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朗読箇所

復活節第5主日

旧約 アモス書 4:4-13

◆かたくななイスラエル
4 ベテルに行って罪を犯し
ギルガルに行って罪を重ねよ。朝ごとにいけにえを携え
三日目には十分の一税を納めるがよい。
5 感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼け。大声で、随意の献げ物をする、と触れ回れ。イスラエルの人々よ
それがお前たちの好んでいることだと
主なる神は言われる。
6 だから、わたしもお前たちのすべての町で
歯を清く保たせ
どの居住地でもパンを欠乏させた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと
主は言われる。
7 また、刈り入れにはまだ三月もあったのに
わたしはお前たちに雨を拒んだ。ある町には雨を降らせ
ほかの町には雨を降らせなかった。ある畑には雨が降ったが
雨のない畑は枯れてしまった。
8 二つ三つの町が水を飲むために
一つの町によろめいて行ったが
渇きはいやされなかった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと
主は言われる。
9 わたしはお前たちを黒穂病と赤さび病で撃ち
お前たちの園とぶどう畑を枯れさせた。また、いちじくとオリーブの木は
いなごが食い荒らした。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと
主は言われる。
10 かつて、エジプトを襲った疫病を
わたしはお前たちに送り
お前たちのえり抜きの兵士と
誇りとする軍馬とを剣で殺した。わたしは陣営に悪臭を立ち上らせ
鼻をつかせた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと
主は言われる。
11 かつて、神がソドムとゴモラを覆したように
わたしはお前たちを覆した。お前たちは炎の中から取り出された
燃えさしのようになった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと
主は言われる。
12 それゆえ、イスラエルよ
わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに
イスラエルよ
お前は自分の神と出会う備えをせよ。
13 見よ、神は山々を造り
風を創造し
その計画を人に告げ
暗闇を変えて曙とし
地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主。


新約 コリント信徒への手紙二 3:7-18


7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、
8 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。
9 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。
10 そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。
11 なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
12 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、
13 モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。
14 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
15 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

説教

それでも、神は出会いを求めている

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    毎週日曜日の礼拝のはじめに、
    教会に集まってきたみなさんを
    わたしは礼拝へと招くようにしています。
    共に神を礼拝しましょう、と。
    このような礼拝への呼びかけは、
    古代イスラエルの中にも伝統としてありました。
    たとえばきょう一緒に交読した詩編100篇には、
    「全地よ、主に向かって
    喜びの声を上げよ」(1節)という言葉があります。
    祭司がすべての人々に向かって、
    礼拝に加わるようにと呼びかけています。

    きょうの預言者アモスの言葉は、
    このようなイスラエルの伝統を用いています。
    祭司が民を礼拝へと招くように、
    アモスは神殿のあるベテルやギルガルへと
    行きなさいと呼びかけます。
    そして、そこでいけにえを捧げるようにと呼びかけます。
    でも、何かおかしいことに気づきませんか。
    そうです。
    アモスは、ベテルやギルガルへ行って、
    神を礼拝するようにと
    イスラエルの民に呼びかけているのに、
    その正反対にも思えることを
    同時に語っているからです。
    「ベテルに行って神に背き
    ギルガルに行って背きの罪を重ねよ」(4:4)
    とアモスは呼びかけています。
    何とも矛盾した呼びかけです。
    もしもわたしが礼拝のはじめに、
    「神を共に礼拝しましょう」とみなさんに呼びかけた後、
    「さぁ、神の前に罪を重ねましょう」と言い始めたら、
    きっと誰もが驚くことだと思います。
    「いやいや、わたしたちが礼拝の中でするべきなのは、
    罪を更に重ねていくことではなく、
    罪の悔い改めの祈りの方でしょ?」と、
    誰かが立ち上がって、わたしを諭し始めることでしょう。
    もちろん、そんなことしませんので、
    どうか安心してください。
    でも、アモスの発言はそれほど不自然なことでした。

    アモスのその後の呼びかけは、
    とても自然なもののように見えます。
    アモスは、どうやって神を礼拝するかを命じています。
    でも、罪を重ねよという呼びかけの後に
    これらの命令が並べられるとき、
    その意味合いは変わってきます。
    イスラエルの民の礼拝の方法が
    まさに罪深いものだとアモスは言いたいのでしょう。
    朝ごとのいけにえも、
    十分の一の献げ物も、
    種入りパンを焼くことも、
    自発的な献げ物をすることも、
    どれもこれも、神を礼拝する方法に見えて、
    実際のところは罪深い行為だ、と。

