説教者 稲葉基嗣 牧師
福音。
それは、イエス・キリストによって実現した神の救いを言い表し、
キリスト教会がその喜びを宣言する言葉です。
イエス・キリストによって、
わたしたちはあらゆる罪を赦され、
救いの望みを得ています。
イエス・キリストにあって、
わたしたちは死の後に復活があるという希望を抱いていますし、
天の御国で生きる将来の望みを抱いています。
イエス・キリストにあって、
神はこの世界のさまざまな傷ついた関係や
傷ついたこの世界自身を回復させてくださいますし、
今もその途上にあるとわたしたちは信じています。
イエス・キリストによって、
わたしたちは神の憐れみや愛を知り、
神から憐れみを受け、愛されているように、
出会う人たちに憐れみの心を抱き、
できる限り共に生きる人たちを愛したいと願っています。
そういった教会が喜びのうちに受け止めている、
イエス・キリストを通して実現した出来事と
わたしたちへの将来の約束が詰め込まれているのが
この福音という言葉ですね。
この言葉に込められた喜びは語り尽くせませんし、
また次の世代へ次の世代へと
語り継いでいきたいと願っているから、
わたしたちは毎週この場所に集い、
一緒に神を礼拝し、聖書が語る福音の言葉を
キリストによって実現した喜ぶべき出来事を
何度も何度も思い起こして、一緒にお祝いしています。
パウロにとって、福音は自分だけが
喜ぶべきものではありませんでした。
また、ひとつの教会やある特定の地域や
特別な民族の間でのみ
祝われるものでもありませんでした。
パウロにとって福音は、民族も、社会的な立場も、文化も、
物理的な距離も、時代的な距離も、
乗り越えていくことのできるものでした。
だから、パウロはユダヤ人であることや、
異邦人であることは関係なく、
あらゆる人びとに福音を伝え、
この喜びを分かち合いたいと願いました。
そして、あらゆる場所に
喜ばしいニュースが広がることを願ったから、
パウロはイエスさまを伝える旅を続けました。
地理的には、当時の人びとが世界の西の果てと考えていた
スペインの方にまで福音が広がることを願っていたようです。
全世界に、すべての人びとに福音が行き渡っていくことは、
パウロの抱いた大きな理想であり、夢でした。
そのために自分にできる限りのことをしたいと
パウロは願っていました。
そんなパウロの思いを知っていたであろうフィリピ教会の人たちは、
パウロが投獄されていることを耳にしたとき、
彼の身の安全や獄中での生活のことを心配したとともに、
パウロがどれほど落胆しているのかを想像したことでしょう。
だから、パウロの投獄の知らせを受けた時、
フィリピ教会はエパフロディトという人を
パウロのもとに送りましたし、
パウロもその感謝を伝えるために、
フィリピ教会に手紙を送りました。
パウロは単に感謝を伝えるのではなく、
自分が投獄されている現在の状況について、
フィリピ教会の人たちに伝えました。
手紙から伝わってくる
パウロの感情はどういったものだったでしょうか。
恐れや不安だったでしょうか。
それとも、投獄されていることにより
自由に身動きができないため、
自分の理想通りにキリストを
世界に伝えることが出来ないことに対する
歯がゆさや焦りといったものでしょうか。
それとも、自分の抱いている理想が
思い通りに実現しないことへの、
その理想に向かって自分が自由に動けないことへの
失望や落胆だったでしょうか。
驚いたことに、パウロは喜んでいます。
確かに、投獄による不自由さを感じ、
できれば早く釈放されて、自由に世界中を旅し、
福音を伝えたいと願っていたことでしょう。
でも、パウロの理想は阻まれていました。
パウロの願いが実現することは、
投獄という大きな障害によって妨げられています。
それなのに、パウロはフィリピ教会の人たちに
喜びを伝えているのはなぜなのでしょうか。
なぜ彼は喜ぶことができたのでしょうか。
パウロは自分が投獄され、
鎖に繋がれ、自由を奪われている自分のこの現状が、
「かえって福音の前進につながった」と
手紙の中で書いています。
それがパウロの喜びの理由でした。
自分は思うように動けないけど、
自分の投獄がきかっけとなって、
福音が広まっていることをパウロは知りました。
パウロ自身はローマの兵士たちに
自分が捕らえられた理由を説明する時間もあったのでしょう。
自分が犯罪を犯したからというより、
単にキリストを伝えていたことが
逮捕の理由であることをパウロは
兵士たちに説明したことでしょう。
その説明の中で、キリストを通して実現したことが
如何にすべての人にとって喜ばしい知らせであるかを
パウロは説明する機会を手に入れました。
パウロが鎖に繋がれていたからこそ、
エフェソで投獄されて、ローマ兵の監視下に置かれていたからこそ、
兵士たちはパウロの言葉を簡単に無視できなってしまいました。
投獄されたからこそ福音を届けられる場所があり、
福音を届けられる人びとがいることを知り、パウロは喜びました。
また、パウロが捕らえられたことを知り、
立ち上がった人びともいました。
彼らは自由に動くことのできないパウロの代わりに、
自分たちが福音を広めていかなければいけないと考え、
立ち上がりました。
