説教者 稲葉基嗣 牧師
はじめて会う人たちがたくさんいる中で
自己紹介を求められたとき、
みなさんは自分をどのように紹介するでしょうか。
わたしならば、きっとこのような形で
自分のことを紹介します。
稲葉基嗣です。
今年の4月から栃木県小山市にある
キリスト教会で牧師をしています。
また、牧師を養成するための学校で旧約聖書を教えています。
妻と2人のこどもたちと一緒に教会のそばで暮らしています。
趣味は音楽鑑賞と将棋です。
というように、はじめましての方が多い場所では
今この場にいる多くの方たちが
知っているであろうことを伝えることになるでしょう。
でも、よく知っている間柄だったら違いますね。
相手が知っていることを改めて伝える必要はありませんね。
できれば知らないかもなということを
伝えるほうが聞く側も楽しめるでしょうから、
相手にとって新しい情報を伝えられるように努めます。
きょうはフィリピの信徒への手紙を読みました。
この手紙をフィリピの教会に宛てて書いた
パウロはどのように自分のことを紹介したでしょうか。
パウロの書いた他の手紙を読んでみると、
彼は自分を使徒と呼ぶことが多いです。
イエス・キリストは救い主だと伝え、教会を教えるために、
わたしは神によって選ばれて使徒とされました
というように、パウロは自分を紹介することから
手紙を書き始めています。
どうか使徒であるわたしの言葉に
耳を傾けてください、という願いを込めて、
パウロはひとつひとつの手紙を書いています。
パウロがこのように自分が使徒であることを
強調したのにはいくつか理由がありました。
ローマの信徒への手紙の宛て先である
ローマの人々にとって、
パウロは一度も面識がない人です。
ですから、当然、パウロは自己紹介をする必要がありましたし、
なぜ自分がローマの教会に向けて教え、
励ましの言葉を書いているのかを説明する必要がありました。
その説明が出来る言葉が、パウロが使徒であるということでした。
ガラテヤやコリントの教会では、
パウロが使徒であることに疑いを抱く人々がいました。
ですので、パウロはたしかに自分が
キリストによって立てられた使徒であることを伝え、
教会の人びとを説得しようと試みています。
でも、パウロにとって、
フィリピの教会との関係は
他の教会とは違うものでした。
フィリピの教会はパウロに対する疑いもありません。
フィリピの教会は、パウロをよく知っていて、
パウロととても親しい関係にあり、
困難の中にあるパウロの旅の支援を
自ら進んでした教会でした。
パウロにとってフィリピの教会は喜びであったことが
この手紙から伝わってきます。
まさに、フィリピの教会は
パウロと親しいきずなで結ばれた教会でした。
そんなフィリピの教会に宛てた手紙で、
パウロは自分のことを
「キリスト・イエスのしもべ」と書きました。
しもべという意味のギリシア語デューロスは、
奴隷という意味の単語です。
パウロの時代、奴隷制度は当たり前のように広がっていました。
誰もこの制度に疑問を持つことはありませんでした。
けれど、奴隷の身分ではないパウロが自ら進んで、
自分自身のことを奴隷と呼ぶことは衝撃です。
奴隷は完全にその主人の意志に従わなければなりません。
また、自発的ではなく、強制されて、
奴隷は他の人に奉仕をしました。
つまり、奴隷には自由はありませんでしたし、
主人に縛られて生きる存在でした。
ですから、パウロのこの言葉の選択には驚かされます。
フィリピの教会に宛てた手紙の中で
パウロはなぜ自分のことを奴隷と呼んだのでしょうか。
なぜ奴隷という言葉はこの手紙の冒頭で使う言葉として
ぴったりな言葉だと考えたのでしょうか。
パウロがこの手紙を書いた当時、
パウロはエフェソで捕まり、投獄され、
鎖に繋がれていたからでしょうか。
それも理由の一つであったかもしれません。
ただ、パウロが投獄され、
自由に身動きすることができない状況にあることは、
フィリピの人びとにとって、
教会の記憶に刻まれたある出来事を思い起こさせるものでした。
それは、フィリピの教会ができるきっかけとなった、
使徒言行録16章に記録されている出来事です。
パウロがフィリピを訪れたとき、
パウロは占いの霊につかれた女性の奴隷から
その霊を追い出します。
結果的にこの出来事は、
この女性のおこなう占いによって
お金儲けをしていた人びとの商売を
妨害することになってしまいました。
この出来事が原因となって、
パウロはフィリピの町を混乱させていると訴えられ、
一緒にいた仲間のシラスと一緒に捕まり、
ムチを打たれ、投獄されることになります。
それはたった一晩のみの投獄でしたが、
鎖に繋がれているときのパウロが不自由に見えて、
実は誰よりも自由であったことを
フィリピの教会に伝えるエピソードでした。
パウロが牢屋に入れられているときに、
大きな地震が起こり、牢屋の戸が開かれ、
鎖が外れてしまったため、
パウロは簡単に逃げることができましたが、
牢屋の中にとどまりました。
しかし、パウロが逃げてしまったと
思い込んだ牢屋の看守は
責任を取って自分の命を絶とうとしますが、
パウロは自分たちが逃げていないことを伝えるため、
大声で叫んで彼を止め、彼の命を救います。
自分の命を救うよりも、
この看守の命を救うことを優先しているパウロは、
投獄され、鎖に繋がれているのにも関わらず、
誰よりも自由でした。
鎖に繋がれず、奴隷でもなく、
ローマ人であり、はるかに自由な人であった
この看守の方が、パウロよりも
様々なしがらみに縛られ不自由でした。
このことがきっかけでローマ人であったこの看守は、