    なぜそんなにイスラエルの民は
    批判を受けなければならなかったのでしょうか。
    その手がかりとなるのは、
    礼拝をする理由を述べる言葉にあります。
    通常、祭司が礼拝を呼びかけるとき、
    神が賛美に値する方だからという理由が続きます。
    たとえば詩編100篇では、神は恵み深いからだ。
    神の慈しみはとこしえに注がれるからだ、
    とうたわれています。
    では、アモスの言葉ではどうでしょうか。
    イスラエルの民がベテルやギルガルで礼拝する
    その理由は、神の恵み深さや慈しみではありません。
    「イスラエルの子らよ
    それがあなたがたの好んでいることだ」(5節)
    とアモスは指摘します。
    イスラエルの民の礼拝は、
    神に向かって礼拝をしているように見えて、
    実際のところは自分たちのことにばかり集中している。
    イスラエルの民は自分たちの望むように、
    神を礼拝しているではないか。
    自分たちの好むように、
    自分たちにとって都合の良いように
    神を礼拝しているではないか。
    これが、アモスが指摘していることです。

    イスラエルの民が、特に北王国の富裕層の人たちが
    望んだ神の姿は、戦いに勝利をもたらす、
    軍事的な神でした。
    経済的な繁栄を保証し、
    今の自分の立場を守り、肯定してくれることを
    彼らは神に強く望みました。
    そのような神ならば、喜んで礼拝しました。
    でも、自分たちの今の姿を非難し、
    悔い改めを求める神は礼拝したくありませんでした。
    だから、4節から5節に記されている
    アモスが呼びかける礼拝を注意深く読んでみると、
    そこには本来イスラエルの礼拝の中にあるべき
    罪の悔い改めに関係することがありません。
    まさに、神の願いや思いなどは無視して、
    ただ自分たちの思いや願いが実現されることを願って、
    彼らは神を礼拝していました。
    そんなイスラエルの民の姿が
    アモスの言葉を通して見えてきます。
    ですので、アモスは本当のところは
    礼拝を呼びかけていません。
    現代風にいえば、これはパロディです。
    アモスは礼拝へと招く表現を用いて、
    イスラエルの民が礼拝の中で犯していた罪を
    暴こうとしているのです。

    そう考えると、6−11節に
    なぜ裁きのリストがあるかがわかります。
    ここに記されていることはとても厳しい内容です。
    食べ物や水を人から奪って
    飢えや渇きを与え、
    戦いでの敗北を与えるというのですから。
    聖書において、神が人をさばくのは、
    神のもとに帰ってきて欲しいからです。
    人が神との間に新しい関係を築き直して、
    神の民として歩み直して欲しいからです。
    だから、この時も弱い人の生活をないがしろにし、
    正義を求めないイスラエルの社会が
    神に立ち返ることを願って、
    神は彼らに裁きを与えました。
    でも、このリストは
    とても悲しい響きを持っています。
    「それでも、あなたがたは
    私のもとに帰らなかった」と繰り返されています。
    神の願いは虚しく、
    神のもとへと帰らない
    イスラエルの民の姿が描かれています。
    彼らが求めているのは、
    軍事的な勝利を約束する神でした。
    彼らが礼拝したいと願っているのは、
    繁栄を保証し、自分たちの今を肯定する神でした。
    結局のところ、彼らは
    自分たちのことを正当化してくれる神こそ、求めました。
    自分が見つめたい神の姿のみを見つめていました。

    ですので、アモスが提示する神の姿が
    彼らの思い描く神とは違っていたことに
    イスラエルの民は悲しみ、
    アモスに対して怒りを覚えたことでしょう。
    アモスの語る神の姿は、
    勝利ではなく、敗北を与える神でした。
    繁栄ではなく、飢えや渇きを与える神でした。
    力を与えるよりも、力を奪う神でした。
    これだけ言うと、
    両極端な神の姿しか見えてきませんね。
    神は、この世界を造り、
    動物や人間だけでなく、天候や自然など、
    この世界のあらゆるものを治める方です。
    そんな神が目的をもって行動するとき、
    勝利を与えることもあれば、
    敗北を与えることもありました。
    恵みの雨を与えることもあれば、
    渇きを与えることもありました。
    なので、神を経済的繁栄や
    軍事的勝利をもたらす神としか見えなくなってしまうとき、
    人は自分の利益のみを追い求めた
    神の姿しか見えていないのでしょう。
    それがまさにイスラエルの問題でした。
    だから、アモスは彼らが望む神とは
    正反対の神の姿を提示しているのです。

    その上で、アモスはイスラエルの民に呼びかけました。
    「イスラエルよ
    自分の神に会う備えをせよ」(12節)。
    アモスが示す神の姿は、
    イスラエルの民を裁く神ですから、
    「え、そんな神には会いたくない」というのが、
    きっとこの言葉を聞いた人たちの本音でしょう。
    罪を指摘されるとわかっているのに、
    なぜ神のもとへ行かなければならないのでしょうか。
    なぜ喜んで、神に出会う備えが出来るというのでしょうか。
    そんなこと出来るはずありません。
    同じような答えが、
    アモスの言葉を聞く私たちの中にも湧き起ってきます。
    神にはわたしの望む神であって欲しいという思いが、
    多かれ少なかれ、誰の心にもあるからです。
    でも、アモスはわたしたちが抱えるそんな思いも、
    わかった上で呼びかけています。
    あなたの神に会う備えをしなさい。

