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朗読箇所

四旬節第3主日

エレミヤ書1:4−10

◆エレミヤの召命
4 主の言葉がわたしに臨んだ。
5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。」
6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ
遣わそうとも、行って
わたしが命じることをすべて語れ。
8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて
必ず救い出す」と主は言われた。
9 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に
わたしの言葉を授ける。
10 見よ、今日、あなたに
諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
あるいは建て、植えるために。」


新約 ローマの信徒への手紙12:3−8

◆キリストにおける新しい生活
3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、
8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

説教

わたしにはそんな賜物はない、という人へ

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    わたしたちの教会は、
    ナザレン教会(Church of the Nazarene)という
    英国国教会から生まれた、
    メソジスト教会の系譜に属する、
    プロテスタント福音主義教会に所属しています。
    その立場をわたしたちは大切にし、
    また他の伝統に属する教会からも、
    同じキリスト教の一部分として尊重され、
    互いに認め合い、受け入れ合っています。
    その表れの一つが、
    日本で聖書を翻訳・出版している、
    日本聖書協会という組織に加盟していることです。
    カトリック、プロテスタントの多くの教派から、
    聖書協会に理事が派遣されています。
    理事長は理事の中から選挙で選ばれます。
    二年半ほど前にナザレン教会のわたしが、
    聖書協会理事長として選ばれました。
    ナザレン教会が多くの教派や伝統の人々から、
    キリスト教の教会として承認されている証です。
    教会の組織や礼拝のかたち、
    歴史や伝統は教派によって異なります。
    だからこそ相互に認め合うことが重要です。
    ナザレン教会は独自の在り方を持っています。
    他の教団教派とは異なっていますが、
    その違いを尊重し合いながら、
    互いに受け入れ合っています。
    ナザレン教会は自分たちの教会を、
    教会規則の中で定義してきました。
    しかし、もう十年以上前になりますが、
    ナザレン教会は教会の定義を少し変えました。
    かつては牧師か指導者のもとで、
    定期的に建物の中で集会を持つということが、
    教会と見なされるための定義でした。
    十数年前にどう変更したのでしょうか。
    「建物」という表現を取り除きました。
    牧師か指導者のもとで、
    定期的に集会を持っているなら、
    その群れは教会と見なすということです。
    その変更がなされたのには理由があります。
    おもにアフリカで急速に、
    キリスト教への改宗が進み、
    地域や部族によっては、
    建物は重要ではなく、
    あるいは建物は持たず、
    木の下や広場などで、
    定期的に集会や礼拝がおこなわれています。
    そこでナザレン教会は、
    教会の定義を見直し、
    変更することにしました。
    「建物」という表現を削除したのです。
    ですから、
    この木の下で定期的に集っていれば、
    そこに集う人々の群れは教会と定義されます。
    もちろんそれがアフリカの各地での現実だ、
    ということもあるでしょう。
    たしかに、小さな変更ではあります。
    しかし、この変更は、
    もっと根源的な意味を持っています。
    教会とは建物のことではなく、
    神の民の集会、
    つまり信仰者の群れだということですから。
    この定義の変更は、
    宗教改革者マルティン・ルターがかつて、
    力強く宣言した教会の意味そのものです。
    ルターは、教会とは石や木のことではなく、
    神の民の集会であり聖徒の交わりだと、
    明確に定義づけをしたのでした。
    さて、教会が聖徒の群れであるということは、
    教会は人間の集まりだということです。
    「聖徒の群れ」というとすばらしく聞こえます。
    しかし「人間の集まり」というと、
    とたんに俗物的なもののように響きます。
    たしかに、教会はキリスト者の集まりですが、
    キリスト者は聖人君子とは違うからです。
    教会にはいろいろな人が集まっています。
    銀座や赤坂には財界の名士や富裕層が、
    比較的多く集う教会があります。
    山谷やあいりん地区などには、
    ホームレスや日雇い労働者の教会があります。
    どちらも神の教会に違いありません。
    ふつうの住宅街や街中の教会でも、
    性格や考え方の違う人たちが混在しています。
    貧しい人も比較的豊かな人もいます。
    民族や人種の異なる人々が集っています。
    年齢や性別が違い、多数者と少数者が、
    教会にはいっしょに集っています。
    能力や才能に恵まれた人がいます。
    特にそうしたものは持ち合わせていないと感じる、
    大勢の人が教会にはいます。
    心身の健康状態や生きる環境も人それぞれです。
    世間では優れた人や才能のある人が重んじられ、
    社会的に高い地位の人や発言力のある人が、
    上級国民などという俗語で呼ばれたりします。
    しかし、教会はそうではないし、
    そうであってはなりません。
    それが経済力であれ社会的立場であれ、
    教会で発言力や支配力の強さとはならず、
    逆に、そうしたものを持たない人が、
    自分を低め、卑屈になる理由とはなりません。
    有能で指導力のある人が、
    教会で良い働きをすることは、
    感謝なことであり必要でもあります。
    だが、それが高ぶりの原因になったり、
    他の人を妬んだり自己卑下の理由になるなら、
    それは重大な問題です。
    自分はなにもできない、
    だめな存在だと思い込むことは、
    神の恵みを価値のないものにすることです。
    教会はだれもが軽んじられず、
    教会ではだれもが必要ないと言われず、
    皆が大切にされ必要とされています。
    わたしたちは、共に神の国を目指して、
    この世を旅する神の民です。
    その旅には目的地があり、
    旅の途上には果たすべき使命があります。
