさまぜひ、
    昼食のひとときをご一緒にお楽しみください。
    食事はセルフ・サービスのサンドイッチです。  
    ご自分でパンにハム、チーズ、
    やさいなどをはさんでください。
    費用は無料です。
    ランチの会への自由献金は歓迎します。
    目安は、大人200円、小学生100円程度です。 

    ・きょうは毎年初夏恒例の
    「クリーンアップ・デイ」です。
    自由参加ですので、
    ご参加くださる方はよろしくお願いします。
    おもな作業は会堂内外のそうじ、
    窓や棚の整理・清掃などです。
    ランチの会が終わってからはじめます。
    暑さがきびしいですので、
    くれぐれも無理のないようお願いします。

    ・学牧師は礼拝後、多摩センターに行きます。
    多摩センター周辺の諸教会合同の
    講演会で話をします。
    「ポスト・コロナと教会の宣教:
    教会史を踏まえて」が演題です。 
    有意義な集会となるようお祈りください。

    ・今週土曜日は富坂宣教センターでの
    研究会があります。
    学牧師が短い講演をしますので、お祈りください。
    演題は「聖書における報復の願いをどう解釈するか」
    「平和主義とエキュメニズム」研究会の最終回です。
    それぞれの研究者の講演は
    来年に本としてまとめられ出版されます。
    「いのちのことば社」から出る予定ですので、
    出たらぜひご覧ください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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