説教者 稲葉基嗣 牧師
「よげんしゃ」という言葉を聞いて、
皆さんはどのような人物を思い浮かべるでしょうか。
きっと、一般的に考えられている「よげんしゃ」は、
謎めいた言葉で未来について語る人のことでしょう。
たしかに、旧約聖書に登場する預言者と呼ばれる人たちは、
未来のことについても語っています。
でも、旧約聖書の時代、預言者たちは
そのような存在としては理解されていませんでした。
むしろ、彼らは神の使者のような存在でした。
神の言葉を受け取って、
神から派遣されて民衆や民の指導者たちのもとへ行き、
神の代わりに神の言葉を彼らに伝えるのが預言者という存在です。
このような理由から、
日本語訳の聖書で「よげんしゃ」に使われる漢字は、
予定の「予」ではなく預金の「預」、
つまり何かを預かるという意味の漢字が使われています。
預言者は神の言葉を預かって、
人びとに伝える人たちのことだからです。
さきほど読んだアモス書は、
預言者アモスの言葉がまとめられた書物ですが、
その当時にアモスの言葉を聞いた
イスラエルの北王国の人たちにとって、
耳が痛い言葉ばかりが収められています。
神がライオンのように吠えたけり、
他の国に向かって噛み付くかと思ってアモスの話を聞いていれば、
「いいえ、噛みつかれるのは君たちの方だよ?」
と、アモスはほのめかします。
また、神の裁きが他の国に下ると伝えるアモスの言葉を
喜んで聞いていたら、
「勘違いしないでね。
君たちのもとにも神の裁きは下るんだよ?」
と、言わんばかりに、
アモスはイスラエルに対する神の裁きを告げます。
「いやいや、自分たちは神に選ばれた民ですよ?
そんなことありえません。
神は私たちの先祖を助けてくれたんですよ?
エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を神は救い出して、
イスラエルを神の民、神の宝としたんですよ?
神にとって特別なわたしたちが、
神からの裁きを受けるなどありえません。」
アモスの言葉を聞いた民衆の反応が想像できますね。
アモスは同意します。
「そうですね。
あなたたちは神に選ばれた民です。
あなたたちだけです。
神が選んだのは。
神がエジプトから救い出したのは、あなたたちだけです。
そうです。
だから、神はあなたたちを裁くんです。」
「なんだって!?」
エジプトから神がイスラエルの民を救い出した。
これって、イスラエルの民にとって、
とても大切な信仰告白です。
神の恵みと憐れみを告げる、とても大切な言葉です。
十戒と呼ばれる、10の戒めをきっと皆さんご存知だと思います。
十戒だって、戒めが始まるその前に、
この信仰告白が記されています。
神がエジプトから恵みのうちにイスラエルを救い出してくださった。
だから、感謝と喜びのうちに、
神の民はこの戒めを守って生きるんだ。
そういう動機づけの言葉として、
出エジプトの出来事が思い起こされています。
でも、アモスはその真逆を行きました。
アモスは、出エジプトの出来事を
神の恵みと憐れみを思い起こす手段として用いることをせず、
神の裁きに目を向ける手段としました。
イスラエルの社会で蔓延っていた罪を指摘するのには、
他の方法もあったでしょうに。
イスラエルの人たちが大切にする
信仰告白を罪の告発の手段に用いるなんて、
アモスの取った手段はかなり挑発的ですね。
だからこそ、アモスが民衆の反感を買ったことが想像できます。
でも、預言者の言葉が不都合だからといって、
預言者を退けることは難しいことでした。
というのも、預言者は、神の代理人として語っているからです。
神の代理として語る預言者の言葉を退け、拒否することは、
神を退けることにもなってしまいます。
なので、自分たちにとって不都合なことを語る
この預言者を退けるためには、
彼の言葉が偽りであり、
彼の預言者という立場は真実なものではないと、
多くの人たちに認めさせてしまえば良いわけです。
アモスの権威を貶めれば良いのです。
イスラエルの人たちはおそらく、
不都合なことを語るこのアモスという人物の
預言者としての立場を疑問視しました。
だから、アモスはなぜ自分がこのようなことを語るのかを伝え、
自分の言葉にどうか耳を傾けてほしいと願い、
聴衆を説得するために、
3節から始まる一連の問いかけを
人びとに投げかけました。
アモスはここで、予め答えが想定されている、
修辞的疑問と呼ばれる手法を用いています。
当時の人たちの間で当たり前と認識されている例を用いて、
質問を投げかけ、アモスは聴衆の答えを引き出そうとしています。
当たり前だと思われていることを問いかけられているのですから、
当時の人たちにとって、答えは明らかでした。
アモスの問いかけの趣旨は、
何かが起こるその背後には理由がある、ということです。
試しに、最初の6つの質問に答えてみましょう。
ふたりの人が一緒に歩くのは、
その前にこのふたりの間で約束があったからです。
ライオンが吠えるのは、
獲物がいるからです。
ライオンが吠えるのは、
獲物を捕らえたからです。
鳥が網にかかるのは、
餌が仕掛けられていたからです。
仕掛けた罠が作動するのは、
獲物がその罠にかかったからです。
町で人々が恐れおののくのは、
戦いの合図である角笛の音が聞こえてきたからです。
アモスはそうやって、
繰り返し、繰り返し、聴衆の同意を求めます。
するとどうでしょうか。
アモスの言葉を聞いていた人たちは調子良く同意し始めます。
徐々に内容が不気味になっていくのが恐ろしいですね。
そして、やがてアモスの7つ目の問いかけを
