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朗読箇所

三位一体後第10主日

エレミヤ書17:14−18

◆エレミヤの嘆き
14 主よ、あなたがいやしてくださるなら
わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら
わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。
15 御覧ください。彼らはわたしに言います。「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい」と。
16 わたしは、災いが速やかに来るよう
あなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じです。わたしの唇から出たことは
あなたの御前にあります。
17 わたしを滅ぼす者とならないでください。災いの日に、あなたこそわが避け所です。
18 わたしを迫害する者が辱めを受け
わたしは辱めを受けないようにしてください。彼らを恐れさせ
わたしを恐れさせないでください。災いの日を彼らに臨ませ
彼らをどこまでも打ち砕いてください。


新約 ローマの信徒への手紙5:1−11

◆信仰によって義とされて
1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

説教

信仰ゆえの四つの段階

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    わたしはキリスト教徒の家で生まれ育ちました。
    子どものとき、気になる聖書の言葉がありました。
    旧約聖書の箴言1:7の言葉です。
    今のわたしたちの聖書「新共同訳」は、
    「主を畏れることは知恵のはじめ」と訳します。
    わたしが子どもの時の聖書は口語訳でした。
    そこでは、このように訳されていました。
    「主を恐れることは知識のはじめである」。
    今の聖書の「主を畏れる」の畏れは、
    畏敬を意味する畏れです。
    でも、昔の聖書の「主を恐れる」は、
    文字通り「恐ろしい」の方でした。
    ですから、子どものころ、
    神さまは恐ろしい方だと知ることが、
    最初に身に付けるべき知識だと、
    聖書は教えているのだと思っていました。
    神は恐ろしい方。
    悪事を働く者を滅ぼし、
    不信仰な者を裁く神。
    「神は愛である」という別の聖書の言葉と、
    調和を図ることがむずかしかったのでした。
    神が恐ろしい方ではなく、
    憐れみと慈しみに満ちた方だと理解したのは、
    もっと後になってからのことです。
    実際、教会の歴史の中でも、
    人々を神に従うようにさせるため、
    いや、むしろ、
    人々を教会に従わせるために、
    しばしば用いられた手っ取り早い方法が、
    神に対する恐れを抱かせることでした。
    従わなければ地獄に堕とされる。
    従わなければ神の裁きに遭う。
    こうした脅し文句を、
    神の愛と慈しみへの理解を欠いた、
    宗教家や教会指導者たちが、
    便利な道具として用いてきました。
    現代でもこうした脅しの手法は、
    カルト信仰などが使う常套手段です。
    脅され、怖がらせられて神に従うとしたら、
    そこに喜びも感謝もなく、
    恐怖心に支配されてのことです。
    だから、
    人はどのようにして神に受け入れられ、
    神に義と認められるのかという問いは、
    とても重要なことです。
    多くの人がこの問いに対して、
    間違った答えを信じてきました。
    自分の良い働きや功績が神に認められれば、
    神に受け入れてもらえるという誤り。
    多額の献金や犠牲の大きさに応じて、
    神から報酬をいただけるという考え違い。
    その間違いをパウロは指摘してきました。
    だれもおこないによって神に義とされず、
    自分の正しさで神に受け入れられることはない。
    その事実をパウロはくどいほどに示しました。
    そしてパウロは結論としてこう宣言しました。
    信仰によって、人は神に受け入れられると。
    だが、それに対して人はこう問うことでしょう。
    「では、信仰とはなにか」。
    パウロははっきりと応答します。
    信仰とは、神の約束を信じて生きることだと。
    では、神の約束とはなんでしょうか。
    ここでも人々は考え違いをして、
    間違った考えに心を占領されてきました。
    ユダヤ人の中には、
    律法という神の戒めを守るならば、
    神に義と認められることが神の約束だと、
    そのように考える人がいました。
    また民族や人種を超えて、
    人間に共通するこんな考え違いがありました。
    神の約束とは、
    自分の正しさやおこないに対して、
    神が報酬を与えてくださるということだと。
    正しい人に神は祝福と繁栄を与えてくださる。
    神にふさわしいと認められた人に対して、
    神は豊かさと成功を与えてくださる。
    そのような考え違いを抱くからこそ、
    自分は正しいと信じている人が苦難に遭うと、
    神に怒り、神に不平を言い出します。
    自分の正しさを神が認めず、
    正当な報酬を与えてくれないことへの、
    不満と怒りが湧き出してくるのです。
    だが、神の約束とはそんなものではありません。
    そのような安価で即物的な約束など、
    神は約束したりはしません。
    人は誰も皆、同じ世界の現実を生きています。
    信仰者にも不信仰者にも、
    有神論者にも無神論者にも、
    仏教徒にもキリスト教徒にも、
    信仰の有無や内容に関係なく、
    等しく苦難や試練は訪れます。
    神を信じている人には苦難が訪れないなら、
    全人類はとっくに、
    神を信じる人しかいなくなっているはずです。
    信仰の有無と苦難は関係がありません。
    神が信じていれば苦難にも災いにも遭わない、
    そんなことを言うことの出来る人はいません。
    いるとすれば、えせ宗教家やカルトだけです。
    大きな苦難や試練を自分の力で乗り越えることは、
    時としてとても困難でたいへんです。
    きっと、たくさんの嘆きと悲しみを抱き、
    苦しく耐え難い時を過ごすことでしょう。
    自分の苦闘と多くの人の支えが必要です。
    乗り越えることができず、
    挫折してしまう人、
    失意のままに終わってしまう人もあります。
    しかし、もし自分の意志と、
    人の助けを得て乗り越えることができるなら、
    その人は苦難をとおして、
    忍耐を身に付けることでしょう。
    そしてそのつらく苦しい体験をとおして、
    精神が鍛えられ、人格が養われ、
    練達を身に付けるでしょう。
    苦難を体験し、それを耐え忍んでゆくという、
    この一連の体験的なプロセスを、
    パウロは、苦難、忍耐、練達という、
    三つの段階として表現しています。
    「苦難は忍耐を、忍耐は練達を生むことを、
    わたしたちは知っている」と。
    苦難、忍耐、練達という三つの段階を、
    パウロはここで語ります。
    練達と訳された単語を、
    聖書協会共同訳は「品格」と訳しています。
    苦難を受け、乗り越える体験が作り上げる人格性、
    そのことをパウロはここで語るのです。
    たしかに苦難をとおして、
    立派な練達をあるいは品格を身に付けた人が、
    世の中にはたしかにおられます。
    だれでもその域に到達できるかと言えば、
    そうではないのでしょう。
    途中で挫折や失意で終わる人も多いことでしょう。
    ここで一つのことに気付かれたでしょうか。
    パウロは確かに試練から始まる段階を語ります。
    しかし、パウロが語るのは、
    三つの段階ではなく四つだということに。
    パウロは苦難、忍耐、練達、希望、
    この四つの段階をこのように語っています。
    「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、
    練達は希望を生むことを、
    わたしたちは知っています」。
    苦難からはじまる一連の段階は、
    それを体験する人にとって、
    つらく厳しいことに違いありません。
    どれだけの人が、挫折やあきらめで終わらず、
    練達にまで至ることができるでしょうか。
    自分の意志や努力で、
    試練を乗り越えて練達に至るのは至難です。
    もしわたしが、
    あなたにはできるかと問われたら、
    わたしは「はい」と答える自信はありません。
    多くの人は時間の過ぎ去る中で記憶が薄れるか、
    あるいは痛みを抱えながら忘れようとするか、
    そのどちらか、あるいは両方で対処しています。
    三つの段階を経て練達にまで至ることが、
    もし至難の業だとしたら、
    いったい誰がさらにその先、
    パウロの語る第四の段階にまで、
    行き着くことができるというのでしょうか。
    いいえ、パウロはそのようには語っていません。
    パウロは苦難から始まり、
    人の苦闘と努力の果てに第四の段階、
    希望にまでたどり着けるとは教えていません。
    そうでなく、パウロは終わりから語るのです。
    パウロは最初に希望を告げます。
    きょうの聖書の箇所がそのことを示しています。
    試練からの段階を語るに先立ち、
    パウロはまずこう宣言することから始めます。


