説教者 石田学 牧師
神が愛であり、あなたたちは神に愛されている、
ということでした。
使徒パウロもその教えの中心は、
神が愛のゆえにキリストを遣わされたことでした。
他の使徒たちもまったく同じです。
神が世界をお造りになったのは、
愛を神の外へと向けるためでした。
人間の創造も同じです。
神はご自分が愛する相手を求め、
また人から愛されることを求めました。
神の御子がイエスと名付けられた人となり、
この世に来られたのも、
神が人を見捨てずに愛して、
世と人々を救うためでした。
人は最初から神に愛される存在であり、
神は愛のゆえに、
人が罪のために神から離れてしまっても、
見捨てることをなさらず、
キリストをとおして救いの道を拓かれました。
神がまずわたしたちを愛してくださったこと、
わたしたちが神に愛されていることが、
神とわたしたちを結ぶきずなの基礎です。
神がわたしたちを愛してくださった、
だからわたしたちもそのように互いに愛し合う。
それが人と人とのきずなの基礎です。
教会は人間の集まりです。
しかし、ただの人間の集まりではありません。
キリストがそこに共におられる集まりです。
神の愛をきずなとして、
キリストとわたしたちが共に集う、
特別な関係を生きる共同体です。
神のわたしたちに対する愛がどれほど強いのか、
聖書はそのことを語ります。
神は独り子をお与えになるほどに、
世を愛されたと。
パウロも神の愛のきずながいかに強いかを、
ローマ8:38−39で高らかに宣言しました。
私は確信しています。
死も命も、天使も支配者も、
現在のものも将来のものも、
力あるものも、
高いものも深いものも、
他のどんな被造物も、
私たちの主キリストイエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできないのです。
神の愛に包まれている。
それが教会であり神の民にとっての事実であり、
それがわたしたちにとっての現実です。
神の愛に包まれている人は、
自分もまた神の愛を生きようと願います。
ここで大切なのは、
わたしたちが生きようと願う愛は、
わたしの考える愛ではなく、
わたしの都合に合わせた愛でもなく、
神の愛だということです。
神の愛を生きようと願うのなら、
自分の欲や利益が目的であってはなりません。
だからパウロはこう告げるのです。
愛には偽りがあってはなりません。
愛を仮面のように付けてはいても、
その下に愛とは別の何かが隠されていることを、
パウロは最初に警告します。
下心を隠していたり、
自分の利益を目的とした愛は、
神の愛とはまったく異なる自己愛です。
この世界が基礎としている原理は、
神の愛ではなく自己愛です。
どれほどこの世界が、
自分への愛を動機としていることか。
わたしたちはその事実を、
あらゆるところで見せられています。
神の愛はそうではありません。
欲や利益を背後に隠した自己愛ではなく、
神ご自身が、神の位から降り、
人となって世に来られ、
ご自分をわたしたちに与え、
命をも与えてくださった愛、
その神の愛に、わたしたちは包まれています。
わたしたちは今、
楽園の中で生きているわけではありません。
むしろ、この世の現実の中で、
信仰生活を営んでいます。
そういう現実の中にあって、
神の愛に包まれていて、
そのことを自覚している人は、
どのように生きるべきでしょうか。
またどのように生きることができるでしょうか。
パウロは神の愛に包まれている人、
つまり神の民の生き方を、
ここから具体的に指し示します。
最初にパウロはこう語ります。
悪を憎み、善と一つになりなさい。(直訳)
悪を憎むことは簡単です。
しかし、悪を憎むだけでは、
平和も和解も、愛も生み出されません。
悪を憎むだけで終われば、
憎しみだけが残り対立が高まるばかりです。
悪を憎むことと、
善と一つに結びついていることは切り離せません。
抽象的なように思われるこの最初の命令は、
キリストが基準となるものさしだと考えると、
わかりやすいのではないでしょうか。
キリストとは相容れない者は退け、
キリストと一致することを選んでゆく。
それがキリスト者に第一に求められる生き方です。
パウロは次に、人と人の関係を、
教会でどう生きるべきかを教えます。
兄弟愛をもって互いに深く愛しなさい。
「兄弟愛」と訳された語は「フィラデルフィア」。
性別、年齢、社会的地位、立場などを超えた、
同じ旅の仲間である同志への友愛が、
わたしたちの互いの関係を結ぶきずなです。
そして、こう加えます。
互いに相手を尊敬しなさい。
