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朗読箇所

復活の主日

ダニエル書10:5−6


5 目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。
6 体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。

新約 マタイによる福音書28:1−10

◆復活する
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

説教

揺れる信仰、揺るがぬ神の愛

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    人はなぜお墓の前に立つのでしょうか。
    きっと愛する人を思い起こすためにでしょう。
    でも、愛する人が亡くなった直後だとしたら、
    お墓の前に立つことは悲しみや嘆きが
    わたしたちの心の多くを占めることになるでしょう。
    現実を受け入れられない気持ちにさえなるでしょう。
    どうしようも出来ない感情が渦巻くことでしょう。
    お墓の前に立つことさえ出来ないこともあるかもしれません。
    それを思うとき、
    きょう開いた福音書の物語に登場する女性たちは、
    どれほどの悲しみを抱いていたことでしょうか。
    というのも、この出来事が起こったのは、
    イエスさまが十字架にかけられ、
    十字架の上で息を引き取ってから
    3日目の出来事だったからです。

    ここで登場する女性たちが
    大きな悲しみや嘆きを抱えて
    お墓の前に立っていたことは間違いありません。
    マタイがその場にいたと記録しているのは、
    マグダラのマリアともう一人のマリアでした。
    このふたりは、イエスさまが十字架の上で息を引き取ったときも、
    イエスさまの身体がお墓に葬られるときもそばにいました。
    彼女たちがイエスさまのことを
    とても慕っていたであろうことがよくわかります。
    新約聖書に残されている数少ない情報によれば、
    マグダラのマリアは、
    イエスさまによって病を癒やされ、
    他の弟子たちと同じように、
    イエスさまと一緒に町や村をめぐって旅をした女性です。
    もうひとりのマリアと呼ばれる人物は、
    マタイ福音書の27章で
    「ヤコブとヨセフの母マリア」と紹介されているので、
    イエスさまの母マリアである可能性があります。
    そうであるならば、
    自分の息子の死と葬りを彼女は見届けていたことになります。
    自分の子の死刑とその葬りを間近で見るなんて、
    正直、想像もしたくないですし、
    マリアの気持ちを思うと、とても心が痛くなります。
    いずれにせよ、イエスさまの葬りの時や
    イエスさまのお墓のもとに、
    最終的にはふたりの女性たちしか残らなかったことを通して、
    どれほど多くの人たちが失望し、
    落胆していたかがわかるでしょう。
    イエスさまを「先生」と呼んで、
    慕い、一緒についてきた弟子たちは
    一体どこへ行ってしまったのでしょうか。
    ほんの一週間ほど前に、
    イエスさまがエルサレムに入場するときに聞こえてきた、
    群衆のあの喜びに満ちた歓声は一体何だったのでしょうか。
    イエスさまをまことの王、待ち望んでいたメシアだと
    祭り上げていたあの人たちは、
    一体どこへ行ってしまったのでしょうか。
    イエスさまの墓の前に
    ふたりの女性たちが立っています。
    その場にいない多くの人たちの失望と落胆が
    この場面に表れているかのようです。
    これまでイエスさまと一緒に歩んできた多くの人たちが
    イエスさまの死を通して、
    動揺し、失望し、離れていきました。
    逮捕され、十字架にかけられて死んだ
    犯罪者の仲間と自分がみなされることを恐れて、
    彼らは逃げていきました。
    自分たちが信頼してきた人が死んでしまった。
    神が選んだメシアだと思った方が死んでしまった。
    ああ、一体神はどこにいるのか。
    そんなふうに、信仰が揺さぶられたようにも想像します。

    復活祭の朝、きょう、
    わたしがみなさんと一緒に喜びたいことは、
    それでも神は、イエスさまのもとから離れていった
    あの多くの人たちを見捨てなかったことです。
    マタイは、イエスさまの復活の日の朝に起こった出来事に、
    神が深く関わっておられたことを示しています。
    神の使いである天使が
    イエスさまが葬られたお墓に訪れました。
    そして、お墓の石を転がして、お墓を開けました。
    この天使の姿は、稲妻のように輝き、
    衣は雪のように白かったと描かれています。
    さきほど開いたダニエル書で描かれている神の姿を意識して
    マタイは天使の姿を描いているのでしょう。
    天使のその背後に、
    たしかに神がおられることを明らかにするために。

    ただ、天使が現れたのは、
    イエスさまが復活するその瞬間を
    この女性たちや墓を見張る人たちに
    見せるためではありませんでした。
    また、復活したイエスさまを
    直接見せるためでもありませんでした。
    むしろ、イエスの身体がお墓の中にないことを
    この女性たちに見せるために、天使は現れました。
    彼女たちが悲しんでいるそのとき、
    何も見えず、何もわからなかったけれども、
    既に、確実に、神がその背後で働いていたことを
    空の墓を見せることを通して、
    天使は彼女たちに伝えました。
    イエスさまの死を通して、
    彼女たちの心は揺れ動いていました。
    彼女たちの信仰は揺さぶられていたことでしょう。
    でも、神の愛は変わりませんでした。
    神の愛は揺るがないものでした。
    お墓の中にイエスさまの身体がなかったからです。
    イエスさまが復活されたから、身体がなかったのです。
    新約聖書はいつもここで受動態を用いています。
    つまり、イエスさまは復活させられました。
    誰によって?
    神によってです。
    神によって、その身体を起こされました。

