説教者 稲葉基嗣 牧師
ダビデの子にホサナ。
祭りの時期になると歌われていた詩編の一節である、
「どうか救ってください」という意味の言葉を
繰り返し、繰り返し、歌いながら、
ある集団がエルサレムの都にやって来ました。
その集団は自分たちの服や木の枝を道に敷いて、
ろばに乗っているイエスさまが
エルサレムに訪れることを歓迎しました。
想像してみると、風変わりなというか、
ちょっとおかしな入場の仕方だなと感じますね。
けれど、旧約聖書をよく知るユダヤの人たちにとって、
イエスさまがエルサレムに入場するこの出来事に
どのような意味があったのかを
マタイは旧約聖書のゼカリヤ書に記されている言葉を
引用することによって説明しています。
マタイがこの出来事について伝えたかったことは、こうです。
まことの王がエルサレムにやって来た。
その王は柔和な王。
つまり、謙遜で、神の思いに忠実に従う王です。
ろばに乗ってエルサレムにやって来た
イエス・キリストこそが、その王です。
たしかに、それが本当ならば嬉しい出来事のはずです。
ユダヤの人びとは、またダビデのような王が現れないかと、
理想の王を、理想の指導者を心待ちにしていたのですから。
ガリラヤの方からイエスさまと一緒に来た人たちは、
イエスさまにそんな期待をしながら、
イエスさまと一緒にエルサレムにやって来たのでしょう。
ダビデの子にホサナ、と歌いながら。
では、この集団が向かって行ったその先にある
エルサレムの都の人たちはどうだったでしょうか。
まことの王として紹介されているイエスさまを
エルサレムの人びとはどのように受け入れたのでしょうか。
マタイは、都中の人びとが騒いだと記録しています。
一緒になって騒いだということでしょうか。
イエスという人物が、
一体どういう人なのかわからないけども、
ガリラヤから来たこの集団から祭り上げられている
この人に期待して、噂が広まり、
エルサレムの人びとが騒ぎ出したということなのでしょうか。
そんな期待や喜びに満ちた噂話によって、
都中が騒いだということなのでしょうか。
そうであったら良かったのですが、
むしろ、エルサレムの人びとの反応は、
イエスさまを取り囲んで喜んでいた人たちとは
正反対のものでした。
不安で、心が揺れ動く、そんな状態でした。
というのも、ここで「騒いだ」と訳されているギリシア語の単語は、
地震の揺れを表す言葉だからです。
マタイはこの単語の名詞形を
ガリラヤ湖で舟に乗ったイエスさまと弟子たちが
嵐にあった場面で使っています。
マタイは、あのときガリラヤ湖で舟を襲った大きな嵐を
地震のようなものとして表現しました。
イエスさまの訪れは、エルサレムの人びとにとって、
地を揺らすような、地鳴りのような、
嵐のような出来事でした。
普段は揺らぐことのない大地が、
自分の足で立つことができないほどに、
身の危険を感じるほどに揺れる。
イエスさまが来たということは、
あらゆるものを揺るがすような出来事だった。
マタイが伝えたいことは、そういうことです。
果たしてイエスさまは
そのような大きな騒動を
起こすような人物だったのでしょうか。
たしかに、イエスさまは王として描かれていますから、
政治的な騒動や混乱が起こりそうと思うかもしれません。
イエスさまこそが王だと言うことは、
他の権力の存在を否定することにもなりかねないのですから。
けれど、暴力的な、軍事的な支配者である王として、
イエスさまは描かれていません。
すでにある権力を力づくで奪っていくような存在として
イエスさまは描かれていません。
だって、イエスさまは馬ではなく、
ろばに乗っているんですから。
もしも馬に乗っていたならば、
軍事的な、暴力的な存在として、
当時の人たちから理解されたことでしょう。
馬は戦いの際に用いられた動物だからです。
けれども、ろばに乗った行進は、平和的なものでした。
実際、さきほど開いた旧約聖書の列王記に記されている物語でも、
イスラエルの新しい王となったソロモン王は
ろばに乗って行進をしています。
それは、軍事目的の行進ではなく、
新しい王の誕生を喜ぶ平和的な行進だったからです。
ですから、ろばに乗るイエスさまの行進も
好戦的なものというよりは、
平和的なものとして理解することができます。
それなのに、なぜイエスさまのエルサレム入場に対して、
エルサレムの人びとは騒いだのでしょうか。
なぜ彼らの心は揺れ動き、
地鳴りのように大きな騒ぎが
エルサレムの都で起こったというのでしょうか。
このことに関して、
ソロモン王が新しい王となった時の物語が、
きっと、わたしたちの理解を助けてくれるでしょう。
ソロモンが王となったその日、民の喜びの声で、
「地はそのどよめきで裂けんばかりであった」と記されています。
ダビデの後継者である、新しい王さまの誕生に対して、
イスラエルの人びとが抱いた喜びの大きさを、
この「大地が裂ける」という表現から知ることができます。
でも、旧約聖書に記されている、
イスラエルの国の歴史を知るとき、
「大地が裂ける」という言葉を著者が選んだその背後に、
別の意味が見えてくると思うのです。
国中の人たちから喜ばれたソロモン王の誕生ですが、
彼の死後、イスラエルの国は南北に引き裂かれます。
ソロモンの時代に人びとが感じていた不満や怒りが、
ソロモンの死後に噴き出して、
国はふたつに裂けてしまったのです。
そのような歴史を踏まえて
「大地が裂ける」という言葉を聞くならば、
イスラエルという国が、
北と南に引き裂かれることを予期する言葉として、
列王記の著者は「地はそのどよめきで裂けんばかりであった」
と記していることがわかるでしょう。
これと同じように、
イエスさまがエルサレムに入場した出来事も、
イエスさまを通して、これから起こる出来事を予期するものとして、
マタイによって意図的に描かれているように思えます。
「都中が揺れ動いた」と。
もちろん、イエスさまが原因で
エルサレムで深刻な分裂が起こり、
都がふたつに引き裂かれたわけではありません。
しかし、イエスさまは、エルサレムの都中を
大きな地震のように揺れ動かしました。
マタイはきっと、エルサレムの人たちが騒いだのは、
イエスさまがエルサレムに入場した
この出来事のみについてだけではないと
考えているのでしょう。
この地震のような揺れは、
イエスさまを中心に徐々に徐々に
エルサレムの中で大きくなっていきました。
なぜって?