    聖書が証し、わたしたちが信じる神は、
    何も、わたしたちのことが憎たらしくてしょうがないから、
    イスラエルの民への裁きを見せつけているわけではありません。
    神の側がわたしたちとの出会いを求めているから、
    アモスを通して、神はわたしたちに語りかけています。
    あなたの神に会う備えをしなさい、と。
    神がわたしたちとの間に親密な関係を築きたいから、
    神の側が、わたしたちと顔を合わせて
    語り合いたいと願っているから、
    あなたの神に会う備えをしなさいと、
    神はアモスを用いて呼びかけています。

    神に出会うために、
    わたしたちにできる準備って何でしょう。
    イエスさまは言います。
    「心の清い人々は、幸いである
    その人たちは神を見る」と(マタイ5:8)。
    わたしたちの心は不純物だらけかもしれません。
    アモスの時代のイスラエルの民のように、
    自分の望む神の姿しか見たくないかもしれません。
    自己中心的に、
    自分だけの祝福を求めて、
    神に近づいているかもしれません。
    考えれば考えるほど、
    神と出会うことが難しく感じてしまいます。
    果たして、こんな私と神は出会ってくださるのだろうか、と。
    でも、「心の清い人々は、幸いである」と語りかけた
    神の子であるイエスさまが
    わたしたちのもとに既に来てくださいました。
    わたしたちの心を清めるために。
    私たちと神の間に立って、
    わたしたちが神と出会う準備をし始めるよりも先に、
    わたしたちが神と出会うことが出来るように、
    イエスさまはわたしたちのもとに来てくださいました。

    アモスの時代、
    神にとってイスラエルの民を見捨てることは
    とても簡単なことでした。
    やろうと思えばきっと、
    イスラエルの代わりに
    他の民族を神の民に選ぶことが出来たはずです。
    でも、神はそのような選択はしませんでした。
    神はイスラエルを見捨てませんでした。
    彼らが神のもとに帰ってくることを期待して、
    神はアモスを通して語り続けました。
    神は、イスラエルの民が
    ご自分のもとに帰ってくるのを待ち続けました。
    諦めずに、アモスを通して関わり続け、
    イスラエルの民との心の通った出会いを求め続け、
    神は待ち続けました。
    同じように、私たちのことを
    神はいつも待っておられます。
    私たちひとりひとりとの出会いを求めて
    神はいつも待っておられます。

    そうであるならば、
    わたしたちは神との出会いを求めて、
    この信仰の旅路を歩み続けて行きましょう。
    私たちの信仰の旅路は、天の御国に向かって歩む旅です。
    そのため、私たちの目的地である天で、
    わたしたちは神と向き合うことになります。
    神と出会う日がやがて、必ず訪れます。
    ですから、わたしたちにとって、
    この地上での信仰の旅路は、
    神との出会いに備えた旅ともいえます。
    わたしたちがどれほど不完全で、
    不格好で、ぎこちない歩みをしていたとしても、
    神はわたしたちに失望し、わたしたちを諦め、
    わたしたちのことを見捨てることはありません。
    神は、いつも待っていてくださいます。
    神はいつもわたしたちとの出会いを求めておられます。
    だから、安心して神との出会いを待ち望んで、
    この信仰の旅路を私たちは続けていきましょう。

週報より

  • 2023.05.07 週報より抜粋・要約

  • ① きょうはティータイム後に月例役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いします。
    おもな議題は、教会の備品の確認や牧師就任式についてです。
    教会役員会で話し合ってほしいことがありましたら、
    基嗣牧師か教会役員にお知らせください。

    ② あすは地区牧師会と神学校教授会が昭和町教会で開催されます。
    基嗣牧師が出席予定です。

    ③ 来週は、礼拝の中で基嗣牧師の就任式をおこないます。
    日本ナザレン教団新理事長の土肥努先生が礼拝説教と
    就任式の司式を担当してくださいます。
    礼拝後にランチの会を予定しています。

    ④ 平原知之先生、セニー先生への献金方法が変更になっています。
    これまで支える会を通してタイ宣教の働きのサポートをしてきましたが、
    今後は個人でのサポートに変更をお願いします。
    サポートをご希望の方は基嗣牧師にお知らせください。
    振込用紙をお渡しします。

    ⑤ 5月は神学校月間です。
    神学校のためにお祈りと献金をお願いします。
    献金袋は受付テーブルの上に置いてあります。

    ⑥ 週報棚の整理をしました。
    ご自分の週報棚の新しい位置をご確認ください。
    また、週報棚に追加してほしい方は牧師までお知らせください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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