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朗読箇所

三位一体後第12主日

創世記3:1−12

◆蛇の誘惑
1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」


新約 ローマの信徒への手紙5:12−21

◆アダムとキリスト
12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

説教

永遠の命に導く神の恵み

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    エンディングノート。
    最近テレビコマーシャルにも登場しますから、
    皆さまもよくご存じでしょう。
    葬儀の仕方や財産分与などを明確にする
    遺言状とは異なり、
    自分の死に対する自らの備えと同時に、
    家族や友人に自分の思いや気持ちを伝え、
    自分の存在をどう記憶してほしいかを考えて、
    そのことを書き記しておくものです。
    好きな歌、思い出深い出来事、感謝の気持ち、
    キリスト教徒であれば好きな賛美歌や聖書の言葉、
    信仰の生涯の記録などでしょうか。
    わたしたちの教会も十年以上前に、
    エンディングノートの書式を作成して、
    皆さまにお渡ししました。
    ここ十年の間に新しく来られた方は、
    その存在をご存じないかもしれません。
    教会のホームページからダウンロードできます。
    任意のものですが、
    皆さまにご記入をしていただき、
    ご自分で保管すると同時に、
    コピーを教会に提出してくださいとお願いしました。
    提出率はとても低いのが現実です。
    たぶん皆さま、
    ご自分は当分死ぬ予定はないから、
    いずれそのうちにと、
    先延ばししているうちに、
    存在さえ忘れてしまわれたのでしょう。
    死の時は必ず来るとはわかっていても、
    あまり考えたくないというのが本音でしょうか。
    だから先延ばししてしまいます。
    小学生が夏休みの宿題をぎりぎりまでしないのと、
    あまり変わらないようです。
    しかし、神への感謝を書き留めることは、
    自分自身の神への感謝を改めて思い起こす機会です。
    家族や友人への言葉も、
    死に際して直接言えるならよいですが、
    それができないことは多いです。
    好きな賛美歌や聖書の言葉を予め書いておくと、
    牧師であるわたしにとってたいへん親切です。
    家族や友人にとっても、
    その歌や御言葉がその人と結びついて、
    思い出が豊かになるはずです。
    心の内にあるいろいろなことを、
    文字として遺して置くことは、
    自分自身はもちろんですが、
    周囲の方たちにいっそう大きな意味を持ちます。
    わたしたちには、死そのものは未知であり神秘です。
    死について考えることはできても、
    また他人の死を体験することはできても、
    自分の死を体験することはできません。
    ですから、死は恐れであり、闇であり、
    のぞき見ることの許されない閉ざされた扉です。
    死についていくら考えても、
    死とは何かをいくら問うても、
    文字通りのデッドエンド(行き止まり)です。
    死は現実であると同時に、
    いわばブラックホールです。
    哲学者は、だから、断言します。
    「死というものはない」と。
    だからパウロは、死そのものを説明しません。
    説明は不可能ですから。
    では、死はわたしたちにとって存在しない、
    非現実なのでしょうか。
    いいえ、究極の現実、
    しかしそれは語りようのない現実。
    死は決してどうでもよいことではなく、
    わたしたちにとって究極の関心事です。
    だが、死そのものを問うても、
    死についての思索を巡らしても答えはありません。
    知ることは不可能ですから。
    パウロは知りようのない死についての思索ではなく、
    わたしたち人間にとって、
    はるかに重大で深刻な問題である、
    なにが死をもたらしたのかという、
    問う意味と価値のある問題を取り上げます。
    パウロは、死の根源には罪の問題があるという、
    その事実から、死と命の意味を説き明かすのです。
    パウロはきょうの聖書箇所の前、
    5:8で、こう告げています。


