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トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  なぜアモスの言葉は受け継がれてきたのか?

朗読箇所

三位一体後第5主日

旧約 アモス書9:1−15

◆第五の幻
1 わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。「柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない。
2 たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも
わたしは、そこからこの手で引き出す。たとえ天に上っても
わたしは、そこから引き下ろす。
3 たとえ、カルメルの頂に身を隠しても
わたしは、そこから探し出して連れ出す。たとえ、わたしの目を逃れて、海の底に隠れても
そこで、蛇に命じてかませる。
4 たとえ捕らわれ、敵の前に連れて行かれても
そこで、剣に命じて殺させる。わたしは彼らの上に目を注ぐ。それは災いのためであって
幸いのためではない。」
5 万軍の神なる主。主が大地に触れられると、地は揺れ動き
そこに住む者は皆、嘆き悲しむ。大地はことごとくナイル川のように盛り上がり
エジプトの大河のように沈む。
6 天に高殿を設け
地の上に大空を据え
海の水を呼び集め
地の面に注がれる方。その御名は主。

◆全世界の神
7 イスラエルの人々よ。わたしにとってお前たちは
クシュの人々と変わりがないではないかと
主は言われる。わたしはイスラエルをエジプトの地から
ペリシテ人をカフトルから
アラム人をキルから、導き上ったではないか。
8 見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け
これを地の面から絶たれる。ただし、わたしはヤコブの家を全滅させはしないと
主は言われる。
9 見よ、わたしは命令を下し
イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。ふるいにかけても
小石ひとつ地に落ちないように。
10 わが民の中で罪ある者は皆、剣で死ぬ。彼らは、災いは我々に及ばず
近づくこともない、と言っている。

◆後の日の回復
11 その日には
わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し
その破れを修復し、廃虚を復興して
昔の日のように建て直す。
12 こうして、エドムの生き残りの者と
わが名をもって呼ばれるすべての国を
彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。
13 見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き
ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ
すべての丘は溶けて流れる。
14 わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み
ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み
園を造って、実りを食べる。
15 わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から
再び彼らが引き抜かれることは決してないと
あなたの神なる主は言われる。



新約 ローマの信徒への手紙12:9−21

◆キリスト教的生活の規範
9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

説教

なぜアモスの言葉は受け継がれてきたのか?

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    わたしにはアモス書の存在が
    とても不思議なものに感じられます。
    というのも、預言者アモスは
    決して良いことばかり語ったわけではなかったからです。
    いや、アモスが語るのは不都合に思えることばかりです。
    アモスは北王国に溢れていた罪深い現実を告発します。
    この国は、不正義や経済的搾取で溢れている。
    自分の私利私欲を満たすことばかり考えていている。
    神を礼拝することさえ、
    結局は、神に心を向けておらず、
    自分たちのことばかり考えているではないか、と。
    アモスの言葉がこれだけならば、
    北王国の指導者たちにとって不都合な言葉ばかりですから、
    実際に苦しんでいた多くの農民たちは
    アモスの言葉に喜んで耳を傾けたかもしれません。
    でも、アモスが続けて語るのは、
    イスラエルの民のその罪ゆえに、
    北王国は滅びるというものでした。
    農民たちの多くは
    北王国の社会で行われていた
    搾取や不正の被害者です。
    その上、アモスの言葉通りの未来が訪れてしまうならば、
    指導者たちの犯している罪の結果として訪れる
    北王国の滅亡の被害者にまでなってしまいます。
    いや、きょう読んだアモスの言葉は、
    更にエスカレートしているようにも感じます。
    北王国の指導者たちの不正義や
    経済的な抑圧などが引き金となった神の裁きから、
    北王国の人びとは誰も逃れることができないとアモスは告げます。
    いや、今やその範囲は、
    北王国だけに留まらないとまで伝えているのです。
    全世界に、全宇宙に広がっていくとアモスは語ります。
    まるで、創世記に記されている、
    ノアの洪水物語のように、
    地の面が水で覆われていく、
    そんなイメージをアモスは6節で
    賛美歌として歌っています。
    たまったもんじゃありませんね。
    だから、アモスの言葉は
    多くの人にとって不都合なものでした。
    それなのに、アモスの言葉は
    なぜ残されたのでしょうか。
    なぜこのようなアモスの言葉を
    人々は大切に受け止め、
    次の世代に残していこうと考えたのでしょうか。

    きょう読んだアモス書9章のうち、
    少なくとも11−15節はアモスより後の時代に、
    アモスの言葉集としてまとめられたこの預言書に
    つけられたものだと多くの聖書学者たちは考えています。
    11−15節はアモス書の中で
    鮮明にイスラエルの民の将来の回復を描く、
    希望の光のような言葉です。
    そんな言葉がもともとは
    預言者アモスのものではないのならば、
    アモスの言葉には更に希望が感じられません。
    謎は深まるばかりです。
    こんな攻撃的で批判的な言葉を
    一体なぜイスラエルの民は
    大切に受け継いでいこうと思ったのでしょうか。