パウロが伝えるキリストを信じるようになり、
彼や彼の家族はフィリピの教会のメンバーになりました。
このように、フィリピの教会にとって、
パウロが鎖で繋がれているイメージを与える
「キリストのしもべ」という言葉は、
パウロの自由さを伝えるとともに、
パウロと自分たちとの結びつきを改めて
思い起こさせるような響きをもつ言葉でした。
パウロは強く信じていました。
キリストとの結びつきを持つことこそ、
わたしたちを本当の意味で自由にし、喜びを与える、と。
それはパウロ自身を自由にするだけでなく、
フィリピの人びとをも自由にしました。
キリストのしもべとして、
身を低くし、へりくだったパウロは
決してフィリピの教会の人びとに
主人のように接することはありません。
決して、教会に対する
自分の権利を主張することもありません。
ただただ、キリストのしもべとして、
フィリピの教会のためにできることをしたい。
それがパウロの強い願いだったからです。
実はパウロは、キリストのしもべは
自分だけとは言っていません。
パウロはここでは複数形を使い、
「キリストのしもべたち」と言っています。
一緒に手紙に名前を連ねているテモテも
キリストのしもべの一人に入れています。
いいえ、きっとフィリピの教会の人たちすべてを
このキリストのしもべという立場に巻き込みたいと
パウロは願っているのでしょう。
それは、わたしたちにとって、
キリストに結ばれて生きることこそが重要だからです。
わたしたちには、たくさんのものが結びついています。
中にはわたしたちを隷属させようとするものもあるでしょう。
だから、何よりも、私たち自身は神のもの、
キリストのものであることを思い起こすようにと、
パウロの言葉はわたしたちに迫ってきます。
「キリストの奴隷」というとき、
奴隷という言葉が持つ響きが強すぎるため、
神がわたしたちを強制労働へと導いたり、
神に絶対服従といった
悪いイメージがつきまといます。
でも、神はわたしたちの人格や
わたしたちの意志を完全に無視して、
神に絶対的に従うことを求める方ではありません。
寧ろ、神はご自分の思いをわたしたちに伝えた後、
ひたすら待っていてくださる方です。
預言者イザヤの前に神が現れた時、
イザヤは神が聖なる方であることを知ると同時に、
自分の罪深さや、自分の口から語る言葉の
その醜さに気づきました。
そんなイザヤの唇に神は火を触れさせ、
彼の罪を赦し、彼を預言者として
人びとのもとへと遣わそうとします。
「誰を遣わそうか」と神はイザヤに問いかけ、
イザヤの答えを待ち続けます。
イザヤが自らの意志で「ここに私がおります。
私を遣わしてください」と語った言葉を
神は喜んで聞いてくださいました。
このように、神はわたしたちに絶対的な力をもって
ご自分の思いを押し付けるよりは、
わたしたちの自由やわたしたちの意志を
尊重してくださる方です。
ですから、わたしたちが「キリストのしもべ」であるとき、
神はわたしたちの自由や
わたしたちの意志を奪うことを望んでいません。
神がわたしたちをキリストとのしもべとするのは、
わたしたちを不自由にするためではなく、
自由にするためだからです。
神はわたしたちの自由を尊重するために、
わたしたちが他の何者の奴隷にならないために、
神はわたしたちをご自分のものとされています。
それはとても逆説的なことだと思います。
たしかに、わたしたちは日常の生活の中で、
たくさんのものに縛られて生きています。
それは、誰かが語りかけた言葉かもしれません。
時間かもしれませんし、
長年培われてきた文化や価値観かもしれません。
色々なしがらみがあって、
それらがわたしたちの生き方を
束縛し、窮屈にすることだってあるでしょう。
でも、そういったわたしたちを縛り付けるものや
わたしたちにつきまとうしがらみは、
わたしたちが何者であるのかを
最終的に決定づけるものではありません。
色々な情報がわたしたちにはタグ付けされていますが、
それらがわたしたちが何者であるのかを
決めることはありませんし、あるべきではありません。
わたしたちは神によって、キリストのものとされています。
キリストと結ばれています。
この事実こそが、わたしたちにとって決定的なものです。
キリストにあって結ばれているわたしたちは、
神のもの、神の民です。
だから、本質的に、
わたしたちは神以外の誰のものでもありません。
神以外の誰のものでもないから、
だからこそ、わたしたちは
他の何者にも束縛される必要なく、
自由に生きることが許されています。
誰のものでもないから、
自由の中で出会い、自由に交わり、
その自由を喜ぶことが出来ています。
主イエスこそ、わたしたちに必要なきずなです。
わたしたちを誰のものでもなく、
神のものとし、神の民とする、
愛と憐れみに溢れた強いきずなです。
牢獄に入れられた不自由なパウロは、
この事実を喜び、確信をもって、
キリストのしもべとして、
神のものとされていることを
自分自身をフィリピの教会の人たちに表す
最もふさわしい言葉として伝えています。
キリストのしもべとして不自由だけど、
キリストに結ばれているから自由であるという、
この逆説にフィリピの人びとが触れることから
この手紙は始まりました。
主イエスこそ、わたしたちと神を結ぶ
強いきずなです。
主イエスこそ、わたしとみなさんを結ぶ
強いきずなです。
主イエスこそ、あなたとあなたと共に生きる人びとを結ぶ
強いきずなです。
主イエスこそきずな。
それは、わたしたちにとって大きな喜びと自由を与える、
とても大切な合言葉です。