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朗読箇所

三位一体後第9主日

創世記21:1−8

◆イサクの誕生
1 主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、
2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。
3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、
4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
5 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。
6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を
共にしてくれるでしょう。」
7 サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう
サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました
年老いた夫のために。」
8 やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。


新約 ローマの信徒への手紙4:13−25

◆信仰によって実現される約束
13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
17 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

説教

喜びをもって主に仕え、

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    「信仰」。
    この言葉ほど誤解さえてきた言葉はありません。
    信仰は根拠のない思い込みに頼ることだと思われ、
    信仰は神についての説明を信じることだと言われ、
    信仰はその宗教の教義を信じることだと説明され、
    信仰は何かをすることで神の好意を得て、
    祝福を勝ち取ることだと思われてきました。
    そして現代では、
    信仰とは危険なものだとか妄想だとみなされ、
    マインドコントロールと混同されています。
    キリスト教の歴史の中でも、
    信仰とはキリスト教の神学的説明や信条を、
    そのまま信じることだとされてきました。
    だからキリスト教は難しいと思われたり、
    自分には理解できないと劣等感を抱いて、
    教会に来ることをあきらめることにもなりました。
    パウロの時代にも、
    多かれ少なかれ同じ問題がありました。
    ユダヤ人は律法を守ることが、
    神に受け入れられるために必要だと考えました。
    非ユダヤ人はパウロの説く教えを、
    奇妙で風変わりな、理解し難い、
    信じるに価しない教えとみなしました。
    だからパウロは、信仰とは何かを、
    ていねいに、注意深く解き明かしたのでした。
    パウロは結論としてこう述べます。
    信仰とは、神の約束を信じることだと。
    神の約束を信じる信仰が、
    そしてその信仰だけが、
    ユダヤ人かギリシア人かに関係なく、
    神に義とされる根拠であることを、
    パウロは力強く解き明かしたのでした。
    神の民イスラエルの起源は、
    アブラハムというひとりの人にあります。
    アブラハムが神の約束を信じたことが始まりです。
    その信仰によって彼は神に義とされました。
    つまり、神に受け入れられたのでした。
    信仰によって義とされることがいかに重要か、
    パウロは充分に理解していました。
    だから繰り返し強調しています。
    アブラハムが神に義とされたのは、
    神の約束を信じたからであって、
    なにがしかのおこないによってではないと。
    神の約束を信じて義とされたことの証として、
    アブラハムは割礼を受けました。
    やがて、律法がアブラハムの子孫に与えられ、
    その子孫であるイスラエルの民は、
    律法の民、すなわち律法を守る民とされました。
    しかし、律法も割礼と同じく、
    神に受け入れられている証として、
    イスラエルの民に与えられたものです。
    律法を守ることによって義とされたのではなく、
    律法によって神に受け入れられたのでもない。
    それがパウロにとって重要なことでした。
    律法は神に受け入れられた人々に与えられた、
    導きの光であり生きる道しるべでした。
    律法を守っているから、
    あるいは神に評価される何かをおこなったから、
    神に受け入れられたのではなく、
    神の約束を信じたから、
    神に受け入れられたのであること。
    それがアブラハムを例証としてパウロの示す、
    信仰による義ということの意味でした。
    さらにパウロは、
    信仰によって義とされること、
    すなわち神の約束を信じて、
    神に受け入れられることは、
    アブラハム個人だけのことでなく、
    普遍的なことであることを示します。
    人はだれでも、
    神の約束を信じて生きるなら、
    その信仰によって神に受け入れられ、
