小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  わたしたちの歩む道

朗読箇所

三位一体後第3主日

申命記10:12−22

◆神が求められること
12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、
13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
14 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。
15 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。
16 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。
17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
19 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。
20 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。
21 この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。
22 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。


新約 ローマの信徒への手紙2:17−29

◆ユダヤ人と律法
17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、
18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。
19 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

説教

わたしたちの歩む道

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    もし、わたしたちが他の国の人から、
    「きみたち日本人は・・」と言われたら、
    わたしたちは自分に関係あることなので、
    何事かと注意を向けることでしょう。
    でも、もし自分とはほとんど関係の無い人々、
    そう、たとえばユダヤ人について誰かが、
    わたしたちに向かって、
    「きみたちユダヤ人は・・」と言い出したら、
    わたしたちはどうするでしょうか。
    たぶんわたしたちは周りを見回して、
    「え、だれのこと?」と思い、
    「どこにユダヤ人がいるの?」と疑問を抱き、
    なあんだ自分には関係ないことか、
    と気にしなくなります。
    ところが、きょうの聖書箇所でパウロは、
    まさにそのように書き始めるのです。
    「あなたがたはユダヤ人と名乗り、・・」と。
    さて、このローマ人への手紙は表題どおり、
    ローマにいるキリスト教徒に宛てたものです。
    読者はほとんどが、
    ローマ人をはじめとする、
    ユダヤ人ではない人々です。
    だから突然パウロがここで、
    「あなたはユダヤ人と名乗り」と書くので、
    受け取った人々は戸惑ったことでしょう。
    受取人であるキリスト教徒の中には、
    ユダヤ人もいたでしょうが、
    宛先の読者はおもに非ユダヤ人。
    当時の言葉で言えば「異邦人」、
    そう呼ばれていた人たちだったからです。
    「きみたちユダヤ人」と言われたとたん、
    ユダヤ人ではない読者の中には、
    「ああ、自分とは関係ないや」と考え、
    つづけて疑問に思ったかもしれません。
    ユダヤ人ではない自分たちに宛てた手紙で、
    なぜパウロは「あなたはユダヤ人と名乗り」
    などと書いたのだろうかと。
    現代のわたしたちも同じように思うはずです。
    きょうのローマ書の箇所の前までは、
    パウロはユダヤ人と異邦人両方、
    つまり全人類について語って来ました。
    ここにきて急に「ユダヤ人」向けとは・・。
    当時の受取人であるローマ人以上に、
    現代にこの手紙を読むわたしたちはなおさら、
    「なあんだ、自分とは関係ないことだ」、
    そう思ってしまうことでしょう。
    わたしたちはユダヤ人ではないのですから。
    でも、早々と関心を失ってしまうのは、
    ちょっと待っていただきたいのです。
    実はパウロはこの箇所で、
    「あなたはユダヤ人と名乗り」と言いますが、
    実は、実際のユダヤ人に向かって、
    語りかけているのではないからです。
    ほんとうの相手はユダヤ人ではなく、
    ローマ人やその他の諸国の人々です。
    そうだとしたら、どうして、
    パウロは「あなたたちユダヤ人は」などと、
    あたかもユダヤ人向けであるかのように、
    この箇所を書き始めたのでしょうか。
    そこには理由があります。
    パウロは、実はすべての人々に向かって、
    この手紙をとおして語りかけるのですが、
    あえてユダヤ人を全人類の代表として、
    その名前を挙げているのです。
    神の救いを必要としているのは全人類。
    そして神の救いについて勘違いしているのも、
    実は、すべての人に共通することです。
    しかし、その勘違いについて語るうえで、
    ユダヤ人を例に語ることが、
    もっとも良く理解してもらえる方法だと、
    パウロは考えていたからに違いありません。
    だからここでパウロは、
    「ユダヤ人は」と言いますが、
    実際にはわたしたちをも含めた、
    全人類に向けての救いの言葉です。
    なぜユダヤ人を例として用いたのでしょうか。
    それはユダヤ人が神と特別な関係を持つ、
    神による選びの民であったからです。
    ユダヤ人は古代から、
    聖書で言えばアブラハムとその子孫の時から、
    自分たちは神に祝福された民。
    そう信じてきました。
    そして事実そのとおりでした。
    ユダヤ人は神との特別な関係を生きてきました。
    きょうの旧約聖書、申命記10:15は、
    その関係について神の言葉を記しています。


    主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、
    子孫であるあなたたちを
    すべての民の中から選んで、
    今日のようにしてくださった。


