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朗読箇所

三位一体後第11主日

イザヤ書54:7−10


7 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
8 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
あなたを贖う主は言われる。
9 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
あのとき誓い
今またわたしは誓う
再びあなたを怒り、責めることはない、と。
10 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
あなたを憐れむ主は言われる。


新約 マルコ11:15−17

◆神殿から商人を追い出す
15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」

説教

怒りの神?愛の神?

音声を聴く

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    きょう一緒に交読した詩編6編を読んだとき、
    わたしは中学生の頃に
    友人が話していたことを思い出しました。
    「旧約聖書の神さまは怖いけど、
    新約聖書の神さまは優しい愛の神だよね」。
    旧約聖書は神の怒りや裁きを多く描き、
    新約聖書はイエスさまの姿を通して、
    神がわたしたちを愛し、
    慈しんでくださっていることを描いていると、
    この友人は言いたかったのだと思います。
    当時、わたしは聖書を
    じっくり読むことをあまりしていなかったので、
    「ふーん、そういうものなんだな」と
    友人の言葉を聞き流していました。
    でも、きょうの詩編の冒頭の言葉を聞くならば、
    この言葉にしっかりと向き合わないといけません。

    この詩人は神の怒りを感じ、
    心が押しつぶされそうになっています。
    目が見えなくなるほどに涙は洪水のように流れ、
    この詩人は心身共に衰弱しきっています。
    死を実感し、神の怒りがもうこれ以上
    自分を押しつぶさないことを願い、
    神に叫ぶように祈りました。
    「主よ、
    怒ってわたしを責めないでください
    憤って懲らしめないでください。」
    (詩編6:2)

    旧約聖書の神は怒りの神だと信じて、
    この詩人の言葉を読むならば、
    神の怒りを向けられているこの詩人に
    救いの望みがないかのように感じてしまいます。
    もしも神が怒りの神ならば、
    わたしたちにできることは
    神を怒らせないようにすることだけです。
    自分なりに、できる限り
    正しいことや善いことをして、
    神に気に入られるようにしなければなりません。
    いや、そもそも神の怒りに触れないように、
    神に近づかないほうが良いのかもしれません。
    このように、神が怒りの神ならば、
    わたしたちが神のために行うすべてのことは
    神への恐怖が大きな動機になってしまうでしょう。

    でも、安心してください。
    怒りは決して神の性質ではありません。
    さきほど開いた預言者イザヤの言葉を
    思い出してみてください。
    イザヤはこう語ります。

    わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
    深い憐れみをもって
    わたしはあなたを引き寄せる。
    ひととき、激しく怒って
    顔をあなたから隠したが
    とこしえの慈しみをもって
    あなたを憐れむと
    あなたを贖う主は言われる。
    (イザヤ54:7−8)

    わたしの慈しみはあなたから移らず
    わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
    あなたを憐れむ主は言われる。
    (イザヤ54:10)

    神にとって怒りを抱く時間は
    ほんのわずかな時間のことで、
    永遠に神は怒りを覚えているわけでも、
    「怒りの神」と呼ばれるほどに、
    怒りが神と強く結びついているわけでもありません。
    イザヤによれば、
    神と強く結びついているのは、
    怒りではなく、慈しみと平和です。
    ここで慈しみと訳されている
    ヘブライ語はヘセドという単語が使われています。
    このヘセドという単語は、
    決して揺るがない愛を示す言葉です。
    それは感情的な、一時的な熱狂とは違います。
    イザヤは神の怒りは一時的なものだけど、
    神のヘセドは、神の慈しみは、
    いつまでも続くものだと言います。
    その意味で、神は決して怒りの神ではありません。
    慈しみと愛に満ちた平和の神です。

    そうだとすれば、ひとつ疑問が湧いてきます。
    一体、神は何に怒りを覚えるのでしょうか。
    旧約聖書を生み出した古代中近東の世界では、
    神々が怒る原因の多くは理不尽なことばかりでした。
    たとえば、エンリルという名前の神は、
    人間の数が増えてうるさいからという理由で怒り、
    洪水を引き起こします。
    それとは違い、旧約聖書が描く神の怒りは、
    明らかに人間の抱える罪に対する怒りです。

    ということは、
    詩編6篇の詩人は罪を犯したから
    神の怒りが注がれているということなのでしょうか。
    詩人が神の怒りを感じ、
    こんなにも苦しんでいる理由について、
    いくつかの可能性が考えられると思います。
    ひとつ目の可能性として考えられるのは、
    罪を犯したから、
    その罪責感に押し潰されそうになっていることです。
    神は罪を嫌うから、
    神の怒りが自分に向いていると感じている。
    自分のこれまでの歩みを見つめ直し、
    神との関係を元通りに戻したいと強く願って、
    神に向かってこの詩人が祈っているように読めます。
    ふたつ目に、この詩人が
    病気を患っている可能性も考えられます。
    詩人は死がすぐ近くにあると感じています。
    現代のわたしたちからすれば考えられませんが、
    当時のイスラエルの社会の中で、
    病は罪を犯した人への神からの罰、
    神からの怒りの結果と受け止められました。
    なのである意味では、
    当時のイスラエルの社会の中では、
    病を患う時、自分の行いを見つめ直す機会になりました。
    3つ目に、周りの人たちから
    神の怒りが自分に向いていると
    指摘された可能性も考えられます。
    そうだとすれば、とても酷いです。
    一体何を基準にして、
    わたしの置かれている境遇を
    神の怒りだと判断することが出来るのでしょうか。
    自分で気づくならまだしも、
    他人から指摘されるのは、
    あまりにも暴力的です。

