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朗読箇所

三位一体後第5主日

エレミヤ書17:5−8

◆主に信頼する人
5 主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。
6 彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく
人の住めない不毛の地
炎暑の荒れ野を住まいとする。
7 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
8 彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り
暑さが襲うのを見ることなく
その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく
実を結ぶことをやめない。


新約 ローマの信徒への手紙3:1−8


1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

説教

神に信頼する人は慈しみに囲まれる

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    かつて、医学の領域で、
    優生学という分野がありました。
    同じ人間であっても、
    優れた民族や人種と、
    劣った民族や人種があるという考えを、
    科学的に研究するといったものでした。
    遺伝子を操作することによって、
    優れた人種をいっそう優れたものへと改良し、
    世界を支配するとまで考える人たちがいました。
    それは今になって思えば、
    とても危険でおぞましい考えです。
    しかし、二十世紀中頃まで、
    現実に信じる人たちがいたのでした。
    それぞれの人種や民族が、
    自分たちこそ優れた民族だと信じました。
    ユダヤ人もその例外ではありません。
    神に選ばれた民だという、
    選民思想が古代からあったのです。
    そんなことを念頭においてでしょうか、
    パウロはこのように問うのです。


    では、ユダヤ人の優れた点は何か。


    パウロは能力や知性、才能を指してはいません。
    人格性や身体性、スタイルの話でもありません。
    ユダヤ人だから成功や儲けに優れている、
    ということもありません。
    ユダヤ人はもちろんのこと、
    人種や民族の間で優劣はありませんから。
    ユダヤ人が教育水準や経済力において、
    世界のトップクラスの人が多いのは、
    歴史的、社会的に生き延びるため、
    必要であったからです。
    パウロはユダヤ人の優れた点について、
    「あらゆる面からいろいろ指摘できます」
    と書くのですが、
    実際には一つだけを挙げています。


    彼らは神の言葉をゆだねられたのです。


    神の言葉がユダヤ人にゆだねられたのは、
    彼らが優越した人種だとか、
    特別に立派であったからではありません。
    旧約聖書の申命記はこの点を明確に語ります。
    「あなたたちは他のどの民族よりも
    貧弱であった」と(7:7)。
    ユダヤ人が他の諸民族と異なっていたのは、
    神の言葉がゆだねられたという、
    この一点においてでした。
    そして、重要なことは、
    神が神の言葉をゆだねたということは、
    ただ無意味に与えたのではなく、
    三つの務めをはたすことを期待して、
    神の言葉を託したということでした。
    三つの務めの第一は、
    ゆだねられた神の言葉を感謝して受けること。
    当然のことのように思い込んだり、
    自分たちが優れているから与えられたと考えたり、
    自分たちが勝ち取ったのだと信じたりせず、
    神の恵みによって与えられたものとして、
    心から喜んで受けるためのものでした。
    三つの務めの第二は、
    ゆだねられた神の言葉に喜んで聞き従うこと。
    神の言葉はただのアクセサリーや、
    棚にしまいこんでおく飾り物ではありません。
    神の言葉は導きの光であり、
    常に聞き従い、導かれて歩むべきです。
    三つの務めの第三は、
    ゆだねられた神の言葉を人々と分かち合うこと。
    自分だけのものとしてしまい込むのではなく、
    神の言葉が教える愛を表し、
    神の言葉が求める憐れみを示し、
    人々に神の言葉を証してゆくのです。
    ユダヤ人は神の言葉を自ら生き、
    世に表す務めを、
    神の言葉と共に託されたのでした。
    しかし、パウロはこう告げるのです。
    ユダヤ人はその務めに不誠実であったと。
    果たすべき役目を果たしてこなかったのです。
    ところが、ユダヤ人が不誠実であったこと、
    つまり、神への不義が、
    神の救いを実現し、
    全世界に救いをもたらすこととなりました。
    神の言葉であるイエス・キリストを、
    ユダヤ人は受け入れずに拒み、
    十字架につけるよう要求したのでした。
    しかし、キリストが殺されたことが、
    罪の赦しをもたらし、
    神の救いの成就となりました。
    そうだとしたら、どうでしょうか。
    キリストを十字架につけたことが、
    かえって世の罪をあがなうこととなり、
    救いの実現をもたらしたのであれば、
    キリストを殺したことは善であったのでしょうか。
    ユダヤ人の不義が、
    神の救いを全世界にもたらしたのでしょうか。
    パウロは人々に問いかけるのです。
    「ユダヤ人の不義が神の真理を明らかにし、
    神の栄光となったのか」と。
    人が罪を犯したから、
    神による罪からの救いが実現したのでしょうか。
    そうであるとしたら、
    悪をおこなうことはよいだということになります。
    悪をおこなうことが救いには必要だ、
    そう主張することになりかねません。
    悪をおこなうことが神の救いの成就に必要だ、
    ということであるとしたら、
    神が悪を裁くのは不当だということになります。
    そんなことはありえません。
    神はユダヤ人の不義を最初から計算に入れて、
    そのうえで神の言葉をゆだねたのではありません。
    神は神の言葉に誠実であることを願って、
    ユダヤ人に神の言葉をゆだねたはずです。
    ユダヤ人が神の言葉をゆだねられ、
    同時に三つの務めを託されたにもかかわらず、
    ユダヤ人がその務めに不誠実であったことが、
    神の義が表されるために必要であった、
    すなわち神の救いが全世界に示されるため、
    必要なことであったなどということはない。
    神は人の不義と罪にもかかわらず、
    かえってそれを益に変えてくださった。
    それがパウロの確信することでした。
    神の言葉がゆだねられたということは、
    それを誇りとして自慢するのではなく、
    ゆだねられた神の言葉をどう受けとめるか、
    そのことこそが重要でした。
    そもそも、ゆだねられた神の言葉は、
    人の祝福となるはずのものでした。
    ユダヤ人にゆだねられたのは、
    自分たちが神の言葉を独占して、
    自分たちだけの特権とするためではなく、
    神の言葉を世界のすべての民にもたらし、
    分かち合うことによって、
    神の祝福を世界にもたらすためでした。
    神の言葉は、
    神が人を愛し慈しむ方であることを、
    人々に表す、神からの光でした。
    神の言葉は、
    神の喜ぶ生き方へと人々を導くの、
    神の御心を表すものでした。
    神の言葉をとおして、
    すべての人は神の御心を知ることができます。
    神が愛であり、
    憐れみ深い方であることを知ります。
    そして、それゆえに人々も互いに愛し、
    憐れみ深く生きるべきことが示されます。
    神の言葉が人を祝福の道に導くのです。
    そして、真に驚くべきことは、
    神の言葉が人となって世に来られたことです。
    ヨハネ福音書はこの神秘をこう語ります。