    このようにユダヤ人の先祖が神に選ばれた、
    その理由を申命記はこう語るのです。


    あなたたちの神、主は神々の中の神、
    主なる者の中の主、
    偉大にして勇ましく畏るべき神、
    人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
    孤児と寡婦の権利を守り、
    寄留者たちを愛して
    食物と衣服を与えられる。
    あなたたちは寄留者を愛しなさい。
    あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。


    神の民としてユダヤ人の先祖が神に選ばれた、
    その理由が明確に、間違いようのない仕方で、
    ここに語られています。
    それは、イスラエルの民だけが特別に、
    そのような生き方をするようにというのではなく、
    この命令は、イスラエルの民が神の民として、
    そのように生きることによって、
    諸民族、世界の人々に模範を指し示し、
    神の求める、あるべき生き方を全世界に表す、
    そのための選びでした。
    だからこそ最初にイスラエルの民の起源となった、
    アブラハムという人が神に呼び出されたとき、
    神はアブラハムにこのように告げたのでした。


    わたしはあなたを大いなる国民にし
    あなたを祝福し、あなたの名を高める。
    地上の氏族はすべて
    あなたによって祝福に入る。


    イスラエルの民の生き方は神に喜ばれる手本。
    すべての人類はそのように生きることによって、
    つまり、人を偏り見ず、賄賂を取らず、
    孤児と寡婦の、つまり弱い者の権利を守り、
    寄留者を愛する。
    そのイスラエルの民の生き方を、
    他の諸国の民が受け継ぐことによって、
    全世界のすべての民は神に祝福され、
    神の喜ぶ民となるはずでした。
    「はずでした」と言うのは、
    そのようにならなかったからです。
    イスラエルの民は、こうした戒めを、
    神から律法として授与されました。
    しかし、その律法を守らなかった。
    パウロはそう言うのです。
    仮に文字として守っていたとしても、
    その精神がないがしろにされました。
    だから律法を守らないですむための、
    いろいろな方便も工夫されたのでした。
    律法がユダヤ人に与えられたのは、
    彼らが聖なる神の民として生きるための、
    道しるべとして、でした。
    律法を守ることによって、
    神の民の資格を得るのではなく、
    神の民に与えられた恵みでした。
    しかし、ユダヤ人は律法を誇り、
    ユダヤ民族の優越性の根拠とみなしました。
    民族を誇り、優越性を信じ、
    他の民族や民を見下し差別する。
    そうした姿は、
    ユダヤ人だけの問題ではありません。
    すべての民、すべての人に共通する問題です。
    みなそれぞれ、
    自分の民族の優越性を誇り、自慢し、高ぶります。
    異国人や寄留の民を差別し、
    周辺諸国の人々を見下して、
    支配や搾取をおこなうことは、
    世界中、どこでもいつの時代でも現実でした。
    自分の正しさを主張し、
    他の人々を裁きながら、
    自分は同じ事をしています。
    自分の量りで人を量り、
    自分の正義で他の人たちを裁きながら、
    同じ量りで自分を裁くことはしません。
    こうして互いに裁き合い、
    互いに自分の正義を主張するために、
    この世界には、
    人と人の間でも、民族と民族の間でも、
    国と国の間でも、
    対立と争いが続きます。
    人を裁き批判することが生む実は、
    愛でも憐れみでもなく、
    怒りと敵意、そして不寛容です。
    この問題は、個人であれ国家であれ、
    普遍的で人類共通の、
    現代でも現実の問題です。
    この普遍的な問題を論じるにあたり、
    パウロがユダヤ人を例に挙げたのは、
    彼らが特にひどいからではなく、
    彼らが律法を与えられていたからです。
    ユダヤ人は律法という具体的な、
    神の定め・神の導きの光を与えられていました。
    それゆえ、明確に、
    確固たる信念をもって、
    自分たちは律法を与えられ、
    その律法を守って生きているのだと考え、
    自分の正しさを確信してきました。
    しかし、自分が正しいと主張することには、
    両面があります。
    同時に、律法を知らない人々、
    律法を持たない諸民族を、
    律法を知らず守らないということで、
    裁くことでもあります。
    だから律法を持たない諸国の人々を、
    ユダヤ人は「汚れた異民族」として蔑みました。
    律法が与えられているがゆえに、
    律法を持たず守らない他の人々を、
    確信をもって裁いていたのでした。
    では、ユダヤ人ではない人々はどうでしょう。
    たしかに、ユダヤ人以外の人々は、
    律法を持たず、律法を知りません。
    だが、律法という具体的な定めは知らなくても、
    結局はユダヤ人と変わりません。
    なぜなら、どの民族であれ、
    いつの時代もどんな人でも、
    自分の正しさで他人を量り、
    自分の優越性に基づいて他の人を裁きます。
    パウロが言おうとしているのは、
    ユダヤ人か異邦人かに関係なく、
    人は皆、自分の正義で他人を裁き、
    他の人を罪に定めて、
    自分を正しい者とするという事実です。
    そこにパウロは、
    全人類に共通する罪深さと、
    この世界に拡がっている問題を見ています。
    ユダヤ人は一つの明確な例であって、
    他の人々は誰一人として、
    「自分には関係ない」とは言えません。
    自己愛と、自分の正義を振りかざして、
    互いに裁き合い、罪に定め合うという、
    その罪の現実から、
    いったいどうしたら救われるのでしょうか。
    パウロはきょうの聖書箇所の最後に、
    一言だけ、もっとも重要なことを、
    一言だけ語ります。


