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朗読箇所

三位一体後第4主日

創世記21:9−21

◆ハガルとイシュマエル
9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、
10 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
11 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。
12 神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。
13 しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
14 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。
15 革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、
16 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。
17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。
18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。
20 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。
21 彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。


新約 マタイによる福音書9:32−34

◆口の利けない人をいやす
32 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。
33 悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。
34 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

説教

叫び声は神に届くのだから

音声を聴く

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    私にも、みなさんにも、色々な呼ばれ方があります。
    私は、昔なじみの人たちからは、
    もとくんやもとちゃんと呼ばれ、
    娘たちからはパパと呼ばれます。
    大人になってから知り合った人たちからは
    稲葉さんと呼ばれます。
    英語圏では、モトやパスター・モトと
    呼ばれることがほとんどです。
    場所や対話する相手が変われば、当然、呼ばれ方も変わってきます。
    同じように神にも色々な呼ばれ方があります。
    神が自ら人々に伝えた名前として知られているのが、
    ヤハウェという名前です。
    でも、旧約聖書の中で
    神は単にヤハウェとばかり呼ばれているわけではありません。
    信仰者たちは、色々な方法で神の名前を呼びました。
    たとえば、天の神であるヤハウェ、
    イスラエルの神ヤハウェ。
    私を顧みてくださる神、いと高き神。
    また、きょう開いた詩編5篇の直前の詩篇4篇では、
    詩人は神に向かって「私の義の神」と呼びかけています。
    このようにたくさん挙げることのできる神の呼び名ですが、
    きょうの詩編に用いられている
    「わたしの王」という呼びかけ方は、
    詩編が好んで用いる表現のひとつです。
    神が全世界の、すべての造られたものたちの王であることは、
    旧約聖書全体を通して出会うことの出来る考え方です。
    ですから、この呼びかけは彼らにとってとても自然なものでした。

    ただ、もしかしたら、現代に生きる私たちにとって、
    王という言葉はあまり良いイメージを
    持てない言葉かもしれません。
    たとえば、誰かが「あの人はまるで王さまのようだ」というならば、
    物事を上から強引に決める勝手気ままな人柄を描くために、
    その人は王という言葉を比喩的に用いているといえるでしょう。
    反対に、「王は君臨すれども、統治せず」という言葉があるように、
    王様は、単なる象徴として理解されることもあるでしょう。
    現代の民主的な政治を考えるならば、
    こちらの理解の方がもしかしたら強いかもしれません。
    もちろん、スポーツでは、
    その競技での強さや実績を称える言葉として
    用いられていることも目にするので、
    完全に悪いイメージばかりが先行するわけではないでしょう。
    でも、現代の私たちが持つイメージから
    詩人が考える王である神の姿を考えるのには、
    少し限界がある気がします。

    旧約聖書を生み出したイスラエルとその周辺の文化の中で
    一体、王はどのように理解されていたのでしょうか。
    大きく分けて、王にはふたつのイメージがありました。
    ひとつは、現実に広がるメチャクチャな状態である
    カオスを抑え込み、社会に秩序を与えるイメージです。
    当時の社会の中で弱い立場と考えられていたのは、
    子どもたちや女性たち、身寄りのない人たちや外国人でした。
    誰かの助けがなければ、彼らの人生は簡単に壊れてしまいます。
    ですから、王は社会の中で広がるカオスを
    最小限に抑えることを期待されていました。
    多くの人たちが生きやすいように
    王は法律を整備しなければなりません。
    また、周辺の国との戦いを出来る限り避ける努力も必要でした。

    もうひとつの王のイメージは、羊飼いです。
    羊たちが迷ったり、獣に襲われたりして命を落とさないように、
    羊を守り、導き、そして水や食べ物を与えて養う。
    そんな羊飼いのように、
    民を導き、養う王の姿こそが理想とされました。

