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朗読箇所

三位一体後第6主日

ミカ書6:6−8


6 何をもって、わたしは主の御前に出で
いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として
当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
7 主は喜ばれるだろうか
幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を
自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
8 人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。


新約 ローマの信徒への手紙3:9−26

◆正しい者は一人もいない
9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
11 悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
13 彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、
その唇には蝮の毒がある。
14 口は、呪いと苦味で満ち、
15 足は血を流すのに速く、
16 その道には破壊と悲惨がある。
17 彼らは平和の道を知らない。
18 彼らの目には神への畏れがない。」
19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
◆信仰による義
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

説教

なぜわたしたちはキリストを信じるのか

音声を聴く

※音声の始まりはほんの少し途中からとなっております。ご了承ください。
  • 説教者  石田学 牧師

     

    きょう、ローマ3:9以下を読みました。
    少しさかのぼって、3:1を見てみましょう。
    パウロはこのように書いています。


    では、ユダヤ人の優れた点は何か。
    割礼の利益は何か。
    それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。


    ということは、パウロも含めたユダヤ人には、
    いろいろ優れた点があるということでしょう。
    ところが、きょうの箇所3:9を見ると、
    まったく反対のことを言っているかのようです。


    では、どうなのか。
    わたしたちには優れた点があるのでしょうか。


    これは修辞的疑問文という、
    レトリックの一種で、
    いわゆる反語というものです。
    答えはすでに疑問文の中に含まれています。
    「優れた点があるのか、いや、ない」と。
    パウロは自分の問いかけに対して、
    自分で答えているのです。
    優れた点はあるか。


    全くありません。


    3:1で優れた点はいろいろあると言いながら、
    3:9では、「ない」と断言するのです。
    ユダヤ人には優れた点があるのかないのか、
    いったいどちらなのでしょうか。
    この二箇所だけを比べると、
    パウロは矛盾しているように思われます。
    しかし、ことはそう単純ではなさそうです。
    1節でパウロはユダヤ人の優れた点について、
    ユダヤ人ではない諸民族と比べていますが、
    9節ではユダヤ人も非ユダヤ人も、
    違いがなく等しい事柄について語るからです。
    罪の下にあるという点では、
    ユダヤ人もギリシア人も違いは無く、
    まったく同じだというのです。
    だから、罪の下にあるという点では、
    ユダヤ人に優れた点などない。
    そう断言したのでした。
    ユダヤ人もギリシア人もみな罪の下にある。
    それは別の言い方をするなら、
    人はすべて、全人類は区別なく、
    みな神の前では罪びとであり、
    誰も神の前に正しい人はひとりもいない、
    ということです。
    その事実をパウロは、
    旧約聖書の詩編とイザヤ書からの引用で、
    はっきりと、歯に衣着せずに語ります。


    正しい者はいない。一人もいない。


    このことを断定的で決定的な事実として、
    パウロは最初に引用するのです。
    つまり、他の人はともかく、
    自分はそんなことはないという言い訳を、
    誰に対しても許さないということです。
    正しい者はいないという証拠は何か。
    パウロは「神を探し求める者はいない」
    という事実を証拠として挙げます。
    ここでパウロが「神」と言うのは、
    神なら何でもよいという意味ではなく、
    神の言葉を人々に伝え、
    神の意志を明らかにしてきた、
    あのイスラエルの民に啓示された、
    唯一の神、世界の創造主のことです。
    人は真の神を探し求めるのではなく、
    自分の神を作り出してきたのでした。
    神を探し求めない人の姿を、
    パウロは別の表現、別の引用により、
    善をおこなう者はひとりもいないと、
    並列的に言い換えています。
    ここでも善は、
    人が自分で良いと思うことではなく、
    神の御心に沿う善を意味しています。
    神を探し求めないのであれば、
    神の御心に適う善もおこないません。
    そのような人間の振る舞いと在り方を、
    パウロはこれでもかと言うほどに、
    辛辣なことばを連ねて描写するのです。