    それには、北王国が置かれた状況が関係していました。
    アモスが北王国に語りかけてから、
    10年以内に北王国は衰退していきました。
    アモスの語った警告の意味が
    真実味を帯びてきました。
    決定的だったのは、北王国が
    紀元前722年にアッシリア帝国によって
    滅ぼされてしまったことです。
    この時、多くの人たちが命を落とし、
    生き残った人たちは各地に散らされていきました。
    その中にはお隣の南王国ユダへと
    亡命した人たちもいました。
    その時になって、彼らは確信したことでしょう。
    あの時、預言者アモスが必死に自分たちに向かって
    語りかけてきたあの言葉は
    真実なものだったのだ、と。
    だから、彼らはアモスの言葉を
    南王国ユダの地で受け止め直したのだと思います。
    南王国で生きることになった自分たちにとって、
    アモスの言葉が一体どういった意味を持つのか、
    真剣にアモスの言葉と、
    アモスを通して語られた
    神と向き合ったのでしょう。
    そして、アモスの言葉を
    南王国の人々に紹介する必要性を覚えたのでしょう。

    アモスの言葉を南王国ユダで紹介することに
    一体どういった意味があったのでしょうか。
    北王国のような社会を築くべきではないと、
    自分たちの反省と後悔を込めて伝えたのかもしれません。
    北王国の人たちにとって、
    弱い者を虐げ、神の言葉を聞かず、
    自分の都合の良いように神も人も扱うことは、
    結果的に、破滅へと向かう道を進むことになってしまいました。
    だから、自分たちと同じように歩むべきではない。
    そんな思いを込めて、彼らはアモスの言葉を
    南王国にも必要な言葉として分かち合いました。
    決して、神の言葉に耳を傾けず
    アッシリアによって滅ぼされてしまった
    北王国を罵り、あざ笑うために
    アモスの言葉を聞いたわけではありません。
    自分たちが、真実に神との関係を築いていくため、
    そして、神に喜ばれる共同体を築いていくために、
    彼らはアモスを通して語られた
    神の言葉に耳を傾けました。
    でも、南王国もまた、
    アモスの言葉を聞くことに失敗しました。
    南王国にも終わりが訪れました。
    南王国にも捕囚の出来事が訪れました。

    結局、北王国も、南王国も滅びた後の時代、
    アモスの言葉は彼らにとっての過去の後悔や反省を
    伝えるものでしかなかったのでしょうか。
    決してそうではありません。
    捕囚から帰ってきた人々は
    アモスの言葉を受け止め直して、
    11−15節の言葉を付け足しました。
    捕囚から帰ってきた時代、
    荒れ果て、ボロボロなエルサレムの都を見て、
    彼らは落胆します。
    けれど、エルサレムの都や神殿を建て直し、
    また新しく神の民として歩み始めるという
    回復の希望を見つめようとしました。
    もちろん、アモスの言葉を完全に無視して、
    アモスの言葉を打ち消すような形で
    希望にあふれる未来を提示したわけではありません。
    アモスの言葉を真剣に受け止めた上で、
    14節の言葉は、アモスの言葉を逆転させています。

                  わが民イスラエルの捕らわれ人を私は帰らせる。
    彼らは荒らされた町を築き直して住みぶどう畑を作って、
    そのぶどう酒を飲み園を造って、その実りを食べる。
    (アモス9:14)

    14節の言葉は、アモスが語り続けた
    ふたつのことを逆転させています。
    ひとつは、「私は帰らせる」という言葉です。
    「帰る」という意味のシューヴというヘブライ語を
    アモスは何度も繰り返し使っていました。
    いくら神が語りかけ、アモスを通して警告しても、
    イスラエルの民は神のもとに帰ってこなかったと(4章)。
    でも、捕囚を終えた今、
    この現実を神はひっくり返してくださいました。
    国の滅亡や捕囚を通して傷ついた彼らを
    神が帰してくださいます。
    「わたしの民」と呼んでくださいます。
    神とイスラエルの民の間の傷ついた関係を
    神の側が寄り添って、修復してくださっているのです。