    イスラエルの民にとって、
    神こそがまさに王と呼ぶにふさわしい方でした。
    神こそが、私の身の回りで起こる様々な混乱を収めてくださる。
    めちゃくちゃになって、
    自分ではどうしたら良いのかわからない状況に
    神こそが、秩序や平和を与えてくださる。
    羊飼いのように、神こそが私の人生を導き、
    私を養ってくださる。
    羊飼いが一匹一匹の羊を大切に世話するように、
    神こそが、私の相談にのり、私の声を聞いてくださる。
    そんな王である神に向かって、
    個人的に悩みを打ち明け、嘆き、そして祈る。
    そんな祈りの言葉がこの詩編5篇には綴られています。

    王である神は、私の嘆きを聞き、
    私の周りやこの世界に広がるカオスを抑え込み、
    私の歩みを導いてくださる。
    そんな信頼をもって、詩人は神に訴えることから、
    この詩編は始まっています。
    「主よ、わたしの言葉に耳を傾け
    つぶやきを聞き分けてください」と(詩編5:2)。
    「つぶやき」と訳されているので、
    他人から見たらとても些細なことも聞いてくださいと
    詩人が神に願っているように感じます。
    でも、ここで使われているヘブライ語は、
    「うめき」や「ため息」を意味する単語です。
    言葉に出来ない、ただ息を吐き出すことしか出来ない。
    言葉にもならない音を出すことしか出来ない。
    でも、それもまた祈りなのだと、
    この詩人の言葉は私たちに教えてくれます。
    たしかに、すべての悲しみや嘆きや生きにくさを
    言葉に出来るわけがありません。
    もしかしたら、本当に辛い時は何も言葉にはできず、
    うめき声を上げるしか出来ないのかもしれません。
    でも、そのため息やうめき声を
    私たちの言葉にならない心の叫び声を
    神は私たちの祈りとして聞いてくださる。
    この詩編の冒頭の言葉に
    詩人のそのような確信が込められています。

    きょうは旧約聖書から創世記を開きました。
    ハガルという名のエジプト出身の女性とその子どもについての物語です。
    子どもたち同士のトラブルが原因で、
    ハガルと彼女の子どもはアブラハムの家から追放されます。
    彼女は女性であり、奴隷であり、外国人でしたので、
    彼女はアブラハムの家の中で圧倒的に弱い立場にありました。
    自分の置かれた境遇に抗うことなど許されず、
    彼女は無力でした。
    また、彼女は故郷エジプトから
    遠く離れた場所で生活をしていました。
    ですから、アブラハムの家から追放された彼女は
    途方に暮れました。
    彼女には行く当てがないのですから。
    彼女の置かれた境遇を想像すればするほど、
    胸が痛くなる物語のひとつです。
    この物語からふたつの泣き声が聞こえてきます。
    ハガルと子どもの泣き声です。
    彼らは自分たちの苦しみを言葉にできませんでした。
    命の危機の中でただ泣くことしかできませんでした。
    でも、神は子どもの泣き声を聞いて、
    ハガルの前に現れました。
    言葉にならない呻き声を神は聞いてくださるのです。

    イエスさまだってそうです。
    口をきけない人たちのもとに行って、
    イエスさまは彼らを癒やしました。
    言葉としては表されない彼らのうめき声に
    イエスさまは耳を傾けられました。

    こんな風に詩編の言葉と一緒に
    聖書に記されている物語に耳を傾けてみると、
    言葉にできることだけが祈りではないと
    気付かされます。
    このことは、私たちにとって大きな慰めです。
    私たちが経験するあらゆる出来事の只中で、
    常に、すぐに、言葉が湧いてくるわけではありません。
    感情に押し流されて、呻き、叫び声を上げる。
    頭が真っ白になって、言葉を失ってしまう。
    そんなことだってあります。
    でも、神は私たちの心の叫び声に耳を傾けてくださる。
    私たちのうめき声やため息を
    私たちの祈りとして聞いてくださる。
    そんな確信をもって、詩人は祈り始めました。

