説教者 石田学 牧師
パウロはこの手紙において、
きょうの箇所に至るまでの全体をとおして、
キリストを信じるということの意味について、
詳しく教え、明らかにしてきました。
キリストをとおして罪を赦された人は、
いったい何から救われたのか。
キリストを信じた人は何者とされているのか。
キリストを我が主と受け入れた人は、
どのような確信を抱いて生きるのか。
そのことをはっきりと教える必要を、
パウロは強く感じていたのでした。
特にローマにいるキリスト者にとって、
こうした教えが必要でした。
キリスト者にとって神を信じるということが、
この世の一般的な考えとは違うことを、
ローマの信仰者に確信させたかったからです。
キリストを信じるということは、
キリストに属する者とされることであり、
キリストに属するということは、
罪の奴隷から解放され、
神の子とされることだと。
そしてそれはすべて、
信仰によってキリストと一つに結ばれている、
その事実に基づいています。
キリストとのきずなが、
キリストとの一体性が、
わたしたちの救いの根拠であり、
神の子とされていることの保証であり、
神の国を受け継ぐ約束を確信させてくれます。
パウロはこのキリストとのきずな、
キリストとの一体性を、
12章5節になって明確に表現します。
私たちも数は多いが、
キリストにあって一つの体であり、
一人一人が互いに部分なのです。
この確信を抱き、
この事実に基づいて生きるようになることが、
ローマのキリスト者にとって重要でした。
パウロは「一つの体になりなさい」
とは言いません。
「一つの体」であることを事実として告げます。
ローマのキリスト者の問題は、
この事実を自分たちの生き方と結び合わさず、
仲たがいし、互いに見下しあい、
心を一つにしていなかったことです。
要するに、人間社会では普通の現実を、
教会の現実にしてしまっていたのでした。
教会はこの世の現実と同じであってはならない。
それがパウロの確信することでした。
パウロはいま、ローマのキリスト者に対して、
一つの体、すなわち、
主キリストにある神の民として、
神の民らしく生きることを願っています。
そうでなければ、
教会はこの世の多くの集まりやサークルと、
いったいどこが違うと言うのでしょうか。
教会は神の国の現実を、
できる限りにおいて映し出すべきです。
もちろん教会は神の国そのものではありません。
この世に生きる人間の集まりですから。
しかし、この世の人間の集まりだけではない。
それが教会を教会らしく歩ませます。
だから、こう言い換えましょう。
教会はこの世の現実よりも、
少しでも神の国に近くあらねばならない。
そのことを告げ知らせ、
ローマの信仰者の生き方になることが、
この手紙をパウロが書いた目的の一つでした。
では、神の民は何者であり、
どのように生きるべきなのでしょうか。
神の民は、
身分や地位に基づいて集うのではなく、
社会階層で分け隔てされません。
神の民はこの世の何かを目的とはせず、
この世での利益や楽しみのために
神の民は集ってはいません。
神の民は神の国を目指して世を旅するために、
キリストをとおして
呼び集められた人々の群れです。
神の民はキリストと共に
荒れ野を旅する神の家族、
愛の交わりを生きる人々の共同体です。
神の民である教会は、
気の合う人たちが心地よくなる場ではなく、
楽しいから集う交わりでもありません。
互いのきずなはもっと強いからです。
共に神の国を目指して荒れ野を旅する、
同志であり一つの群れであり家族であり、
パウロによれば、
キリストにあって一つの体です。
パウロは「一人一人が互いに部分」と言います。
しかし、それは機械の部品とは違います。
レゴや積み木のワンピースとも違います。
「体」だということは、
都合や好みに応じて、
ばらけたり離れたりすることがありません。
だれもどの部分も粗末にされず、
見下されず、切り捨てられません。
一つの体であるということは、
好き嫌いや都合で、
集合離散したりはしません。