    そして、アモスの言葉を逆転させた
    もうひとつのことは、
    彼らは築き直した町に住むことができ、
    ぶどう畑をつくり、そこで収穫したぶどうを
    自分たちで味わう未来が訪れることです。
    一見、何の変哲もないことが書いてあるように見えます。
    でも、アモスが批判した北王国の現実は
    これらのことが出来ていませんでした。
    家を建てても、そこに住むことはできない。
    ぶどう畑を作っても、
    そこで作られたものを味わうことができない。
    権力者たちが北王国の人びとを搾取した現実を
    アモスはこのように描いていました。
    14節の言葉は、それとは正反対のことですね。
    自分たちで建てた家に住めるし、
    自分たちで育てたぶどうを味わうことができます。
    その意味で、ここで紹介されているのは、
    搾取のない未来です。
    誰も踏みにじられることがない未来です。

    アモスの言葉を受け止めた人びとは
    長い長い時間をかけて、
    アモスの言葉を受け止めていきました。
    アモスを通して、
    国のあり方を信仰共同体のあり方を
    強く批判されたから、
    彼らは考え続けたのだと思います。
    一体、どんな共同体をつくっていくべきなのか。
    そして、アモスの言葉と向き合う中で
    たどり着いたひとつの答えが、
    ここで言い表されています。
    それは、神に与えられた祝福を
    分かち合う共同体ともいえるでしょう。
    それは、決して隣人を傷つける共同体であるべきではない。
    同じ神の民を奴隷のように扱い、
    彼らから搾取し続ける社会であるべきではない。
    アモスの言葉を逆転させる14節の言葉から、
    そのような声をわたしたちは聞き取ることができます。
    アモスの言葉をどう受け止めるべきなのかを
    彼らは自分たちの置かれた環境の中で考え続け、
    未来に向けて、歩み出していったのです。

    アモス書に映し出されるイスラエルの民の姿は、
    わたしたちにも同じように問いかけています。
    天の御国に向かって歩んでいるわたしたちは一体、
    どんな共同体を作っていくべきなのでしょうか。
    それは、アモス書を受け止めたイスラエルの民が
    目指したかった未来とある点において同じだと思います。
    それは、神に与えられた祝福を
    お互いに分かち合う共同体であることです。
    捕囚から帰ってきた集団の中には色々な人がいました。
    小さなこどももいれば、
    老人たちも、身重の人もいました。
    身体の弱い人もいれば、
    病を抱えている人もいました。
    そんな人たちすべてが同じように家を建て、ぶどう畑を作り、
    それができた人だけが家に住み、
    収穫したものを味わうことができたわけではないでしょう。
    誰もが出来ることを積み重ねていったでしょう。
    いいえ、何も出来なかったとしても、
    彼らは収穫で得たものを味わうことができました。
    それが祝福を分かち合っていく、ということです。
    北王国の社会のように、弱い人たちを踏みにじり、
    搾取が当たり前の社会を彼らは目指していませんでした。
    神に与えられた祝福を分かち合う共同体であることが
    彼らが目指したことです。
    わたしたち、教会も同じだと思います。
    誰かの存在を蔑ろにしながら歩んでいく信仰の旅路を
    わたしたちは望んでいません。
    自分だけが神の祝福を独占し、
    孤独な旅を歩むことも望んでいません。
    苦しんでいる誰かを見捨てたり、
    見ないふりをしたりすることを
    わたしたちは望んでいません。
    神から与えられた愛や憐れみを
    お互いに分かち合いながら、
    わたしたちはキリストにあって結ばれている友と、
    一緒に信仰の旅路を歩み続けることが
    わたしたちの心からの願いです。
    そして、誰も取り残されることのないように、
    この旅路を歩み続けていくことが、
    アモスの言葉を聞いたわたしたちが望む、
    教会の歩む姿だと思うのです。
    主キリストにあるきずなに結ばれて、
    これからもわたしたちは
    このような信仰の旅路を歩んでいきましょう。

週報より

  • 2023.07.09 週報より抜粋・要約

  • ① こどものみなさんへのおしらせ
    きょうから れいはいちゅうの おへやのつかいかたをかえてみます。
    こえをだして あそびたいひとは ふぞくかんを、
    しずかに すごしたいひとは よこのへやを つかってください。
    よこのへや と ふぞくかんを すごしやすいへやに していくよていなので
    どうぞおたのしみに!
    リクエストがあれば、もとつぐ ぼくしにおしえてくださいね。

    ② きょうはティータイムの後に月報モレノの編集会もおこなう予定です。
    モレノチームのみなさまはよろしくお願いします。
    原稿の締切は来週の日曜日です。
    みなさまのご寄稿をお待ちしています。
    絵、写真、原稿など、なんでも、お気軽にご寄稿ください。
    また、モレノの製本は今週土曜日の午後2時からおこないます。

    ③ あすは地区牧師会が浦和教会で開催されます。
    基嗣牧師が出席予定です。

    ④ 夏季献金にご協力お願いいたします。
    牧師の夏の手当とピアノの調律のための献金です。
    受付テーブルに置いてある献金袋をご利用ください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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