朗読箇所
三位一体後第9主日
旧約 コヘレトの言葉7:1−6
◆赦しの再確認
1 名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。
2 弔いの家に行くのは
酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。
3 悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。
4 賢者の心は弔いの家に
愚者の心は快楽の家に。
5 賢者の叱責を聞くのは
愚者の賛美を聞くのにまさる。
6 愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい。
21 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。
新約 フィリピの信徒への手紙 1:19−26
◆
19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。
26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
説教
キリスト者は死をどのように見つめるのか?
-
説教者 稲葉基嗣 牧師
きょうは旧約聖書からはコヘレトの言葉を読みました。
「死ぬ日は生まれる日にまさる」(コヘレト7:1)
というコヘレトの言葉に、
みなさん驚いたかもしれません。
このコヘレトの言葉は、
生きるよりも、死ぬ方が良いと、
人生をとても悲観している言葉に聞こえます。
でも、それはコヘレトが意図した読みとは違います。
この言葉はこの直前の言葉である、
「名声は良質の香油にまさる」と
セットで考えるべきものです。
油は人が生まれたときと、
人が亡くなったときに用いられました。
それに対して、ある人の功績や手柄といった名声は、
人が亡くなった後も残るものです。
その意味で、生まれたばかりの、
何の功績も手柄もないときよりも、
名声が後の世代にも残る死の日の方が良いと、
コヘレトは書いています。
もちろん、「だから、生まれた日よりも、
死ぬ日の方が良いんです」と、
コヘレトは伝えたいわけではないでしょう。
この知恵の言葉が狙っているのは、
わたしたちが死を見つめることです。
人の一生が死で終わることをきちんと受け止めて、
死と向き合うことを促すために、
コヘレトはこのような言葉を語りました。
あなたは永遠にこの地上に留まるわけではない。
人間は永遠に生きることが出来るわけではない。
だから、あなたのその生涯が終わる日が来ることを
きちんと受け止めて、死と向き合いなさい、と。
死と向き合うという行為は、
まさに知恵といえるでしょう。
神を信じる信仰者の一人として、
コヘレトは、この知恵の言葉を伝えたのだと思います。
わたしたちは先月からフィリピの信徒への手紙を
礼拝の中で読み進めていますが、
きょう読んだパウロの言葉は、
まさにパウロが自らの死を見つめて、
死と向き合った末に綴った言葉と言えるでしょう。
死と向き合ったパウロを通して、
死を見つめることが出来ることは、
わたしたちにとって幸いなことだと思います。
ひとりのキリスト者として、
また、信仰者の交わりとして、
死を見つめ、死について思い巡らした実例を
知ることが出来るのですから。
パウロは、「私にとって、生きることはキリストであり、
死ぬことは益なのです」(21節)と書いています。
この言葉に戸惑いを覚えるのは、わたしだけでしょうか。
「死ぬことは益なのです」と語った直後に、
生きることと死ぬことを秤にかけて、
死んでキリストと共にいるほうが良い
と言い切るパウロの言葉が、
この地上での命を軽く考え、
あまりにも死を前向きに
捉えすぎているように感じるからです。
たしかに、信仰者にとって死は終わりではありません。
死はわたしたちからすべてを
奪い取ることのできるものでもないと、
主キリストにあって、わたしたちは信じています。
イエスさまの復活を通して、
神が死に対する勝利を宣言されました。
だから、わたしたちは死の先に
復活のいのちがあると信じています。
そして、天の御国において、
新しいいのちを生きる日が来ると信じていますし、
その日を待ち望みながら、
この地上での信仰の旅路を歩んでいます。
たしかに、その意味において、
死ぬことは益と表現することは出来るかもしれません。
何よりも死によって、
神との関係は奪われることはありませんし、
キリストがわたしたちと共にいてくださることも変わりません。
このことは、いつか必ず死の瞬間を迎えなければならない
わたしたち一人ひとりにとって、
大きな慰めといえます。
このような希望をキリストにあって、
わたしたちが抱いているにしたとしても、
パウロはなぜ、死んでキリストと共にいる方が良いと
フィリピ教会の人たちに書いたのでしょうか。
パウロは、この地上での出来事に喜びも、望みも、
まったく失ってしまったのでしょうか。
エフェソで投獄されていたパウロは、
釈放されることはもう考えられなくなってしまったほど、
心も身体も消耗しきってしまい、
生きる望みを失ってしまったのでしょうか。
それとも、死んだ後に新しい命が与えられるから、
もう地上での命はどうでも良いと思ったのでしょうか。
いいえ、パウロは生きることを完全に諦めてしまったから、
このような言葉を綴ったわけではありませんでした。
寧ろ、パウロは生きることを願っていました。
フィリピ教会の人びとと再会し、
語り合うことを願っていました。
でも、その願いが叶わないかもしれないと、
パウロは考えていました。
投獄された状況下にあったパウロにとって、