良い時も悪い時も、
同じ究極の目標、
行き着くべき所を目指して、
共に歩み、共に世を旅してゆきます。
そのような旅の仲間であり、
一つのキリストの体である共同体において、
一人一人はどのように生きるべきでしょうか。
そのことをパウロは、
わかりやすい具体的な言葉で、
ローマの信仰者に、
そして現代のわたしたちにも、
このように告げ知らせています。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
わたしも摂子も、この教会の牧者として、
これまで何度喜び、何度共に泣いたことか。
しかしパウロはこの命令を、
牧者に与えたのではありません。
一人一人に与えています。
荒れ野を旅しているのです。
当然、良い時もありますが、
悪い時もあります。
大勢が共に集い一つの群れなのですから、
ここに喜んでいる人がいて、
あそこには悲しんでいる人がいます。
喜ぶ人と悲しむ人が同時に同じ所にいて、
このパウロの命令は難しいように思います。
しかし、喜びを抱いている人が、
悲しんでいる人と共に泣き、
悲しんでいる人が喜んでいる人と共に喜ぶ。
無関心や放置や嫉妬や敵意を持ち込まずに、
共に喜び共に悲しむのは、
そうした体験の重なる荒れ野の旅の先に、
涙も死も悲しみも嘆きも痛みもない神の国が
終着点であることを知っているからです。
わたしたちは教会で、
互いをわたしの兄弟、姉妹と呼び、
神の家族と考えます。
そのことを真に実感するのは、
兄弟と呼ばれ、姉妹と口にされる以上に、
言葉で神の家族と言われる以上に、
心のつながりをとおしてです。
いっしょに喜んでくれる時、
いっしょに泣いてくれるとき、
わたしたちの魂は、
一つにつながります。
わたしは孤独ではないと実感する時です。
ましてそのつながりが、
キリストとのつながりに基づくのなら、
神の国にまで引き継がれるきずなです。
わたしたちは互いに、
そうした永遠のきずなを生きています。
続けてパウロは、
「互いに思いを一つにしなさい」と命じます。
思いを一つにするとは、
考えや気持ちを同じにすることとは違います。
同じ思想、同じ精神を持てということではなく、
自分たちが究極に目指すのは、
同じ目標、同じ約束の地であることを、
いつも心に留めておくことです。
そのような意味で思いを一つにしていなければ、
共に荒れ野を旅する群れは、
いつしか分裂し散り散りになり、
やがて消滅することでしょう。
神の国を目指して世を旅する、
そのことにおける思いの一致を、
パウロは教えるのです。
次にパウロはこう命じます。
高ぶらず、身分の低い人と交わりなさい。
パウロの時代、教会には奴隷がいました。
大勢ではないが上流階級もいました。
奴隷と奴隷の主人が兄弟・姉妹であると、
心から思えるようになるのは難しいです。
直接一対一ではありえません。
キリストを介してしかできないことです。
キリストの兄弟、キリストの姉妹。
互いにキリストとの関係において対等。
そのことを理解してはじめて可能です。
階級社会という世の現実は厳然としてあります。
その現実を教会の現実にしないため、
パウロはもっとも現実的な具体策を示します。
世の中で身分の高い人、上流階級の人の方が、
高ぶることをしないで、
身分の低い人と交わりなさいと勧告します。
奴隷に、身分の高い人と対等に振る舞え、
と命じてもほとんど不可能だったことでしょう。
逆だけが現実的にあり得ることでした。
「身分の低い人と交わりなさい」。
日本語聖書はそのように訳しますが、
「卑しい仕事をいっしょにしなさい」
と訳すことも可能です。
たぶん、こちらの方がパウロの真意でしょうか。
同じ労働をいっしょにすることが、
人と人をいっそう結び付けますから。
続く命令は、各地の教会でも問題でした。
自分を賢い者と思ってはなりません。
身分や地位とは別の意味で、
高ぶってはならないという命令の続きです。
教会にはいばる人がいて、
他の人たちを見下す現実がありました。
現実の世界では、