    神の民とされるのです。
    子孫の繁栄はアブラハムへの約束ですが、
    神の約束はそれだけでなく、
    はるかに大きく拡がってゆきます。
    預言者たちは神がメシアを遣わすという、
    神の約束を人々に告げました。
    また多くの預言者が、
    シャロームの平和に満ちた神の国の到来を、
    神の約束として人々に告げました。
    そして、神は全人類に対する普遍的な約束を、
    創造の主であり三位一体の御子キリストを通して、
    すべての人に与えてくださいました。
    キリストをとおして与えられた約束とは、
    十字架による罪の赦しと贖いの約束であり、
    キリストとのきずなによる神の子の身分であり、
    神の国と永遠の命の約束であり、
    終わりの日に主が再び来られて、
    生きている者と死んだ者すべてを裁くこと。
    その約束を信じるなら、
    国籍も人種も、地位も能力も関係なく、
    すべての人が神に受け入れられるとの約束です。
    人はたいていの場合、
    自分を基準として物事を考えます。
    その結果、自分の考える範囲だけに
    神の約束を限定してしまい、
    自分で可能だと思うことだけに、
    神の祝福を狭めてしまいます。
    だから、富や繁栄の約束をする神を、
    多くの人は喜んで信じます。
    成功や安全といった手の届く約束は、
    多くの人が神に祈り求めます。
    しかし、それは神の約束をちっぽけにして、
    神を人間の頭で思いつく程度の、
    安っぽい神であるかのようにしてしまうことです。
    神はそのような方ではありません。
    神は謎と神秘に満ち、
    わたしたちの理解の及ばない方。
    人の知り得ない深淵と世界の果てを手に収め、
    わたしたちと世界のすべてのものを、
    神の言葉により創造なさった方です。
    人は自分が信じ難いと思うことは、
    神にも不可能だと思い込みます。
    いったい誰が人の理解や知識に基づいて、
    神の約束を信じることができるでしょうか。
    誰が、罪の赦し、天の国籍、
    永遠の命など本気で信じられるでしょうか。
    人にできないことは神にもできない。
    勝手にそう思い込んでいます。
    それどころか、何かをしたり守りさえすれば、
    現実的な祝福が得られるという、
    安直でわかりやすい約束の方を、
    人は喜んで信じようとします。
    律法を守れば豊かさと家族に恵まれる。
    たくさんの献金や貢ぎ物をすれば、
    神はその多さに応じて願いを聞かれる。
    よいおこないは功績として神に評価される。
    そのような思い込みが、
    宗教の世界にどれほどまん延していることか、
    わたしたちはそうした現実を見せられています。
    古代オリエント世界では、
    王や有力者が特別に重要な願いをするとき、
    神への究極の貢ぎ物は、
    自分の子どもを犠牲に捧げることでした。
    我が子をいけにえに捧げれば、
    神は願いを聞いてくださるに違いない。
    そうした人間の知恵が、
    そのような恐ろしい愚行を正当化しました。
    現代でもより大きな願いをかなえてもらうため、
    多額の献金や貢ぎ物が要求され、
    家庭崩壊まで起きている現実があります。
    何が問題なのでしょうか。
    そのように宗教を悪用する人たちでしょうか。
    もちろん、その人たちは極めて悪質です。
    しかし、究極の、いちばんの問題は、
    人が自分で現実的だと思う願望を、
    神の約束として信じたがる問題です。
    だからユダヤ人は律法を守れば、
    繁栄と祝福が与えられると信じ、
    そのように教え、誇りました。
    繁栄と豊かさが与えられているなら、
    神に祝福されている証だと信じました。
    パウロがアテネを訪れて、
    アレオパゴスの丘で哲学者らに説教したとき、
    キリストの復活の話になると、
    そんなことはあり得ないと信じるギリシア人は、
    パウロをあざ笑って話を聞くことを止めました。
    パウロが問題とするのは、
    まさにそのような人間の考え違いです。
    神の約束を人間の判断で選別し、
    ちっぽけな約束にしてしまう問題です。
    アブラハムに対する神の約束は、
    とうてい信じ難いものでした。
    人の知恵ではあり得ないことを、
    神は約束としてアブラハムに告げました。
    そしてアブラハムは、
    あり得ないとしか思えない約束を、
    神の約束だからということで信じました。
    およそ百歳になっていたアブラハムに、
    神は驚くべき約束を与えました。
    「あなたの子孫は星の数のようになる」。
    人間の知恵でも体験でもありえないことです。
    しかし、アブラハムは、
    その約束が神の約束だからという理由で、
    信じたのでした。
    アブラハムはその約束を与えた神が、
    どのような方かを知っていました。
    だから信じました。
    どのような神であるかを、
    パウロは17節でこのように語ります。
    死者に命を与え、
    存在していないものを呼び出して
    存在させる神を、
    アブラハムは信じ、
    聖書協会共同訳の方が、
    この箇所の訳としてはよいと思います。