彼の命はいつ奪われるかもわからないものだったからです。
死がすぐ近くにあると実感したからこそ、
パウロは死が近づいているかもしれない自分にとって、
死は絶望すべきことではないと
フィリピ教会の人びとに伝えたかったのだと思います。
イエス・キリストを信じ、キリストに結ばれて、
キリストと共に生きている自分だけど、
イエスさまは今は目には見えない。
でも、死を迎えるとき、
キリストが共にいてくださる。
キリストが自分を受け止めてくださる。
今にもまして、そのことを実感することができる。
パウロはそう確信していたため、
自分の死を悲観的に描こうとはしませんでした。
キリストに結ばれている自分が、
どのように自分に訪れるであろう死を見つめているのかを
この手紙にパウロが書いたのは、
フィリピ教会の人びとに対する配慮であったのだと思います。
パウロが手紙を書いて送った後に、
パウロの命が奪われる可能性だってあったでしょうから。
決して、絶望のうちに自分が命を失ったわけではなく、
キリストに望みを抱き、
キリストと共にいることを喜んでいたことを
死の直前になるかもしれない手紙で
パウロはフィリピ教会の人びとに伝えました。
もしも自分の死の知らせを受け取ったとしても、
失望しないでほしいと願って。
そう考えると、パウロのこの発言は
特殊な状況の中で出てきたものといえるでしょう。
日常的な会話の中で、
「生きるか、死ぬかで言ったら、
キリストと共にずっといられるんだから、
死の方を選びたいよ」と言って、
パウロが死を望んでいるわけではありません。
自らの命を断つことはしないまでも、
死が早まることを願っていた、というわけでもありません。
死がすぐそこに迫っていると感じたから、
パウロは自分の死について思い巡らし、
たとえ今回は免れたとしても、
やがていつかは必ず訪れる
自分の死とパウロは向き合いました。
死の恐怖はあったと思います。
死はパウロの理想を潰し、
パウロを敗北者にするもののように
感じたかもしれません。
でも、迫りくる死は、彼から希望を奪えません。
キリストと共にいることを奪うこともできません。
その確信を込めて、パウロは
「私にとって、生きることはキリストであり、
死ぬことは益なのです」(21節)
と書いたのだと思います。
勘違いしてはいけないのは、
この時のパウロの心からの願いは、
この世を去ることではありません。
キリストと共にあることです。
生きることにおいても、死ぬことにおいても、
キリストと共にいることが出来る
とパウロは確信していました。
だから、ある意味で、
この時のパウロにとって
生きることと死ぬことは
対立したものではありませんでした。
でも、パウロにとって、問題であったのは、
自分がいなくなってしまった後の
フィリピ教会のことです。
フィリピ教会の人びとに
もっと伝えたいことがパウロにはありました。
自分にはフィリピ教会のために
できることがもっとあると思っていたことでしょう。
だから、パウロは生きることを願いました。
いつ訪れてもおかしくない自分の死と向き合い、
死によっても、希望は決して消えることがないことを
思い起こしながら、
それでも、パウロは生きることを願い続けました。
その意味で、パウロは決して、自分の命を軽く見て、
「死ぬことは益なのです」と言ったわけではありませんでした。
そのため、わたしたちは、
復活の命があるのだから、
天の御国が将来与えられているのだからといって、
この地上での命を軽く見るようには
決して招かれていません。
もしも死が、わたし個人のみの問題であるならば、
もしかしたら、それでも良いのかもしれません。
でも、パウロにとって、
死はパウロ個人だけの問題ではありませんでした。
パウロとキリストとの関係と、
パウロとフィリピ教会の人びととの関係が、
強く関係する問題でした。
死において、わたしたちとキリストとの関係が
なくなることはありません。
生きることにおいても、死においても、
キリストは共にいてくださる方です。
でも、フィリピ教会とパウロの関係は、
パウロが死を迎えた時に強制的に断たれてしまいます。
死者と、死んだ者と誰も交わりを持つことは出来ないからです。
自分自身の死の影響は
とても大きいとパウロは考えていました。
だから、自分の死によって悪い影響が出ないように、
フィリピ教会のために出来ることをしたい、
出来る限りのことをしたいと、
パウロは強く願いました。
出来る限りのことをしたならば、
神が最終的に責任をもってくださる。
そして、復活の日には、
死によって失われた関係性を
神が回復してくださるとパウロは信じていました。
悲しいことに、現代社会は
死をとても個人的なものとして扱い、
多くの人から見えなくしています。
新型コロナ・ウイルスによる影響で、
長い間病院への訪問ができない期間が長くあったため、
その傾向は更に進んでいるように感じます。
でも、だからこそ、わたしたちは、交わりの中で生き、
交わりの中で死を見つめ、
交わりの中で死を迎えたいと願います、
死を覆い隠せば、個人的なものにしてしまえば、
死に触れる機会は減り、悲しみは減るかもしれません。
けれども、交わりの中で生きることに喜びがあります。
人は一人で生きていける存在として造られていないからです。
すべての人に必ず訪れるものだから、
死を、信仰をもって、
この交わりの中で見つめたいと思うのです。
キリストに結ばれている仲間たちと共に、
復活の希望を見つめながら、
死によって関係が一度断たれたとしても、
復活のときに、必ず神がこの交わりを
回復してくださるという希望に立ちながら。
それがキリストに結ばれているわたしたちにとっての、
死を見つめる方法です。