    わたしたちがまだ罪人であったとき、
    キリストがわたしたちのために
    死んでくださったことにより、
    神はわたしたちに対する愛を示されました。


    パウロは12節で、
    この言葉を受けて、
    「このようなわけで」と続けます。


    このようなわけで、一人の人によって
    罪が世に入り、
    罪によって死が入り込んだように、
    死はすべての人に及んだのです。


    死は罪の結末にすぎず、
    真の問題は、罪という「死に至る病」にこそある。
    それがパウロの確信していたことであり、
    死という不可知のものの根源にある、
    究極の、そしてわたしたちが向き合うことのできる、
    真の問題です。
    では、「罪」とはどのようなことでしょうか。
    パウロは罪を具体的に定義しません。
    律法はそれをします。
    「何々をしてはならない」
    「何々をしなければならない」
    「何々をした者は罰を受ける」。
    しかし、そのような具体的な違反は、
    罪の表れにすぎず、
    罪の本質とは異なります。
    パウロはこう言います。
    「一人の人、アダムによって罪が世に入った」。
    ここで注意すべきことは、
    パウロはアダムという一人の人を、
    実際の一個人の意味で言うのではなく、
    全人類の罪の姿を写す鏡としての一人の人、
    つまり、アダムを隠喩として語っていることです。
    象徴として、アレゴリーとして、
    本質を表す「しるし」として用いているのです。
    アダムは人類の隠喩であり象徴です。
    だから、すべての人はアダムであり、
    アダムを見るなら、
    わたしたち人間の罪が何かということを、
    明らかにすることができます。
    きょう旧約聖書は創世記三章から読みました。
    少し長いですが、引用してみましょう。


    主なる神が作られた野の生き物の内で、
    最も賢いのは蛇であった。
    蛇は女に言った。
    「園のどの木からも食べてはいけない、
    などと神は言われたのか。」
    女は蛇に答えた。
    「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
    でも、園の中央に生えている木の果実だけは、
    食べてはいけない、触れてもいけない、
    死んではいけないから、
    と神様はおっしゃいました。」
    蛇は女に言った。
    「決して死ぬことはない。
    それを食べると、目が開け、
    神のように善悪を知るものとなることを
    神はご存じなのだ。」
    女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、 
    目を引きつけ、
    賢くなるように唆していた。
    女は実を取って食べ、
    一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
    ・・・
    神は言われた。
    「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
    アダムは答えた。
    「あなたがわたしと共にいるように
    してくださった女が、
    木から取って与えたので、食べました。」


    この物語は、アダムとエヴァが
    神の戒めを破った出来事であると同時に、
    アダムによる究極の責任逃れと
    自己正当化の物語でもあります。
    アダムは、神の戒めに違反して、
    神に従う生き方を放棄しました。
    しかも、自らの過ちを認めて悔い改めず、
    女に責任を負わせて自己正当化しました。
    いや、この物語はいっそう根本的で深刻な、
    人間の罪を指摘していると言うべきでしょう。
    アダムは神に向かって、
    「悪の根源はあなただ」と主張しているのですから。
    「あなたがわたしと共にいるようにした女が、
    木から取って与えたから」いけないのだと。
    この物語はアダムとエヴァという
    二人の人間の問題ではありません。
    この二人の物語が指し示すのは、
    罪とは何かという人間の根源的な問題です。
    罪とは、人が神から離れ、神に従う生き方をせず、
    自己正当化して生きているという事実です。
    自分以外の誰かを悪として糾弾することです。
    そしてその行き着く先に、
    神を悪者にしてまで自分を正当化する事実です。
    この世界の人と人の対立、争い、
    民族と民族の対立、争い、憎み合い、
    国家と国家の対立、争い、侵略、破壊、殺戮。
    それらの背後には必ずこの問題、
    自己正当化と相手を悪とする敵意があることは、
    わたしたちは歴史からも今の現実からも、
    思い知らされていることです。
    人の目の中のごみを認めながら、
    自分の目にある丸太は見ていないだけです。
    人は自分の正しさを武器として神と人に戦いを挑み、
    互いに自分が正しいという武器を振るって
    裁き合い、傷つけ合っています。
    神から離れ、神を疑い、神を認めず、
    神に従って生きることをしない人間、
    神がこの世界を良く管理し、
    正義と公平をおこなうように求めても、
    神のその願い、神のその求めに従わない人間は、
    命の源である神から離れてしまっています。
    命の源である根から切り取られた枝が、
    時と共に枯れてゆくしかないように、
    人の行き着くところも同じ、
    すなわち「死」です。
    死とは、罪の行き着く結末であり、
    また同時に、わたしたちを支配する罪の力です。
    わたしたちは、死を恐れるにせよ、
    勇気をふるって死を直視するにせよ、
    死だけを問題にしても、
    何の役にも立たず、
    解決にもなりません。
    それは不可解にして虚無、神秘にして恐怖。
    死の根源にある罪が赦され、
    罪が取り除かれない限り、
    死はわたしたちにとって超えることのできない、
    不可解な漆黒の闇に覆われた、
    難攻不落の壁であり続けることでしょう。
    罪が、神からの離反と自己正当化であり、
    その結末が死であるとしたら、
    わたしたちが死の支配から解き放たれるためには、
    罪の問題を解決しなければなりません。
    わたしたちは命の源である神との交わりを回復し、
    神のみを正しい方として、
    神に従う道を見出すことが必要です。
    どうしたら、それが可能なのでしょうか。
    どうしたら、わたしたちは罪を取り除いて、
    命の源である神と結ばれて命を回復し、
    神に従って生きる道を見出すことができるでしょうか。
    人が自分の力で死を滅ぼすことができないのと同じく、
    死の根源である罪を、
    人の力で取り除くことはできません。
    それは、神にしかできないことです。
    罪を赦し、
    無罪の判決を下すことができるのは、
    神だけだからです。
    事実、神がそれを実現してくださった。
    そのことをパウロは高らかに宣言しました。