    彼らののどは拓いた墓のようである。
    彼らは下で人を欺き、
    その唇には蝮の毒がある。
    口は、呪いと苦みで満ち、
    足は血を流すのに速く、
    その道には破壊と悲惨がある。
    彼らは平和の道を知らない。
    彼らの目には神への畏れがない。


    パウロは「正しい人はひとりもいない」と語り、
    「善を行う者は、ただの一人もいない」と、
    すべての人の問題であることを示して、
    その実際の姿を描写する引用を並べます。
    何をパウロがしているのかといえば、
    誰も例外なくこの邪悪さの中にある、
    という事実を突きつけることです。
    パウロは直接には言いませんが、
    結局、わたしたちにしかと目を向けて、
    「あなたがそうだ」と問うているのです。
    そうなると、おそらく誰もが、
    「わたしはそんなにひどくはない」と感じ、
    むしろパウロの言葉に反感を抱くでしょう。
    大抵の人はこう言いたくなることでしょう。
    「自分は聖人ではないとしても、
    そこそこの善人で、正しく生きている」と。
    しかし、わたしたちはそんな時、たぶん、
    自分を過大評価する楽観主義者です。
    自分自身と世界の現実を考えるなら、
    パウロの言葉を認めざるを得ないはずです。
    人はみな何よりも自分を愛し、
    自分を世界の中心に置き、
    あるいは自分の家族や仲間を愛するが、
    自分の敵は憎み、裁いています。
    自分の正義が自分を裁判官にして、
    他の人全てを被告席に座らせるのです。
    わたしたちは個人的にも、
    民族的にも、国家的にも、
    等しく自己中心であり、
    自分の利益に反する人は憎み、嫌い、断罪し、
    自分の利益にならない人には無関心です。
    不平等、不公正、格差、差別、不正義を、
    わたしたちは自分の問題にならない限り、
    疑問も問題も感じないで、
    時には当然のこととして認めてさえいます。
    神を信じるという人たちが、
    実際に信じているのは、
    愛と憐れみの神、義と公平の神ではなく、
    自分の欲と願望に即して作り出した、
    自分の創作物にすぎない神です。
    キリストを信じると言う人たちが、
    自分の願望や想像に基づいて、
    本来のキリストとは異なるキリストを造り上げ、
    それを信じて拝んできたことか、
    キリスト教の歴史を知ると、
    そのような無数の事例に出会うこととなります。
    事実、キリストは戦争の守護神にされ、
    自分の主張を正当化する裁判官にされ、
    願望をかなえる召し使いにされてきました。
    キリスト教にかぎらず、
    あらゆる宗教、無宗教、無神論が、
    こうした人間の罪と無関係ではありません。
    この世界は神の作品ですが、
    わたしたちはこの世界を、
    罪の作品へと作り替えてきたのでした。
    多かれ少なかれ、
    わたしたちはだれもが、
    この罪深い、神から離れた世界の住人であり、
    世界の在り方に責任があります。
    なぜ正しい人はいないのか。
    その根本問題をパウロは、
    辛辣な引用の最後で明らかにします。