認める方へと導かれていきます。
「町に災いが起こったら
それは主がなされたことではないか。」(7節)
そのとおり。
神が行動を起こしたから、
町に災いが起こる。
これって、実は、
イスラエルの人たちが反発していたであろうことです。
自分たちは選ばれた民だから、
神が災いをもたらすはずないと彼らは考えていました。
でも、もしも神がそう願って、行動を起こすならば、
もしかしたら自分たちにも災いが
神の裁きとして訪れるかもしれない。
アモスの問いかけは、
イスラエルの民にそんな気づきを与えようとするものです。
アモスは自分の立場を守り、
自分がイスラエルの民に語るその正当性を認めさせようとして、
必死に語ることなどしませんでした。
むしろ、神がわたしにこう伝えたから、
わたしはあなたたちにとって不都合なことを
どうしても伝えなきゃいけないんですと、
アモスは切実に、イスラエルの民に訴えました。
なぜ否定されてまで、抵抗されてまで、
アモスは預言者としての活動を続けたのでしょうか。
もしかしたら、アモスのこの一連の問いかけさえも、
失敗に終わったかもしれません。
それでも、アモスが切実に
イスラエルにとって不都合なことを
諦めずに語り続けたのは、
神と人との間に和解が必要だったからに他なりません。
アモスの厳しい言葉のその背後には、
イスラエルの民が神のもとへと立ち返ることを望む
預言者の姿があったと想像できます。
神と人との間に和解を求めたから、
どれだけ人びとの反感を買うとわかっていたとしても、
彼は不都合な言葉をイスラエルの民に語り続けました。
もちろん、アモスの取った方法は
現代人にとって効果的なものとは言えないと思います。
彼の言葉やその手法はあまりに挑発的過ぎます。
でも、重要なことは、
アモスが神と人との間に
和解を求め続けたことにあると思います。
わたしたち自身も神との間に和解が必要だから、
わたしたちは礼拝のはじめに罪の悔い改めの祈りを
毎週のように繰り返し祈っています。
同じように、この世界も神との間に和解が必要なのは明らかです。
どれほど、わたしたちの世界は、
神の思いを踏みじっていることでしょうか。
神が愛し、慈しんでいる、
この世界を、この世界に生きる隣人たちを
愛し、慈しむことが果たしてできているでしょうか。
これまで、人間は特別だと思い込み、
自然環境を搾取してきました。
自分たちの民族や人種は特別だと思い込み、
自分たちとは異なる人たちを排除し、虐げてきました。
多数派が少数派を差別してきました。
資源を求め、領土を求め、
何度も何度も侵略を繰り返してきました。
いいえ、それらのことは今も続いています。
この世界には課題があまりにも多すぎるように思えます。
きょうは新約聖書からパン種とからし種の話を開きました。
どちらも、最初の状態よりも大きくなります。
パン種はパンを大きく膨らまし、
からし種は、その種から想像できないほど成長します。
神の思いを踏みにじる私たちのこの世界も、
パン種やからし種のように
解決しなければいけない課題や人間の罪深さが
徐々に徐々に膨らみ続けているかのように感じます。
抱えている問題は違っていたとしても、
古代イスラエルの社会も、現代社会も変わりません。
だからこそ、アモスは預言者としての務めを果たそうとしました。
神と人との和解の実現を目指して、
人の不正や罪深さが膨らみ続けている
イスラエルの北王国の社会に向かって、
神の言葉を届けようとしました。
人の悪や不正義が正されて、
人の悪や不正義ではなく、
神の憐れみと慈しみこそが、
それに基づく隣人を愛する心や行いこそが、
イスラエルの社会で膨らんでいくことを願って、
アモスは語り続けました。
では、わたしたちはどうでしょうか?
もちろん、アモスの真似をして、
「神の裁きが来るぞ」と
脅してまわることなどすべきではありません。
恐怖は愛情を生み出しませんし、
恐怖による支配は、本当の救いなどもたらさないからです。
勘違いしてはいけないのは、
アモスがイスラエルの民に神の裁きを語る必要があったのは、
イスラエルの民が神によって救われるためではありません。
すでに神の民とされているイスラエルの民が、
神の民らしく生きるために、アモスは警告したのです。
驚いたことに、新約聖書で
キリストを信じ、キリストに従って生きようとする者は、
キリストの使者と呼ばれています。
ですから、預言者だけが特別なのではありません。
わたしたち一人ひとりも、
神からこの世界に遣わされています。
使者がするべきなのは、使徒パウロによれば、和解の務めです。
この世界で、人との間に、また神との間に
橋を渡し、平和を形作っていくことが使者の務めです。
私たちのひとつひとつの行いを通して、
神によって作られ、神に愛されているこの世界と
神と間に和解を作り上げることを神は願い、
神は、わたしたちをキリストの使者と呼んでいます。
直接的には関わりはないのかもしれないけども、
また、できることは小さなことかもしれないけれども、
私たちの日常の務めが、神と人との和解を手助けし、
人びとの間に和解をもたらすことへと繋がっていく。
そんな私たちの日常の務めが、
小さいけれど、大きな可能性に満ちた
種粒やパン種となるとわたしは信じています。
神の国は、小さな小さなからし種やパン種のようなものだからです。
この世界が神と和解に生きる日を私たちは諦めませんし、
その日を待ち望んでいます。
ですから、キリストにある平和と慈しみという種をもって、
わたしたちは信仰の旅を一緒に続けていきましょう。