    文字ではなく「霊」によって
    心に施された割礼こそ割礼なのです。


    ユダヤ人は、神の民の証として、
    割礼を子どもたちに授けました。
    律法を持ち、律法を守る、
    神の民の証を文字通り身に刻んだのでした。
    だが、律法は人を救う力を持ちません。
    律法を守っているから神の民なのではなく、
    神の民だから律法が与えられたのですから。
    文字としての律法を持つかどうか、
    文字としての律法を守るかどうかは、
    重要ではありません。
    なによりも重要なことは、
    神の霊がわたしたちの内に働き、
    わたしたちの外面ではなく、
    わたしたちの内面を、
    神の民として生きるようにと、
    新たにされることです。
    神の霊がわたしたちを新しい人とします。
    イエス・キリストを信じるということは、
    キリストと信仰のきずなによって、
    一つに結ばれるということです。
    キリストと結ばれるということは、
    聖霊を受けているということです
    聖霊を受けているということは、
    キリストの教えと働きを生きることを、
    わたしたちが願い喜びとすることです。
    神の霊を受けているのなら、
    わたしたちはキリストが教え・生きた、
    神の愛、憐れみ、赦し、
    そして自分の受けている恵みを、
    互いに分かち合い、用い合う、
    互恵性の交わりを造り出そうとします。
    それがわたしたちの願いであり、
    わたしたちの生き方となります。
    だから、もうわたしたちは、
    他の人を自分の正しさで裁かず、
    罪に定めず、怒らず、敵意を抱かず、
    神の平和を願い求め、作ります。
    それは他の人の罪や悪を放置したり、
    不正義に目をつぶることではありません。
    悪を正し、神の義を求めることは大切。
    そこに怒りと憎しみを持ち込まないこと。
    それが神の平和への道です。
    そのような生き方は、霊において、
    キリストと共に歩むことに他なりません。
    キリストと共に歩む。
    それこそがわたしたちの歩む道。
    天の御国を目指す、
    わたしたちの旅路に他なりません。


週報より

  • 2022.07.03 週報より抜粋・要約

  • ・先週はクリーンアップ・デイに
    ご協力くださり感謝します。
    暑いさなかでしたが、おかげで
    教会も付属館もきれいになりました。
    わたし(学)は午後に
    東京多摩市に行きましたが、   
    多摩センター駅で降りたら、
    涼しく感じました!    
    北関東が猛暑だと
    改めて実感させられました。   

    ・きょうはティータイム後に
    月例教会役員会を開きます。
    教会役員の皆さまは
    付属館にいらしてください。   
    おもな議題は定例の諸報告承認と、
    子ども一日キャンプです。
    役員会へのご要望・提案がありましたら、
    お知らせください。

    ・昨日の土曜日は、
    学牧師は研究会のため東京に出ました。
    3年間という期限付き・助成金付きの
    研究会も今回が最後。
    「聖書における報復の願いをどう解釈するか」
    (仮題)という発表の後、
    研究チームでそれぞれ
    出版の打ち合わせをしました。
    牧師にとって土曜日の研究会は
    きつかったので、終わって一息です。

    ・小山教会の来週の礼拝は、
    稲葉基嗣先生が担当してくださいます。

    ・来週は礼拝後、月報『モレノ』編集会をします。
    モレノ・チームの皆さまはよろしくお願いします。

    ・夏季献金にご協力ください。
    牧師への手当のための献金です。
    献金袋をご利用ください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像