    このように、わたしたちは信仰によって
    義とされたのだから、
    わたしたちの主イエス・キリストによって
    神との間に平和を得ており、
    このキリストのお陰で、
    今の恵みに信仰によって導き入れられ、
    神の栄光にあずかる希望を
    誇りにしています。


    神の栄光にあずかる希望。
    そのことをパウロは最初に告げ知らせるのです。
    神の約束を信じて生きる人は、
    つまり、信仰を抱いて生きる人は、
    神の栄光にあずかる希望が与えられている。
    わたしたちにとっては、
    その事実から始まります。
    そうであるとすれば、
    最初に希望があるのですから、
    わたしたち信仰を抱いて生きる者には、
    その人の意志や精神力に関係なく、
    すでに希望はあり、
    すでに与えられている希望へと向かって、
    苦難からの段階を体験することになります。
    苦難が実際にあるかどうかに関係なく、
    最初に約束が与えられている事実を、
    パウロは明らかにしたのでした。
    信仰とは、神の約束を信じて生きることです。
    神の約束とは、
    わたしたちのこの旅の終わりに、
    最後の時に実現し完成する希望、
    しかし、今既に始まっていて、
    わたしたちが神から受けている約束への希望。
    それをパウロはこう要約しました。


    わたしたちがまだ罪人であったとき、
    キリストがわたしたちのために
    死んでくださったことにより、
    神はわたしたちに対する愛を示されました。
    それで今や、
    わたしたちはキリストの血によって
    義とされたのですから、
    キリストによって神の怒りから救われるのは、
    なおさらのことです。


    キリストという確かな保証に基づく約束が、
    希望の根拠として与えられているのですから、
    わたしたちはキリストを信じる信仰によって、
    最初に希望が与えられています。
    わたしたちは苦難に遭う以前に、
    希望からはじまっています。
    そうであれば、
    苦難から忍耐、忍耐から練達、
    そして練達から希望へという四つの段階は、
    一部の優れた人だけでなく、
    キリストを信じるすべての人の歩む道です。
    わたしたちは皆、
    信仰ゆえの四つの段階を、
    この世の旅で歩んでゆきます。
    キリストを信じる信仰を抱いて生きるかぎり、
    誰一人として、最後の希望が成就する、
    約束の御国に至らない人はいません。
    だからパウロは胸を張り、
    誇ると喜ぶという両方の意味を持つ言葉を用いて、
    高らかに、三度も宣言したのでした。


    神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
    苦難をも誇りとします。
    わたしたちは神を誇りとしています。

週報より

  • 2022.08.21 週報より抜粋・要約

  • ・月報『モレノ』9月号ができました。  
    週報棚あるいは受付テーブルにありますので、
    ご覧ください。
    今回は読み応えのある二本の寄稿があります。  
    原稿をくださった方、
    モレノチームに感謝します。   
    10月号の原稿も募集中ですので、
    どうぞご寄稿ください。

    ・来週の礼拝は稲葉基嗣先生の担当です。
    どうぞお楽しみに。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)

    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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