    言は肉となって、
    わたしたちの間に宿られた。
    わたしたちはその栄光を見た。(1:14)


    わたしたちは信じています。
    神の言葉が人となって世に来られたと。
    キリストを知ることは、
    神の言葉を知ることです。
    キリストと共に生きることは、
    神の言葉と共に生きることです。
    キリストは霊において、
    今、わたしたちの内におられます。
    わたしたちはキリストと共に生きています。
    わたしたちはキリストの命にあずかっています。
    それはこの世の生涯だけのことだけではありません。
    キリストの命にあずかっている人は、
    キリストと共に永遠の命にあずかっています。
    わたしたちは生きる時も死ぬ時も、
    キリストと結ばれているのです。
    そのことは、きょうのパウロの言葉で、
    こう言い換えることができるでしょう。
    わたしたちは神の言葉であるキリストを、
    神からゆだねられているのだと。
    神の言葉をゆだねられているのなら、
    わたしたちには三つの務めも託されています。
    わたしたちもユダヤ人と同じように、
    ゆだねられた言葉を感謝して受け、
    ゆだねられた神の言葉に喜んで聞き従い、
    ゆだねられた神の言葉を人々に告げ知らせ、
    そのようにこの世の旅を続けてゆきます。
    それは共にいてくださる主キリストに、
    心から信頼して生きることです。
    きょう旧約聖書はエレミヤ書から読みました。
    エレミヤは神の言葉を喜んで聴き、
    御言葉に従って生きる人のことを、
    「主に信頼する人」と呼びました。
    そのような人のことを、
    エレミヤはこう物語るのです(17:7-8)。


    主がその人のよりどころとなられる。
    その人は水のほとりに植えられた木。
    水路のほとりに根を張り
    暑さが襲うのを見ることなく
    その葉は青々としている。
    干ばつの年にも憂いがなく
    実を結ぶことをやめない。


    なんと恵みと祝福に満ちていることでしょう。
    暑さや干ばつが来ないというのではありません。
    たとえ苦難や試練の中にあるとしても、
    意気消沈したり滅ぼされたりすることなく、
    活き活きとした喜びと感謝を抱いて、
    よい実を結んで生きることができます。
    主に信頼する人、
    すなわちキリストと共に生きる人は、
    このような恵みと慈しみに囲まれて、
    三つの務めをはたしながら、
    この世の旅を続けています。
    詩編32編の詩人が高らかに歌う、
    この言葉をいつも深く心に感じながら。

     神に信頼する人は慈しみに囲まれる。


週報より

  • 2022.07.17 週報より抜粋・要約

  • ・先週、両牧師は札幌教会に行きました。
    礼拝、午後の講演、教会学校教師たちとの懇談会と、
    一日良い聖日を過ごすことができました。

    ・月報『モレノ』8月号ができました。
    モレノ・チームの皆さまは
    どうもありがとうございました。
    月報の原稿が最近少なくて、
    誌面作りに苦労しています。
    月の担当の方だけでなく、
    ご寄稿くださるとうれしいです。
    次回の原稿締切は8月14日です。

    ・本日はうれしい差し入れがあります。  
    フィリピンのスープとごはんです。
    礼拝後、ぜひいっしょにいただきましょう。     
    「シニガンスープ」、
    ふたを開けてのお楽しみです。

    ・スープとごはんの後、
    もし可能でしたら十分間除草をします。
    きょう目立つものだけでも除草をお願いします。
    特に、藤の間から雑草が大きく育ってしまいました。
    天候・気温次第では中止にするかもしれません。

    ・夏季献金にご協力ください。
    牧師への手当のための献金です。
    献金袋をご利用ください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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