イエスさまは無抵抗なのに、
逮捕され、人びとの暴力に晒されました。
イエスさまは罪がないのに、
ムチを打たれて、
十字架にかけられて殺されました。
イエスさまに対する不安や、動揺や、妬みが、
イエスさまを殺す方へと人々を駆り立てました。
ろばに乗ってへりくだって現れた
平和の王を誰も認めたくありませんでした。
でも、それだけでは、
エルサレムの都の揺れなど、
大したことではなかったと思います。
このような出来事で揺れ動いたのは、
むしろイエスさまに熱心に従っていた人たちや、
イエスさまを取り囲み、
ダビデの子にホサナと歌っていた人たちでしょう。
エルサレムの都の多くの人たちは、
所詮、自分をメシアだとか、
王だとかと言って偽る人が裁かれて、
神からも、人からも見捨てられて
殺されたに過ぎないと受け止めたことでしょう。
それはほんの小さな地震の揺れに過ぎないように思えました。
でも、このエルサレムの都中はその後、
たしかに揺れました。
地震によってではありません。
この揺れが更に大きくなったのは、
イエスさまが十字架にかけられて、
命を落としたその後です。
イエスさまが復活したと触れ回る人たちがいたからです。
何人もの弟子たちがイエスさまと出会い、
イエスさまの話がエルサレムの都中に広がっていきました。
イエスさまの受難と復活の出来事を聞いたことを通して、
エルサレムの都中は騒ぎ、揺れ動きました。
わたしたちは次の日曜日に、この騒ぎの原因となった、
イエスさまの復活を一緒にお祝いします。
この揺れは、イエスさまが
エルサレムに訪れたときから始まり、
徐々に徐々に大きくなり、
徐々に徐々にエルサレム中に、
そして世界中に広がっていきました。
ある人たちは、不安を覚えました。
イエスさまを救い主や、神の子として受け入れることで、
何かが変わってしまうかもしれないからです。
これまで信じて、疑わなかった考えを
変えていく必要があるかもしれないからです。
ある人たちは動揺しました。
一度イエスさまを拒絶してしまったのですから、
イエスさまを通して、
神が救いの手を差し伸べているだなんて、
まして、イエスが神の子だなんて、
信じがたく、受け入れ難いことでした。
ある人たちは驚きました。
イエスさまが神の子であったとわかったからです。
ある人たちは喜び、感動を覚えました。
イエスさまを通して、
神の愛が示されている、と知ったからです。
ご自分の愛するひとり子を十字架にかけるほどに、
私たちひとりひとりを
神が愛しておられることを
イエスさまを通して知ったからです。
そんな風に、イエスさまを通して、
神の愛はエルサレム中の人々を揺らしました。
そんなの昔の話だって?
いいえ。
神の愛は、今も私たちを揺さぶります。
揺さぶり続けています。
神に愛され、憐れみを受けていることを通して、
私たちは愛すること、憐れむことを学びます。
概念を学び、意味を知るのではありません。
神の愛は挑戦的です。
自分を愛するように、他者を愛すようにと迫ります。
自分の利益のために、他人を利用するんじゃなくて、
目の前の人の心が、人生が、豊かになることを願って、
目の前の人を愛するようにと、
神の愛は私たちに迫ってきます。
もちろん、そのままでいる方が、
今のままでいる方が
生き方を変えない方がはるかに楽です。
でも、神の愛や憐れみに触れる時、
愛や憐れみが呼び起こされてしまう。
私の心が、揺れ動いてしまう。
愛や憐れみが呼び起こされてしまう。
正義のため、平和のための行動へと促されてしまう。
自分のためでなく、苦しみ、悲しんでいる誰かのために生きる
そんな生き方へと招かれてしまう。
そうやって、イエスさまを通して、
神はこの地を、私たち一人一人を揺らし続けています。
その揺れは、エルサレムから始まりました。
そして、時代を越え、文化を越え、海を越えて、
私たちのもとにこの揺れは届いています。
でも、その一方で、決して揺れ動くことのないものを
神はわたしたちに与えてくださいました。
天のみ国です。
決して揺れ動くことのない天の国を私たちに与えるために、
イエスさまは十字架にかかり、
死者の中からよみがえり、
私たちに愛を示してくださいました。
私たちを動揺させ、
揺り動かすほどの愛を注ぐことを通して、
決して揺るがない天の御国を
神は私たちに与えてくださいました。
決して揺るがない天を目指して、
この世界の様々なことに揺らされながら、
時には神の愛に揺り動かされながら、歩んでいく。
それが主キリストにあって、
この世の旅を歩む私たちです。