    一人の罪によってすべての人に
    有罪の判決が下されたように
    一人の正しい行為によって、
    すべての人が義とされて
    命を得ることになったのです。


    パウロはこのことがどれほど重要であるかを、
    よく理解していました。
    だから同じことを言い換えて、
    もう一度繰り返して語りかけています。


    一人の人の不従順によって
    多くの人が罪人とされたように、
    一人の従順によって
    多くの人が正しい者とされるのです。


    恵み深い神が、イエス・キリストを通して、
    神の恵みによって
    罪の赦しを成し遂げてくださいました。
    キリストの十字架によって罪をあがない、
    有罪であるはずのわたしたちに、
    無罪を宣告してくださいました。
    わたしたちはその恵みを信じて受け取るだけです。
    キリストを信じるわたしたちは、
    もはや罪の支配の下に生きてはいません。
    キリストと結ばれて、
    今、神の恵みの中を生きています。
    わたしたちもまた、
    いつか死の時を迎えることでしょう。
    でも、死はもはや、
    わたしたちにとってデッドエンドではありません。
    死は、その先にある永遠の命への扉に過ぎません。
    わたしたちは、死という不可解な
    暗黒の壁に向かって歩んではいません。
    わたしたちは今や、
    死という永遠の命への扉を目指して歩んでいます。
    罪を赦し、死を難攻不落の壁ではなく
    永遠の命への扉に変える力を持つ、
    すべてに勝る神の恵みを受けて生きているからです。
    だから、パウロは高らかに宣言しました。


    こうして、罪が死によって支配していたように、
    恵みも義によって支配しつつ、
    わたしたちの主イエス・キリストを通して
    永遠の命に導くのです。


    かつて、罪は死を支配の道具として、
    人々を恐れさせていました。
    しかし今や、神の恵みは
    義を支配の道具としてわたしたちを導き、
    永遠の命へと至る道を歩ませてくださるのです。
    わたしたちも死と向き合います。
    しかし、不可解にして闇の力を恐れながらではなく、
    永遠の命に導く神の恵みを受けた者として、
    死に向き合います。
    そこには闇はなく、恐れもなく、
    あるのは永遠の命の望みゆえに抱くことのできる、
    神への感謝、賛美、そして喜びです。

週報より

  • 2022.09.04 週報より抜粋・要約

  • ・きょうはティータイム後に
    月例教会役員会を開きます。
    教会役員の皆さまは
    よろしくお願いいたします。   
    おもな議題は諸報告の承認、
    教会全体会の打ち合わせなどです。
    役員会への提案・ご意見など
    ありましたらお知らせください。

    ・今週金、土曜日はそれぞれ
    以下の会議が予定されています。
    どちらも学牧師が出席します。             
    9日金曜日は、
    アジア太平洋地域神学教育試問会議がオンラインで、
    10日土曜日は
    富坂キリスト教センター主催の研究会が開かれます。
    富坂研究会はこれが最終回で、
    成果は来年に本になる予定です。

    ・来週は礼拝後にモレノ編集会を開きます。         
    月報『モレノ』作りにご協力くださる方は
    よろしくお願いします。

    ・教会全体会日程変更のお知らせ             
    わたしたちの教会は九月第三日曜日の礼拝後に  
    教会全体会(中間総会)を開催してきました。  
    しかし、今年は諸事情を考慮した結果、
    日程を変更して、
    10月9日に開催することにしました。
    どうぞご了承くださると共に、
    ぜひご出席ください。
    今年も10月の教会ピクニックは中止です。
    全体会でなにか楽しいイベントを考えています。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)

    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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