    きょうの聖書の箇所でパウロは、
    賜物の話をしています。
    それぞれに異なる賜物が与えられています。
    それは自分の名誉や名声のためではなく、
    人からの称賛や喝采のためでもなく、
    まして他の人が妬みを抱いたり、
    自分への落胆を抱かせるためでもありません。
    賜物は神の民の群れである教会が、
    共に神の国を目指して世を旅するために、
    神によって与えられている恵みです。
    教会が教会として世を旅するために必要な、
    なくてはならない、
    そして充分に用いなければならない、
    恵みの手段です。
    そこでわたしたちは賜物について、
    二つのことを心に留めておきたいと思います。
    第一に、賜物を与えられているのは、
    この世を神の教会として旅するために、
    それらの賜物が必要だからです。
    人それぞれに賜物は異なります。
    個人として考えるなら、
    この賜物、あの賜物はわたしにはない、
    と言わざるを得ません。
    しかし神の民の群れ全体としてみれば、
    必要な賜物はそこに充分に備えられています。
    賜物はしばしば、
    個人の能力や才能のことだと考えられています。
    英語で賜物のことを、
    タレントというのもその現れです。
    たしかに個人の能力や才能も、
    賜物であることは違いありません。
    ただ、それでは半分しか正解ではありません。
    なぜなら、賜物は、
    神の民全体が神の民らしく世を旅し、
    天の御国を共に目指すためのものだからです。
    パウロはきょうの箇所で、
    具体的な七つの賜物をあげています。
    預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善。
    最初に預言の賜物を挙げているのは、
    教会が神の御心に沿う歩みと働きをするため、
    何よりも必要な神の言葉だからです。
    わたしに預言の賜物があるかどうか、
    わたしは自分では言いづらいです。
    力強く「ある」といえる自負はないですが、
    ないわけではないと思います。
    しかし、もしわたしが、
    これはわたしの名声や評判を高めるものだ、
    そう思うとしたら、
    わたしは間違っています。
    少しでも預言の賜物があるとするなら、
    それは教会を導き、歩む道を示し、
    神の国を目指す旅を続けさせ、
    同時にこの世界に神の御心を表すよう、
    教会が用いられるようになるためだからです。
    パウロが具体的に挙げた七つの賜物は、
    これが賜物の全てだという意味ではありません。
    代表的な例を挙げていると考えるべきです。
    しかし、たしかなことが一つあります。
    挙げられている賜物は、
    どれ一つとして自分のためのものではなく、
    どれも皆、互いに用い合うことによって、
    教会の働きを続け、世に表すための、
    互恵的な恵みだということです。
    奉仕の賜物を持つ人は、
    その奉仕が神の民の群れ全体の奉仕となるよう、
    その務めに勤しむのです。
    教えの賜物を持つ人は、
    それが神の民の群れ全体の益となるよう、
    教えの務めに励みます。
    施しも慈善も、神の民の群れが存続し、
    恵みを世に分かちながら、
    群れが守られ旅を続けるためのものです。
    だから施しや慈善の賜物を与えられているなら、
    その務めに力を注ぎます。
    これらの賜物を与えられ、
    それらの賜物を充分に生かすことによって、
    教会はこの世において、
    特別な恵みの共同体として存続します。
    賜物について心に留めるべき第二のことは、
    賜物に優劣や上下はなく、
    すべてはキリストの体の部分だということです。
    パウロは代表的な賜物を七つ挙げるのですから、
    当然ここに言われていない賜物もあります。
    七つの賜物だけを見ると、
    ある人はこう言うかもしれません。
    「わたしにはそんな賜物はない」と。
    賜物のない人はいません。
    ここに挙げられた七つの賜物についても、
    わたしたちの中でいったい誰が、
    わたしにはそんな賜物はないと、
    断言できるでしょうか。
    貧しいやもめに施しの賜物はないように見えます。
    でも、そのやもめが神殿の募金箱に、
    レプトン銅貨二枚を入れるとき、
    彼女に施しの賜物はないと言えるでしょうか。
    小さな子どもがパキスタン洪水募金に、
    パパやママから託された十円を、
    募金箱に入れるとすれば、
    その子どもに慈善の賜物はないでしょうか。
    賜物は人によって異なるとパウロは言います。
    しかし、それは機械的な意味ではありません。
    機械の部品であれば、
    ある働きをする目的の部品は、
    その働きだけしかしません。
    ねじが一本はずれてしまったからといって、
    歯車がねじの役割を果たすことはありません。
    しかし、パウロは体の話をしています。
    しかも、キリストの体の話をしています。
    体は生きています。
    キリストの体は生きています。
    体は有機的に活動し、
    時に代替的に働きます。
    手を事故で失った人が、
    足で物を食べたりパソコンを操作します。
    体は柔軟で臨機応変です。
    一つの賜物だけしか機能しないことはなく、
    思いがけない賜物が目覚めることがあります。
    ある預言者は農民でした。
    しかし神の霊が働いたとき、
    その農民は預言者の役割を果たしました。
    預言は預言者しか語らないわけではなく、
    教えは教師の特権でもありません。
    幼い子どもがその存在をとおして、
    大人に神の恵みを実感させることがあります。
    死の時を迎えつつある人が、
    死に際にとても勇敢で、
    家族や信仰の友の導き手となります。
    知識や教育のない人が、
    神への全的な信頼を、
    身を以て教えることがあります。
    賜物は尊重されるべきですし、
    最大限用いられるべきです。
    しかし、賜物がキリストの体の部分であるなら、
    分を越えて思い上がることはしません。
    体はその末端に至るまでが、
    一つの体の部分です。
    すべての賜物が必要とされています。
    だれも、わたしに賜物はないとは言わず、
    だれもわたしの賜物は価値がないと言わず、
    だれも自分や他の人の賜物を比べず、
    高ぶらず、自己卑下しません。
    喜んでキリストの体の部分として生きます。
    わたしたちはキリストご自身によって、
    キリストの体の部分として愛されています。
    そのことをわきまえて、
    キリストのために自分がすべきこと、
    自分にできることをしながら歩みます。
    喜びを抱いて、感謝を献げながら、
    最後まで世の旅を続けてゆきましょう。