    このようにいくつかの可能性を思い巡らしてみると、
    わたしたちの目で何が神の怒りの対象となるのかと
    過度に推論を重ねて、
    誰かの境遇を神の怒りだと判断するのは、
    とても危険なことだと気付かされます。
    あまりにも安易に、無神経に、
    神の怒りと判断するのは、
    神の名を利用して、
    誰かをおとしめ、はずかしめ、
    傷つけてしまうことになりかねません。
    また、神の名を利用して、
    自分に不都合なことや不幸なことを
    神の怒りの結果と片づけることだって
    簡単にできます。
    正直、答えの出ないことが多い
    わたしたちの人生において、
    問いかけ、考え、悩むことをやめて、
    悪いことは神の怒りの結果だと決めつけてしまう方が
    気が楽になる側面もあります。
    でも、この世界で起こるあらゆることを
    神の怒りと捉えることには、
    もっと慎重になるべきでしょう。
    神はこの世界を大切に思い、
    慈しみ、平和を願い、
    そして愛しておられるのですから。
    神は怒りの神ではなく、愛の神です。

    だからといって、
    慈しみと愛に満ちた神が
    まったく怒らないわけではありません。
    神の怒りについて、
    聖書全体を通してわたしが抱いている確信は、
    神が怒りを覚えるのは、
    人の尊厳が傷つけられた時。
    そして、誰かの命が脅かされている時です。
    きょう開いたマルコ福音書の物語で、
    イエスさまが怒り狂う姿が描かれています。
    当時、ユダヤの人々は神殿にやって来て、
    神殿税を支払うことが可能な通貨に
    自分の持つお金を両替しました。
    また、神殿で犠牲のためにふさわしい、
    いわば神殿お墨付きの動物を買いました。
    けども、これらは人々が
    神へ礼拝する心を利用した商売であり、搾取でした。
    そんな現実にイエスさまは怒りを表したのです。
    神殿が作り出してしまった搾取のシステムに抗議し、
    搾取の犠牲となっている人々の命を守るために、
    イエスさまは怒りを表しました。
    虐げられ、犠牲となっている人々を
    諦めたくなかったから、
    イエスさまは怒りを表したのでしょう。

    同じように、もしも神が怒らなかったら、
    それはすべてを神が諦めてしまった時といえるでしょう。
    神の怒りは関係性があるから生じます。
    わたしたちを、この世界を大切に思っているから、
    神は怒りを覚えるときがあるのです。
    わたしたちは神が愛と慈しみをわたしたちに注ぎ、
    平和を望む方だと信じています。
    神が怒りを覚えるのは、
    愛と慈しみがわたしたちの社会から損なわれる時です。
    暴力があふれる時です。
    人の尊厳が、命が踏みにじられる時です。
    そして、平和が損なわれる時です。

    聖書に記されている神の怒りは
    真剣に向き合おうとすれば、
    わたしたちの悩みの種になります。
    でも、聖書に記される数多くの神の怒りの証言は、
    神がわたしたちに真剣に向き合い、
    関わってくださっている揺るがない証拠です。
    そして、それは神が狂おしいほどにわたしたちを
    慈しみ、大切にしておられる証だといえます。

    だからこそ、詩編6篇の詩人の悲痛な叫びに
    わたしは心が押しつぶされそうになります。
    この詩人は、神の怒りを
    必要以上に感じてしまっているように思えるからです。
    これは神の怒りの結果なのだと、
    片付けてしまいたいほどの経験をして
    苦しんでいる詩人がいるからです。
    でも、この詩人は
    確かな希望を抱くことが出来ていました。
    神は感情的に怒る方ではなく、
    我を忘れるような方でもありません。
    揺るがない慈しみ、ヘセドに基づいて、
    神は祈りを聞き、わたしと向き合って、
    語り合ってくださると詩人は信じていました。
    神はどこまでも、わたしたちとの関係を諦めません。
    怒りを覚えるほどに、わたしたちを愛し、
    平和と慈しみがわたしたちの社会に広がっていくことを
    強く、強く願っています。
    神は、わたしたちと一緒に天の御国へと向かう
    この旅を歩んで行きながら、
    わたしたちとの関係を
    築き続けていくことを決して諦めません。
    そして、聖書を開き、数多く見つかる
    神の怒りという言葉に出会うときに、
    わたしたちはいつもこのことを思い起こしたいと思うのです。
    人の争いがやまず、
    敵意や憎しみがどれほど溢れていたとしても。
    神が悲しみを覚えながら怒りを抱えそうな現実が
    わたしたちの前にどれほど広がっていたとしても。
    慈しみに満ちた神は諦めていません。

週報より

  • 2022.08.28 週報より抜粋・要約

  • ・本日の礼拝は稲葉基嗣先生が担当してくださいました。
    神学修士の学びもあと三ヶ月となり忙しい時期ですが、
    教会のためのお働きに感謝します。      
    先生の学びと生活が守られますよう、
    お祈りください。

    ・今週は学牧師は聖書協会の用事がかさなります。
    火曜日は聖書翻訳研究会がオンラインで開催されます。
    水曜日は聖書協会三役会が銀座の聖書館で開かれます。
    金曜日は同じく聖書館で、理事会が開催されます。

    ・来週は礼拝後、月例教会役員会が開かれます。 
    おもな議題は月報告の承認と
    教会全体会の議題と確認です。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)

    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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