    彼らの目には神への畏れがない。


    この事実にこそ、
    人の罪の本質があることを、
    パウロは明らかにしています。
    神を畏れないということは、
    神を信じないということとは違います。
    神を信じると言いながら、
    神を畏れないことが問題です。
    なぜ神を畏れないのか。
    その理由は明らかです。
    その神は自分の造り出した神、
    自分の期待や願望や望みをかなえる、
    自分の召し使いの神にすぎないからです。
    自分の言うことを聞く忠実な神を、
    どうして畏れる必要があるでしょうか。
    神が自分にとって異質で、
    自分の思いとは異なる思いを抱き、
    自分の意志とは別の、
    神の意志を実行なさる神、
    そして常にわたしではなく、
    神こそが正しい方だと知る人だけが、
    そのような人だけが神を畏れます。
    神を信じると言いながら、
    これまでどれほど、
    神の意志、神の御心とはかけ離れた、
    自分の正義を掲げ、
    敵を憎み、
    対立と争いを繰り返し、
    戦争を引き起こしてきたことでしょう。
    神への畏れがないと、
    人は自分の信じたい神を造り出して信じ、
    神に敵対し、
    神の言葉が気に入らないと、
    神を被告席に座らせて神を裁くことでしょう。
    人類の歴史を振り返るなら、
    人は民族や宗教を超え、時代をも越えて、
    まことに罪の下にあることがわかります。
    神を畏れるとは、神の御心を知ること、
    神の言葉に聞き従うことです。
    どのようにして神の御心を知り、
    神の言葉を聞くことができるのでしょうか。
    どうしたら人は、
    罪から救われ、
    神に受け入れられるのでしょうか。
    律法を守ることで、
    自分の正しさをアピールしてでしょうか。
    世界の現実と自分を切り離して、
    自分は正しいと思い込むことによってでしょうか。
    そうした生き方は自己義認に他なりません。
    自己義認の結果、どのような世界になるのか。
    それは今の世界の現実を見れば明らかです。
    人類はいつでもどこでも、
    自分を正当化し、自分の正しさを主張して、
    互いに憎み、争い、戦ってきました。
    いったいわたしたちはどうしたら救われるのか。
    その答えをパウロは告げ知らせたのでした。


    ところが今や、律法とは関係なく、
    しかも律法と預言者によって立証されて、
    神の義が示されました。
    すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
    信じる者すべてに与えられる神の義です。
    そこには何の差別もありません。
    人は皆、罪を犯して
    神の栄光を受けられなくなっていますが、
    ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
    神の恵みにより無償で義とされるのです。


    わたしたちを神の前で義とするのは、
    わたしたちが主張する自分の正しさではなく、
    自分の成し遂げる良い行いによってでもなく、
    自分の神を作り出して崇めるのでもなく、
    神の言葉であるイエス・キリストを信じること、
    イエス・キリストと共に、
    キリストの道を歩むことによってです。
    それこそ、わたしたちがなぜキリストを信じるのか、
    その理由に他なりません。
    わたしたちは自分を拠り所にしたりはしません。
    わたしたちのもとに来て、
    今、この世の旅を共に歩んでくださる、
    わたしたちの主キリストと共に生きること。
    それが神の御心に適う生き方であることを、
    わたしたちは信じます。
    キリストがわたしたちの主、
    わたしたちの神として共におられるから、
    わたしたちは自分で神を作り出さず、
    自分の正しさを言い張ることをせず、
    キリストに倣い、キリストに導かれ、
    ただ主であるキリストを正しい方と信じて、
    キリストの道を歩んでゆくのです。


週報より

  • 2022.07.24 週報より抜粋・要約

  • ・こんしゅうのどようびに、
    「子ども一日キャンプ」をいたします。
    ことしのテーマは「バベル」! 
    おもしろそうですね。
    たくさんの子どもたちのさんかをまっています。
    おひるごはんもありますから、
    たのしみにしていてください。
    おやこでのさんか、
    もちろんだいかんげい!
    おてつだいしてくださるおとなも
    だいかんげい(おひる付き)です。
    10じ30ふんしゅうごう、
    1じ30ふんころにかいさんです。

    ・今週火曜日は日本キリスト教協議会の
    常議員会が開かれます。
    オンラインで、学牧師が参加します。  

    ・来週はナザレン教会壮年会主催の
    シリーズ講演第一回があります。
    「ナザレン教会の信仰」を主題に、
    第一回は学牧師が担当します。
    「『ナザレン教会の信仰』のエッセンシャル」
    という題で午後3時からです。
    オンライン講演で、ZoomのURLは:
    https://us02web.zoom.us/j/3687632843?pwd=VTF3UnRMWHFkYU5TbjFTUHh3dllmQT09


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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