    ただ、このように、この詩編は
    信仰者の心の叫びを取り扱っているため、
    とてもプライベートな、
    個人的な祈りのように感じます。
    確かに、「私」という言葉が繰り返し使われているので、
    そう感じるのは自然なことです。
    でも、この詩編の終わりに記されている
    「盾となってお守りください」というフレーズには、
    日本語では訳されていませんが、
    ヘブライ語では「私たちを」という言葉がついています。
    「私」で始まった祈りなのに、
    最後は「私たち」で終わっているのです。
    この祈りをプライベートな祈りとしてだけでなく、
    イスラエルの民が共同体として、
    みんなで祈る祈りとして考えていた証拠です。

    確かに、私たちは自分だけのために
    神に向かって祈るわけではありません。
    教会の中にいる時、
    社会の中にいる時、
    うめき声やため息をつき、叫び声を上げるのは、
    何も自分だけではないはずです。
    教会の中にいる時、
    社会の中にいる時、
    耳を澄ますと、誰かのうめき声やため息が聞こえてきます。
    うめき声を上げる人々のために、
    私たちは祈るように招かれています。

    言葉に出来ない苦しみを抱えているのは何も、
    赤ちゃんや障がいをもつ人たちや
    病気の人たちだけではありません。
    文化や環境によって、人は口を閉ざされ、
    呻き声を上げるしかできないことがあります。
    勇気を出して、SNSでつぶやいても、
    声の大きな人たちや強い人たちから叩かれ、
    心無い言葉を浴びせられることだったあります。
    誰かの嘆きが多くの人の娯楽のように
    消費されてしまうことだってあります。

    この世界のどこに呻き声が響いているのでしょうか。
    どこに言葉にできない、声にならない叫びがあるでしょう。
    どこに押さえつけられた声があるのでしょうか。
    耳を澄ましてみると、色々なうめき声が聞こえてきます。
    夫婦別姓を選ぶ権利が認められず、
    自分の名前の一部を奪われ、不利益を被る人たちがいます。
    LGBTQ、性的少数者の人たちは、
    自分のアイデンティティのひとつである性を否定され、
    自由に生きる権利を脅かされています。
    偏見や差別に晒されています。
    外国人労働者の人たちが、
    長時間労働やパワハラの被害を受けています。
    格差の広がりや搾取に苦しむ多くの人たちがいます。
    故郷を離れ、大切な人たちと離れ離れになり、
    難民となっている人たちがいます。
    明日の安全も保証されず、爆撃の音に怯える人たちがいます。
    何と、世界はうめき声に溢れていることでしょうか。
    私たちにとって、大きな慰めは、
    神は言葉にならない私たちのうめき声を
    聞いてくださる方であることです。
    なので、私たちが祈るのは、
    自分たちのためだけではありません。
    教会で、地域社会で、この世界で、
    私たちと一緒に生きる大切な人たちのために祈ること。
    呻き声を上げる人たちと一緒に呻き、叫ぶことが、
    私たちが招かれている神への祈りです。
    ですから、この世界を見渡して、
    声にならないうめき声に気づく時は、
    私たちも一緒に神に向かって声を上げましょう。
    それが、言葉にできない呻きや叫びであったとしても。
    叫び声は神に届くのですから。


週報より

  • 2022.07.10 週報より抜粋・要約

  • ・きょうの礼拝は稲葉基嗣先生の担当です。
    学・摂子両牧師は、札幌教会におります。
    礼拝説教と午後の講演を担当して、
    明日もどります。

    ・きょうはティータイム後に
    月報モレノの編集会をします。
    モレノ・チームの皆さまと、
    モレノ製作に興味がある方は、
    ティータイム後に付属館にいらしてください。
    月報8月号の原稿締切はきょうです。  
    今週土曜日(16日)は、
    午後2時から製本作業をします。

    ・きょう礼拝後、
    もし可能でしたら十分間除草をします。
    先週予告をしそびれましたが、
    この時期は雑草の伸びが早いので、
    きょう目立つものだけでも
    除草をお願いします。
    特に、藤の間から
    雑草が大きく育ってしまいました。
    10分経過しましたら、
    どなたか終了を告げてください。

    ・夏季献金にご協力ください。
    牧師への手当のための献金です。
    献金袋をご利用ください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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