同じ教会の仲間を見下したり蔑んだりせず、
この人がいて嬉しいという思いを、
すべての人が互いに抱き合うことです。
次いでパウロはキリストとの関係を、
どのように生きるかを教えます。
わたしたちは荒野を旅する旅人です。
だから、用心し、注意深くあり、
心して主に従ってゆくことが必要です。
荒野は危険と誘惑に満ちた世界です。
キリストを信じる者は、
荒野を旅する旅人だからこそ、
パウロははっきりと命じたのでした。
怠らず励みなさい。
何を励むのでしょうか。
キリストに仕えることです。
そのためには何が必要でしょうか。
パウロの助言はこうです。
霊に燃えていなさい。
特別な精神状態になることや、
過剰な熱心さを求めているのではありません。
意気消沈してあきらめてしまうことや、
冷めた考えに陥らないようにとの警告です。
キリストを信じる者には、
神の聖なる霊が共にいてくださるからです。
主に仕えなさい。
これこそがわたしたちの生きる原則です。
主の働きに役立つかどうか、
少なくとも妨げにならないかどうか、
そのことを吟味することが重要です。
次いでパウロは、
わたしたちの心の在り方を三つ教えます。
望をもって喜びなさい。
わたしたちが神を信じて世を旅することは、
修行でも苦行でもなく、
いやいや強いられることでもなく、
何よりも喜びです。
主に仕えることができる喜びがあり、
旅の目的地を望み見る喜びがあることを、
わたしたちは覚えておきましょう。
「喜びなさい」という言葉は、
わたしたちの生涯を象徴する言葉です。
喜んで生きることができる。
それこそが、信仰者の特権です。
苦難に耐えなさい。
荒野を旅することは、
楽で快適な道行きではありません。
困難と試練がかならずあるので、
苦闘し、努力が必要なことがあります。
苦難を忍耐強く乗り越えて、
旅を続けてゆきましょう。
それができるのは、
最後の約束が確かだと知っているからです。
たゆまず祈りなさい。
パウロは最後に祈りを命じます。
いま思い通りになるのであれば、
祈りは不要です。
いまの現実が試練や誘惑に満ち、
信仰を揺るがせることがあるからこそ、
たゆまず祈ることが必要です。
わたしたちは、荒れ野を旅しています。
その事実を思い起こしていましょう。
しかし、この旅は同時に、
終わりの勝利が保証されている旅です。
わたしたちの行き着くところは約束の天の国。
そこに入るまで、
わたしたちの旅は守られています。
しかも、わたしたちは
ひとりぼっちで荒野を旅してはいません。
わたしたちは孤独な旅人ではなく、
聖霊によって一つにされた
神の民としての旅であり、
わたしたちは、
神の家族として共に生き、
共に愛しつつ、
この世を歩んでいるのです。
だから、わたしたちは
しっかりと荒野を踏みしめて、
この世の旅を続けましょう。
神の与えてくださる希望を抱いて。
その旅の途上で、
わたしたちがいつも心に留め、
心がけるべきことをパウロは告げます。
聖なる者たちに必要なものを分かち、
旅人をもてなすよう努めなさい。
わたしたちは思わず考えてしまうかもしれません。
「わたしには直接は関係がなさそうだ」と。
直訳した方が、わかりやすいでしょう。
聖なる者たちの欠乏を分かち合いなさい。
「聖なる者たち」とは、
クリスチャンのことを指しています。
聖なる神の民とされた者は、
その人の人徳や立派さによってではなく、
ただ神のものとされ、
神に属しているということのゆえに、
神の神聖さにあずかっていることのゆえに、
聖なる者(聖徒)なのです。
教会には、豊かな人から貧しい人まで、
いろいろな人が集っています。
この事実は、昔も今も変わりません。
むしろ、昔のパウロの時代には、
人々は圧倒的に貧しかったです。
財産のない奴隷も多くいました。
そのような教会に向かって、
聖なる者たちの欠乏を分かち合えと言うのです。
このパウロの言葉は、
注意深く考えなければいけません。
わたしたちは、施しは豊かな人のすること、
そのように考えてしまいます。
ところが、パウロは
「金持ちが豊かさを分かち合いなさい」
とは言いません。
「富を分かち合いなさい」ではなく
「欠乏を分かち合いなさい」なのです。
あるものを分かち合うことはわかります。
でも、無いものを分かち合うというのは、
どういうことでしょうか。
互いの欠乏を分かち合うということは、
あなたもない、わたしもないと、
いっしょに嘆くことではありません。
このパウロの命令を見ると、
これとは正反対の言葉として、
「貪欲」という言葉が思い浮かびます。
貪欲というのは、