そのような人たちがいた一方で、
中にはパウロを貶めるために、
キリストの名を触れ回る人たちもいました。
「最近、逮捕されたパウロという奇妙な奴がいるんだ。
彼は十字架にかけられたユダヤ人、イエスこそが
新しい王だと触れ回っているような変なやつなんだ」といった具合に。
このようにパウロについて悪い噂を流すことは可能でした。
でも、パウロの投獄の理由は、
イエス・キリストが救い主であることを広めていたことです。
ですから、投獄されたパウロの悪い噂を広めようとしても、
結果的に、キリストの名も一緒に広められることになりました。
どれほど悪い動機から出た行動であっても、
パウロが願った福音が広まっていくことは実現していきました。
パウロの理想通りではありませんでしたが、
たしかに福音は前進していることをパウロは知り、
このことをフィリピ教会の人たちに分かち合い、
彼は自分の抱いた喜びを伝えているのです。
たしかにそれはパウロの理想通りの
福音の広がり方ではなかったと思います。
また、パウロの願った通りの方法ではなかったと思います。
けれども、パウロが直面した障害や困難さえも、
神が用いて、神ご自身がその目的を実現してくださることを
パウロは知りました。
だから、その確信がパウロの言葉に込められています。
自分は逮捕され、不自由であるけれど、
「かえって福音の前進につながった」と。
パウロがここで使っている「前進する」
と訳されているギリシア語の単語は、
障害や困難を切り開いて前進していくという意味です。
何もない、きれいに整備されている歩きやすい平らな道を
スキップしながら軽やかに進んでいく
などといったイメージでは決してありません。
色々な障害が眼の前にはある。
色々な困難に取り囲まれている。
切り崩さないと進めない岩があるかもしれない。
たくさんの雑草が生い茂る場所を
進んでいかなければいけないかもしれない。
けれど、そんな障害を乗り越え、切り開いて、
確かに福音は前進しているという
パウロの強い確信がこの言葉には込められています。
パウロが生きた時代から2000年近い時が流れて、
今、キリストの福音はどれほどこの世界に、
この社会に広がっているのでしょうか。
たしかに、教会は世界中の至る所にあります。
クリスチャン人口1%未満といわれるこの国でも、
数え切れないほど教会はあります。
たしかに、地理的な意味では、
福音は世界に広がっているのでしょう。
世界中のどこにいても、
読みたいと思えば聖書は読める時代でもあるのですから。
でも、人の心や、この社会のあり方や、
わたしたちの生き方において、
キリストの福音が本当に広がっているのかと言われると、
必ずしも肯定することはできません。
教会はあります。
聖書は届いています。
福音は語られています。
でも、争いがあり、いさかいがあり、
搾取があり、不平等があります。
不正義があり、格差があり、
誰かを蹴落としたい思いや憎しみが湧き上がり、
歯止めのきかない人間の悪がはびこっています。
まだまだキリストの福音が前進を求めているのは明らかです。
キリストの平和や憐れみが
もっともっとこの世界に浸透していく必要があります。
神の正義や公正が
この社会を覆っていく必要があります。
損得勘定に基づかない、
愛情や憐れみに基づいた関係性こそが
わたしたちには必要です。
一体どうやって、わたしたちが生きるこの世界で、
今、この時代に、この場所で、
福音は前進していくのでしょうか。
パウロによってですか?
特別な才能をもっている伝道者によってですか?
牧師によってですか?
いいえ。
パウロの理想は実現しませんでした。
でも、パウロが投獄されて不自由だったからこそ、
パウロ以外の人たちが立ち上がり、
福音が前進したではありませんか。
ですから、福音は、キリストの福音に触れた
わたしたち一人ひとりを通して、前進していきます。
え、そんなの無理だよって思いますよね。
はい、そのとおりです。
まさに、パウロがほのめかしたように、
わたしたちの周りは障害だらけで、
困難で取り囲まれています。
福音を受け取ったわたしたちは
そんなに自由に、キリストの福音を
伝えられるような人間ではありません。
無理な話です。
でも、キリストによって福音を与えた神ご自身が
わたしたちを取り囲む障害や困難を切り開いていく。
これがパウロの確信でした。
困難や障害がわたしたちの周りにはあるかもしれません。
でも、主キリストにある平和や愛や憐れみは、
わたしたちを通して広がっていきます。
それはわたしたちの理想通りの広がり方ではないかもしれません。
でも、困難や障害を神が用いて、
神はわたしたちに福音の広がりを見せてくれる方です。
理想通りのキリスト者である必要も、
理想通りの人間であり続ける必要もありません。
キリストの福音に触れた、ありのままのわたしを、
ありのままのみなさんを、そして教会を
神はこの世界へと送り出してくださっています。
福音を喜ぶわたしたちを通して、
キリストにある喜びや平和や愛や憐れみを
この世界に浸透させ、前進させるために。
どうか、キリストを通してわたしたち一人ひとりに
喜ばしい福音を与えてくださった神を信頼して、
主キリストの福音に立って歩み続けることができますように。