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朗読箇所

三位一体後第13主日

イザヤ書12:1−3

◆救いの感謝
1 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが
その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌
わたしの救いとなってくださった。」
3 あなたたちは喜びのうちに
救いの泉から水を汲む。


新約 ローマの信徒への手紙6:1−14

◆罪に死に、キリストに生きる
1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
7 死んだ者は、罪から解放されています。
8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

説教

我ら恵みの下にあり

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    わたしはふだんあまりテレビは観ないのですが、
    自然を題材にした番組は楽しみにしています。
    自然の景色もよいですが、
    自然の中で命をつないで生きている、
    いろいろな生き物の生態を紹介する番組には、
    特に興味をそそられます。
    以前、ウミガメの産卵と、
    孵化した赤ちゃんカメが、
    砂の中から這い出して、
    ひたすら海を目指す光景を見ました。
    夜の砂浜を必死に這ってゆく姿は、
    感動的で、神秘的でした。
    しかし同時に、
    苛酷な現実が小ガメを待っている事実が、
    その番組から伝わっていました。
    生き延びる子ガメは数パーセント。
    生まれたとたんにウミガメの子らは、
    孤独な生存の闘いを求められるのです。
    親カメの助けも、守りも、導きもなく、
    厳しい自然の中に孤独で投げ出されるのです。
    動物は知性が高くなるにつれて、
    親や群れの仲間と過ごす時間が必要になる。
    そんな傾向がみられるように思います。
    本能的なものを越えて、
    愛情や親睦の感情が育まれ、
    親や群れの仲間から学ぶことが、
    生きることに必要だからだと思います。
    そうだとすれば、
    その最たるものは人間です。
    人は人との連帯性の中でこそ、
    人となってゆくからです。
    誰かに愛情を注がれ、
    いとおしまれる体験が、
    人として育つために必要です。
    親だけでなく、他の人たちからの愛情を、
    体験的に実感することが、
    他の人を愛することにつながります。
    誰かから大切にされた体験が、
    他の人を大切にすることにつながります。
    そうしたことの積み重ねが、
    人間性を形成するのではないでしょうか。
    これは人類に共通するものです。
    聖書は、神が人を創造したことを語ります。
    人形を作るように形作ったのではありません。
    神は人を「神のかたちに創造した」(創1:27)。
    そう聖書は最初に告げるのです。
    聖書は人の間に区別を設けてはいません。
    ある身分や人種や特権階級だけが、
    神のかたちに創造されたとは語りません。
    すべての人が、
    性別、人種、民族、文化に関係なく、
    身分の違い、権力の有無、富に関係なく、
    等しく神のかたちに創造された。
    それが聖書の語る真理です。
    すべての人に共通する、
    人間としての一体性、
    人類を一つにつなぐ連帯性は何か。
    いろいろ考えつくことでしょうが、
    最重要の、最初に挙げるべき連帯性、
    それこそが「神のかたち」です。
    神のかたち、イマゴ・デイ。
    そうであれば、
    人は誰であれ、
    神のかたちを持つ者として尊重され、敬われ、
    聖なる神とのつながりを有する存在として、
    尊重され、大切にされねばなりません。
    本来、人は互いに、
    その連帯性を生きる存在であるはずでした。
    そのように神に創造されたのですから。
    しかし、現実の人間はどうでしょうか。
    全人類が互いに敬い、大切にし合い、
    神のかたちを喜び合っているでしょうか。
    むしろ、反対に他の人の尊厳を貶め、
    支配し、他の人を服従させ、
    権利を奪い、物のように扱い、
    人と人の間に上下を設け、
    神のかたちをないがしろにしてきました。
    どうしてそんなことになったのか。
    聖書はすべての人が、
    神のかたちとは異なる、
    神の創造とは相容れない、
    別の連帯性によって結ばれたことを、
    物語をとおして語るのです。
    パウロはその物語を一言で、
    5:12でこのように要約しています。