    それは幻想ではありませんでした。
    思い込みでもありませんでした。
    たしかに、彼女たちはその後、
    復活したイエスさまに出会いました。
    神の憐れみによって、命を与えられたイエスさまに、
    彼女たちは出会いました。
    神の愛が揺るがないことを
    復活の祭の日は、イエスさまの復活を通して、
    わたしたちに力強く証言しています。

    もしもイエスさまが復活しなかったならば、
    神の子が十字架刑という暴力の前に
    完全に屈したことになったでしょう。
    もしも神の子が復活しなかったならば、
    誰も死の先に復活を望み見ることなどできませんでした。
    もしもキリストがよみがえらなかったならば、
    わたしたちの旅の目標は、
    この地上の生活で、できる限り満足することのみです。
    そうであるならば、
    身体が衰えていく時、
    地の塵へと帰って行く時、
    それは悲しみでしかありません。
    結局、得たものを何もかもすべて失って、
    最後は一人で、孤独のうちに、生涯を終えるのですから。

    でも、神の子であるイエス・キリストは復活されました。
    主はよみがえられた!
    わたしたちに喜びと希望を与える合言葉です。
    イエスさまが復活したから、
    暴力や死の力が永遠の勝利者ではないことを
    わたしたちは知っています。
    この世界にはびこる暴力も最後には終わりを迎え、
    神が平和と解放をもたらし、
    死と暴力で蹂躙されるこの世界に
    新しい命の息を吹き付けることを
    わたしたちは希望として抱き、そして信じています。
    イエスさまを復活させた、
    神の愛は揺るがないものだからです。
    神の子が復活したから、
    わたしたちは死の先に復活を望み見ています。
    この地上における旅の先に、天の御国があることを知っています。
    そこで愛する人たちと再び出会い、
    わたしたちがこの地上の歩みで
    失ってしまった彼らとの関係がまた回復することを
    わたしたちは強く強く望んでいます。
    それはやがて来る、確かな喜びの時です。
    神の子が復活したのだから!
    そして、キリストがよみがえったから、
    わたしたちは信仰の旅の最終目標を
    この世界のものに限定しません。
    この地上でどれだけ失っても、
    どれだけ喜びを得られなかったとしても、
    どれだけ悲しみ、苦しみを覚えたとしても、
    最後には、神のもとに喜びがあると知っているからです。

    だから、天使とイエスさまが女性たちに
    向かって力強く宣言した言葉は、
    わたしたちにとっても大きな意味のあるものだと思います。
    天使とイエスさまは言いました。
    恐れることはない。
    なんと慰めに満ちた言葉でしょうか。
    わたしたちは、日々、恐れています。
    毎日、動揺しています。
    全く先の見えない、
    何の保証もない未来に恐れています。
    誰かとの関係の中で恐れを覚えます。
    死や暴力が隣り合っています。
    だから、わたしはたくさん揺れる。
    揺れ動く。動揺する。そして、恐れる。

    でも、復活の主であるイエスさまが、
    わたしたちのそばに立って、
    恐れるなと語りかけてくださる。
    復活の主であるイエスさまが、
    わたしたちの旅を一緒に歩んでくださって、
    恐れるなと語りかけてくださる。
    わたしたちが恐れを感じてしまう場所で、
    わたしたちが無力で、何もできない、無防備な場所で、
    イエスさまはわたしと出会ってくださる。
    死によっても、暴力によっても、
    わたしたちから奪うことができない、
    決して揺るがない神の愛が
    イエスさまを通して、
    わたしたちに注がれています。
    わたしたちの生涯の歩みにおいて、
    わたしたちの足元がおぼつかない、
    危なげな一歩一歩において、
    神の揺るがない愛は注がれています。
    わたしたちは大きく揺れ動くかもしれない。
    けれど、神は決して揺るがず、
    わたしたちに愛を注ぎ続けてくださっている。
    これが、わたしたちの人生を強く包み込んでいる希望です。

週報より

  • 2023.04.09 週報より抜粋・要約

  • ① 復活祭(イースター)おめでとうございます。
    礼拝の後に持ち寄りの昼食会をおこないます。
    どなたでもぜひご参加ください。
    交わりの時間を過ごした持った後、有志の方々で墓参にまいります。

    ② イースター献金にご協力ください。
    世界宣教とキリスト教団体への募金、教会の働きに用います。
    受付テーブルに献金袋がありますので、ご利用ください。

    ③ 来週の礼拝後、ティータイムの後にモレノ編集会を開きます。
    モレノ・チームのみなさまはよろしくお願いします。
    寄稿や写真の投稿は大歓迎です(moreno.oyama@gmail.com)。

    ④ あすは神学校の始業礼拝です。
    始業礼拝の後に、地区の牧師会と神学校教授会が開かれます。
    神学校の授業は今週金曜日から始まります。
    基嗣牧師が旧約聖書関連の講座を担当します。

    ⑤ 牧師就任式の日程が5月14日に決まりました。
    基嗣牧師の就任式の司式と礼拝での説教を
    日本ナザレン教団新理事長の土肥努先生が引き受けてくださいました。
    みなさま、どうぞご予定ください。

    ⑥ 牧師交代に伴い、教会のメールアドレスが変わりました。
    新しいメールアドレスは oyamanazarene@gmail.com です。
    土曜日に週報メールの送付を希望される方は、
    上記アドレスにメールをいただければ週報メールをお送りします。

    ⑦ 礼拝係を募集しています。
    イベント・モレノ・アッシャーに協力してくださる方が
    もう少しいてくださると助かります。
    礼拝の係は、いつから入っても、いつ抜けても大丈夫です。
    ご協力いただける方は、4月中に申込みをよろしくお願いします。



    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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