いろいろなことが格差や差別を生みます。
教会はそうした世の現実を、
教会に持ち込まず、乗り越えます。
信仰に基づく神の民としての尊厳を、
無条件に認め合うからです。
最後にパウロは、
キリストの体として生きるうえで、
最も重要で、困難な在り方を告げます。
教会は神の民として世を旅しています。
それはキリストの体として生きることです。
このことが何を意味するかは明らかです。
わたしたちはキリストを世に表すのです。
キリストの平和、キリストの憐れみ、
キリストの正義、キリストの愛。
教会は最初からキリストの体として、
キリストを世に表してきました。
だから異質な人とみなされ、
変な人たちと噂され、
世の風潮に合わせない厄介者と思われ、
国家や皇帝を神とあがめない、
不敬虔な連中と思われました。
戦争の時代に平和を求めました。
それが迫害の原因でした。
敵意を向け、悪を仕掛ける人がいました。
特に重大な苦しみや痛みを与える人たちに、
どのように向き合い、対応すべきでしょうか。
目には目を、悪には悪を、暴力には暴力を、
災いには報復をすべきでしょうか。
もしキリストの体である信仰者がそうするなら、
もっともキリストから離れ、
キリストとではなく世と一体化することです。
悪に悪をもって報いることをしないだけでも、
強いキリストとのきずなへの信仰が必要です。
しかしパウロは、それ以上のことを言うのです。
あまりに重要なことなので、
パウロは最初と最後に言葉を少し変えて、
同じ命令を告げます。
17節でこう語ります。
誰にも悪をもって悪に報いることなく、
すべての人の前で
善を行うよう心がけなさい。
21節でこう命じます。
悪に負けることなく、
善をもって悪に勝ちなさい。
なぜそんなことが可能なのでしょうか。
キリスト者はただの人間です。
聖人君子ではありません。
おこなわれた悪、振るわれた暴力に対して、
報復の感情が起きないでしょうか。
いや、怒りと報復への切なる願望は、
信仰者にとっても現実です。
実際、旧約聖書の詩編のうち、
かなりの数の詩編が報復を願う詩です。
それら報復の詩編は、
多くがとても過激で、
激しい報復への言葉で祈りが献げられます。
しかし、それらの詩編はどれも、
神が報復してくださいと祈りはしても、
神に対して、
わたしに報復させてください
とは祈っていません。
結局、激しい嘆きと悲しみと怒りを、
ありのままに神に投げかけ、
神に訴え、神に呼びかけ、
最後に神の手に委ねることで、
自分での報復を放棄するのです。
この問題をめぐって、
わたしは長く思索してきました。
パウロはここで、
申命記32:35から引用し、
パウロの義論の根拠としています。
復讐は私のすること。私が報復する。
しかし、パウロはこの言葉を根拠としつつ、
このように勧告します。
愛する人たち、自分で復讐せず、
神の怒りに任せなさい。
パウロは神の復讐に任せなさいと告げません。
神の怒りに任せなさいです。
仕返しを神に期待するのではなく、
神の裁きに委ねることを命じるのです。
では、人間のわたしたちの側は、
どうすべきでしょうか。
神に委ねて後は忘れるのでしょうか。
いいえ。
パウロはそれ以上のことを言います。
あなたの的が飢えていたら食べさせ、
渇いていたら飲ませよ。
とうていそのようなことはできない。
そう思わざるを得ない信仰者に対して、
パウロは箴言25章から引用して、
少し気持ちを和らげる道を示します。
そうすれば、燃える炭火を
彼の頭に積むことになる。
しかし、それもまた信仰者のすることではなく、
神のなさることであり、
信仰者は自らの生き方をこう定めるべきです。
悪に負けることなく、
善をもって悪に勝ちなさい。
結局、わたしたちキリストを信じる神の民は、
キリストの体の部分として、
キリストを世に表して生きるのであり、
それは神の喜ぶ善を願い、
善をできるだけ生きようとしながら、
天の御国を目指して、
この世の旅をしっかりと、
兄弟姉妹と共に歩んでゆくのです。
それが皆さまのこれからの歩みとなりますように。