    一人の人によって罪が世に入り、
    罪によって死が入り込んだように、
    死はすべての人に及んだのです。


    アダムが神から与えられたただ一つの命令、
    善悪の知識の木からはとって食べるなとの、
    唯一の戒めに反してその実をたべ、
    命の源である創造主から離れ、
    神なしに生きるようになりました。
    この物語は全人類が置かれている現実を語る、
    隠喩、メタファーです。
    アダムによって罪が世に入り、
    全人類が死に支配されることになった。
    パウロはそう語ります。
    罪とは、神なしに生きることです。
    神なしに生きるのであれば、
    神のかたちを尊ぶこともありません。
    人が人を支配するようになり、
    他の人を物扱いすることは、
    いわば当然の結果ではないでしょうか。
    それがこの世界の現実です。
    人は皆、神のかたちとは異質な、
    罪による連帯性で、
    一つに結ばれています。
    わたしたちは誰一人例外なく、
    等しく罪びとです。
    人は誰もみな、
    他の人に対する裁判官であり、
    神をも被告席に座らせて、
    神を裁いて断罪します。
    人は互いに敵対し合い、裁き合い、
    自分の正しさを武器として、
    他の人はもちろん神にも闘いを挑み、
    互いに傷つけ合っています。
    人は神のかたちを完全に失ってはいませんが、
    神のかたちは歪められてしまいました。
    神から離反し、
    罪のしもべとされて、
    罪の力に支配されることにおいて、
    人類は一致し連帯しています。
    人は自分については甘く、
    とても楽観主義者です。
    自分を美化し、正当化します。
    人は容易に、こう思い込みます。
    わたしは対の支配など受けていない、
    自分の意志の力で罪から自由になれると。
    パウロはそれが幻想にすぎないことを、
    はっきりと理解していました。
    人はみな、罪において連帯し、
    人類は罪の力に支配され、
    罪の結果である死を宿命付けられている。
    それがパウロの語る人間の問題です。
    いったい誰が罪の連体性から自分を解き放ち、
    罪から自由になることができるでしょうか。
    人は自分を罪から救い出すことはできない。
    それが聖書の告げていることであり、
    人類の体験が示す現実です。
    人を罪から救うことは、
    神にしかできません。
    神がそれを成し遂げてくださいました。
    神はその独り子キリストを世に遣わし、
    神の独り子が人となって世に来られました。
    神の御子キリストは罪の赦しを宣言し、
    十字架の上で罪に対して死なれました。
    しかし、神はキリストをよみがえらせて、
    罪の力である死を無効にされました。
    死はもはやキリストを支配しません。
    そのことをパウロは、
    みごとな対比で語ります。


    キリストが死なれたのは、
    ただ一度罪に対して死なれたのであり、
    生きておられるのは、
    神に対して生きておられるのです。


    人となって世に来られたキリストは、
    人類で最初に、罪に対して死んだ人であり、
    人類で最初に、復活により、
    神に対して生きておられる方。
    だからパウロはコリントの信徒への手紙で、
    キリストの復活を「初穂」と呼びました。
    最初に実を付ける麦の穂にたとえました。
    それは最初であって、
    初穂が実れば、他の穂も続くからです。
    コロサイの信徒への手紙では、
    パウロはキリストをこう表現しています。
    聖書協会共同訳から引用します。


    御子は見えない神のかたちであり
    すべてのものが造られる前に
    最初に生まれた方です。(1:15)


    この言葉が語ろうとしていることの、
    驚くべき真実を考えてみてください。
    神の御子は、神のかたちである。
    そして、神は人を神のかたちに創造された。
    そうであるとしたら、
    人はもともと、キリストのかたちに創造され、
    キリストとの連帯性の中にあるはずでした。
    ところが、人は神から離れ、
    神のかたちである御子キリストとも離れた。
    神のかたちが損なわれたのは当然です。
    神は人を見捨て、罪の支配の下に放置するか、
    あるいは創造をリセットすることも、
    可能であったはずです。
    ところが驚くべきことに、
    神はそうなさいませんでした。
    本来の姿から堕落してからも、
    神はご自分の創造された世界と人を、
    愛し、慈しみ続けました。
    救済の道を神ご自身が拓いてくださいました。
    神の独り子を人として世に遣わすことです。
    ヨハネ福音書はその事実を、
    おそらく聖書の中でもっとも有名な言葉で、
    このように表現しました。


    神は、その独り子をお与えになったほどに、
    世を愛された。
    独り子を信じる者が一人も滅びないで、
    永遠の命を得るためである。(3:16)


    永遠の命を得るため。
    それは別の言い方をするなら、
    神のかたちを回復されるということです。
    キリストの死と復活は、
    キリストにおいて神の形が回復され、
    それが信じる者、すなわち、
    キリストによる神の約束を信じる者に及び、
    キリストとの信仰のきずなによって、
    神のかたちが回復されるということです。
    キリストと信仰によって一つに結ばれ、
    わたしたちがキリストの命と連帯するなら、
    わたしたちはキリストと共に罪に対して死に、
    キリストと共に神に対して生きることになります。
    キリストをとおして与えられた、
    神の新しい約束を信じることによって、
    わたしたちはキリストとの連帯性を、
    キリストとの一致を、
    キリストと一つに結ばれた者としての姿を、
    生きる者とされたのです。
    わたしたちが受けた、あるいはこれから受ける、
    バプテスマ・洗礼は、そのことのしるしです。
    パウロはそのようなわたしたちのことを、
    こう表現しています。


    わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
    キリストと共に生きることにもなると信じます。