週報より

  • 2023.03.12 週報より抜粋・要約

  • ・ナザレン教会の年会が、
    3−5日に大阪で開催されました。
    新理事長には、
    教団事務主事の土肥努先生が選出されました。
    小山教会の牧師として
    稲葉基嗣先生が公式に発表されました。
    学・摂子両牧師は、
    「無任所」牧師となります。
    年会では会いたいと思っていた方たちと
    会うことができました。
    学牧師は神学校教授職を退任し、
    四月からは非常勤で教えます。
    なお、稲葉先生は四月から
    神学校で旧約聖書を教え始めます。

    ・きょうはティータイム後に
    月例教会役員会を開きます。
    旧・新役員による合同の会議ですので、
    よろしくお願いします。
    おもな議題は、役員会の引き継ぎと
    月例報告の承認、復活祭の予定、
    新年度からの予定、
    計画の確認その他です。
    両牧師のもとでの役員会は
    きょうが最後になります。

    ・あすは神学校新卒者のための
    エキュメニズム研修会があります。
    日本キリスト教協議会教育部主催の
    オンライン研修会で、
    学牧師が出席します。

    ・新年度からの
    教会で係を担当してくださる方を募集します。
    週報にはさんである
    申し込み用紙をご覧くださり、
    係を担当してくださる方は記入して、
    赤い屋根の箱に入れてください。
    毎年更新しますので、
    皆さま改めて申し込みをしてください。
    依頼が遅くなってしまいましたが、
    どうぞよろしくお願いします。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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