    彼はこの神、すなわち、
    死者を生かし、
    無から有を呼び出される神を信じた。


    「無から有を呼び出される神」。
    これはなんと驚くべき神の描写でしょうか。
    わたしたちの神は、
    人の知恵や考えの思いつく範囲で働くだけの、
    ちっぽけな神ではありません。
    無から有を呼び出される神。
    「光あれ」と言われると光が創造され、
    神の言葉で世界万物を創造なさる神。
    十字架で死なれた神の御子を、
    よみがえらせる神。
    希望などあり得ない現実の中にいる人々に、
    神は希望を告げ知らせるのです。
    無から有を創造される神。
    それが神の真実であり、
    神の力です。
    その神が告げる約束を、
    アブラハムは信じました。
    代々の聖徒らも信じ、
    今、わたしたちも信じます。
    人は自分の功績やおこないを誇り、
    人に対してだけでなく神にも誇ります。
    あたかも神が人のおこないに感心し、
    見返りを与えてくれるかのように、
    かってに思い込んでしまいます。
    あるいは自分の確かさに自信を抱き、
    神などわたしには必要ない、
    そのように考えています。
    だが、どのようなおこないも功績も成果も、
    神にとってどんな価値があるでしょうか。
    無から有を創造する方にとって、
    わたしたちの誇りや成果など、
    なんの価値もありません。
    神はわたしたちに、
    イエス・キリストをとおして、
    神の約束を与えてくださいます。
    その神の約束を、
    ただ信じて生きることだけが、
    神に応える唯一の道であり、
    神に義と認められる根拠であり、
    神の民として受け入れられる理由です。
    キリストをとおして与えられる神の約束、
    その約束を信じる人は、
    神に義とされ、
    神に属する者として、
    わたしたちの永遠の故郷である、
    天の御国を目指して世を旅しています。
    そうだとすれば、
    わたしたちが神の約束を信じるだけで、
    神に受け入れられているのだとすれば、
    わたしたちはただ、
    心から神の民らしく生きたいと願い、
    神に受け入れられている者らしく、
    神に仕えてまいりましょう。
    心から喜んで。
    それだけがわたしたちのすべきこと、
    できることなのですから。
    きょう説教前に歌ったテゼの賛美が、
    きょうの説教の全てを歌い上げています。

     全地よ、主をほめうたえ。
    主に仕えよ、喜んで。

週報より

  • 2022.08.14 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは「平和聖日」です。
    週報にはさまれている
    「平和の祈り」を共に祈りました。
    この世界に神の御心がおこなわれるよう、
    祈り求めます。
    「平和の祈り」を用いて、
    今月ご自身でお祈りください。
    特にウクライナに平和が訪れることを
    心から祈り求めます。

    ・きょうは月報『モレノ』編集会をします。
    モレノ・チームの皆さまは
    付属館にいらしてください。
    見学、きょうだけのお手伝いも歓迎します。
    ご寄稿くださる予定の方で、
    まだ原稿ができていない方は、
    ページ数の予定をお知らせくださり、
    原稿は水曜日までにお願いします。
    製本作業は今週土曜日
    午後2時からおこないます。



    ・小山教会の礼拝YouTube QRコードです。
    ご視聴ください。

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    ・火曜日は「礼拝と音楽」誌の編集会議が開かれます。
    学牧師がオンラインで参加します。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
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    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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