自分のものを自分だけのものにして
人に分け与えようとせず、
なおかつ、他の人のものまで
自分のものにしようと欲しがることです。
その貪欲が、この世界を
不平等で争いの絶えない世界にしています。
たとえば、格差社会がそうです。
格差社会は、多く持つ人が
自分の持ち物を減らすことなく、
いっそう多く持つことができる、
そんな仕組みを作ったから生じました。
その世界では、
持つ者はいっそう多くを持つようになり、
持たない者は
今持っているものまで取り上げられます。
パウロはそういう世界を、
まず教会の中から変えなさいと命じたのです。
次いでパウロは難しい命令を与えます。
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。
祝福するのであって、呪ってはなりません。
繰り返し念を押してまでパウロが命じる言葉は、
なんと強烈な戒めであることでしょうか。
「迫害する者を祝福しなさい」。
「祝福するのであって、呪ってはなりません」。
この命令の背後には、反対の現実があります。
迫害する者を憎み、迫害者の破滅を祈り、
呪いを求める現実です。
その気持ちはわかります。
自分の名誉をおとしめ、投獄し、
拷問にかけ、財産を取り上げ、命を奪う。
そんなことをする人々を、
どうして赦したりできるでしょうか。
しかしパウロは、
「赦しなさい」という以上のことを命じます。
「祝福しなさい」と。
現実ばなれした、
ありえない命令のように思われます。
わたしたちはみんな、
自分の祝福を求めて教会に集っています。
「苦しみを取り除いてください」。
「今の問題をどうか解決してください」。
「病を癒してください」。
「平和と安らぎをお与えください」。
「恵みを与え、幸いな生活をお守りください」。
「天の国と永遠の命をお与えください」。
どれもわたしたちの切なる祈りであり願いです。
みんな自分の祝福を求めて教会に集っています。
それは大切なことです。
でも、それだけで終わるべきではありません。
自分が神に祝福されることだけを祈り求める時、
「わたしの祝福」というコインに、
裏面が付いてくるからです。
「わたしの祝福をおびやかす敵を
滅ぼしてください」という裏側が。
自分の幸いをおびやかす人を
神に呪うことになるのです。
敵を憎み、迫害者の破滅を喜ぶとしたら、
神の裁きを、神の代わりに
報復としておこなうことになるでしょう。
そのような生き方は
神の民の生き方ではありません。
しかし、クリスチャンであっても、
最も陥りやすい生き方です。
だから繰り返して「祝福を祈れ」と言い、
「呪ってはなりません」と念を押したのでした。
神の祝福を受けている神の民として、
わたしたちは世を旅しています。
しかし、神の祝福を受けて旅をするだけでは、
ほんとうは不十分です。
わたしたちは、神から受けた祝福を
人々に分かつ民として旅をすべきです。
わたしたちは神から平和を受けました。
だから、この世に平和を分かつべきです。
わたしたちは神から慰めを得ました。
だから、この世に慰めをもたらすべきです。
わたしたちは神から愛されています。
だから、この世で愛をおこなうべきです。
わたしたちは天の国の国籍を与えられました。
だから、この世で天の国の幸いを伝え、
人々に分かち合うべきです。
わたしたちは永遠の命の約束を受けています。
だから、この世で死が最後の勝利者ではない、
という事実を分かち合います。
わたしたちはどのような生き方をすべきか。
答えは明らかです。
わたしたちは神から受けた祝福を、
あらゆる人に分かつ民として生きます。
あらゆる人、その中には嫌な人も、
敵も、迫害者さえも含まれています。
あらゆる人に、迫害者にさえ、
祝福を分かつ民として召されたのですから、
わたしたちはこの世に出て行きましょう。
神の祝福を分かつ民として。
パウロは各地の教会で、
同じような問題に直面させられてきました。
それは、
キリストを信じることが自分だけのため、
自分の祝福や恵みのためだと思うことです。
多くの人が信仰をそのように理解し
そのような自分だけの祝福を求めました。
イエス様が人々に告げ知らせ、
パウロが教えたのは、
そんな信仰ではありませんでした。
神さまとの関係をどう生き、
人々との関係をどう生きるか。
そしてその関係をどう表しながら、
どう告げ知らせながら、
天の国を目指す旅人として、
この世に神の平和をもたらしながら、
世を旅するかということでした。
神の愛に包まれているのだから、
わたしたちは、
神と人を愛して生きてゆきます。