    世界の現実は大きくは変わりません。


    の世界全体が罪の支配から解き放たれるのは、
    終わりの時、キリストが再び来られる、
    神の未来の時です。
    世界は罪の支配の下にあり、
    罪の力、誘惑、罪の脅し、試練は、
    この世界でこれまでも、いまも、これからも
    現実であり脅威です。
    そのような世界の中で生きるわたしたちは、
    今、罪から解き放たれているとしても、
    今、罪の脅威から無関係になり、
    今、復活させられているわけでもありません。
    使徒信条は、
    「我は体のよみがえりを信ず」と告白します。
    この信条の項目が語るのは、
    わたしたちにとって復活の体は、
    神の約束であり、
    未来の希望だということです。
    そうであれば、わたしたちは、
    罪の支配から自由になったとしても、
    体は物質的であり、弱さを負い、
    この世界そのものは罪の支配の下にあります。
    パウロの言葉を使って言うなら、
    わたしたちは、今はまだ、
    「死ぬべき体」を生きています。
    罪赦され、罪の支配から解き放たれても、
    罪の力は現実であり、
    わたしたちは罪の力にさらされ、
    誘惑と脅し、試練と苦難は避けられません。
    だからこそパウロはこの世で生きる信仰者に、
    このような助言を与えたのでした。


    あなたがたの死ぬべき体を
    罪に支配させて、
    体の欲望に従うようなことがあっては
    なりません。
    また、あなたがたの五体を
    不義のための道具として
    罪に任せてはなりません。


    このパウロの言葉が意味することは、
    わたしたちが自らそう望んで、
    罪の支配に戻ってはならないということです。
    罪に戻る誘惑と脅しの機会はたくさんあります。
    自分を憎み、悪をおこなう者に対して、
    悪を仕返ししたくなる誘惑。
    少しの不正や不誠実で富を得る機会の誘惑。
    悲しんでいる人に無関心になる誘惑。
    周囲の人に合わせないといけないという脅し。
    国家の悪や不正に沈黙させようとする脅し。
    愛と憐れみの価値を引き下げさせる圧力。
    数え上げたらきりがありません。
    言い換えるなら、
    わたしたちは弱さを負いながら、
    危険に満ちた荒れ野の旅を続けています。
    なんと困難な旅であることか。
    しかし、パウロはそれを自力で、
    わたしたちの力と意志で乗り越えろと、
    そんな苛酷な命令をしているのではありません。
    もちろん、わたしたちの意志は必要です。
    だが、わたしたちの力と意志をはるかに超える、
    大きな力が、わたしたちと共にある。
    そのことをパウロは確信しています。
    なぜ、誘惑や試練、脅しや苦難に、
    わたしたちは敗北させられたり、
    罪の支配に戻ったりしないでいられるのか。
    パウロの確信を込めた答えはこうです。


    なぜなら、罪は、もはや、
    あなたがたを支配することはないからです。
    あなたがたは律法の下ではなく、
    恵みの下にいるのです。


    わたしたちは恵みの下にいる。
    神の恵みがわたしたちを覆い、
    わたしたちを包んでいる。
    だから大丈夫。
    自分で望まないかぎり、
    罪はわたしたちを支配できない。
    そのパウロの確信は、
    わたしたちの確信です。
    パウロは別の箇所で、
    わたしたちには二者択一しかない、
    その事実を語っています。
    罪の奴隷か、神のしもべか。
    罪の奴隷から解放されるということは、
    決してニュートラルで主人のいない、
    野良人間になることではありません。
    飼い主のない羊のようであるべきではありません。
    罪の奴隷から解放されることは、
    解放してくださった神のものとされ、
    神に属するものとして、
    神のしもべとしての生涯を生きることです。
    だから、キリストと共に罪に対して死に、
    キリストと共に神に対して生きる人は、
    どうすべきか明らかです。


    自分自身を死者の中から生き返った者として
    神に献げ、 
    また、五体を義のための道具として
    神に献げなさい。


    神のかたちを回復された者らしく生きよ、

    ということです。

週報より

  • 2022.09.11 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは礼拝後に月報『モレノ』編集会をします。
    モレノ10月号の企画編集をします。  
    モレノ製作にご協力くださる方は
    付属館にいらしてください。
    10月号の原稿はきょうが締切ですが、
    ページ数がわかれば、
    今週水曜日までにいただければ大丈夫です。
    製本は17日土曜日午後2時から、
    付属館でおこないます。

    ・今週木、金曜日はそれぞれ
    以下の会議が予定されています。
    どちらも学牧師がオンラインで出席します。
    15日木曜日は、日本福音連盟常任理事会
    16日金曜日は『礼拝と音楽』誌編集企画会

    ・教会全体会(中間総会)のお知らせ      
    わたしたちの教会は
    10月16日(第三日曜日)の礼拝後に、
    教会全体会(中間総会)を開催いたします。
    例年は9月第三日曜日の礼拝後でしたが、
    今年は諸事情により、
    日程を10月に先延ばしいたします。
    どうぞご了承くださると共に、
    ぜひご出席ください。
    例年は10月第三日曜日は
    教会ピクニックの日ですが、
    今年はまだコロナウィルス対策として
    ピクニックはおこなわず、
    その日を教会全体会に充てることとしました。  
    なにかお楽しみを用意できればと考えています。
    先週、10月9日と案内しましたが、
    16日の間違いです。
    全体会のおもな話題は、中間報告と、
    新しい聖書の紹介です。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)

    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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