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朗読箇所

三位一体後第10主日

旧約 ルツ記1:15−18


15 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」
16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
17 あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
18 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。


新約 フィリピの信徒への手紙1:27−30


27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

説教

わたしたちはなぜ集まり続けるのか?

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    パウロの時代、キリストを信じて生きる人びとは、
    圧倒的に社会的なマイノリティ、少数者でした。
    パウロが手紙を送ったフィリピ教会の人びとも、
    フィリピの町において、マイノリティでした。
    フィリピは、ローマの植民都市であり、
    一線を退いたローマの軍人たちが集う町でした。
    そのため、フィリピで暮らす人びとにとって、
    ローマの神々が礼拝されるのは当然のことでした。
    ローマ皇帝は「主」と呼ばれ、崇められていました。
    彼らにとってローマ的な生き方は当たり前のことですし、
    ローマとの結びつきは大きな喜びでした。
    フィリピにいるキリストを信じる人びとは、
    そのような文化の中で生きていました。
    彼らがキリストを信じて生きている限り、
    フィリピの町の中で、彼らは異質な存在でした。
    というのも、キリストを信じている人びとは、
    皇帝を主と崇めることをしません。
    「イエス・キリストこそがわたしたちの主である」
    と彼らは告白していました。
    キリストを信じる彼らは、
    ローマの神々を礼拝することもしません。
    また、彼らは日曜日の早朝に、
    集まって何かをしている様子でした。
    そんな風に、ローマ的なフィリピの社会において、
    キリストを信じる人たちは、少し浮いた存在でした。
    社会の中で、他とは違う存在であることは、
    小さな嫌がらせにあう原因にもなります。
    周囲の人たちから奇妙がられ、
    避けられた経験があったかもしれません。
    そういったことの積み重ねが、
    フィリピ教会の人びとにとって、
    信仰を捨てることにもなり得たかもしれません。
    信じていることをできる限り薄めて、
    ローマ的に生きる誘惑は、
    常に彼らの日常の中に潜んでいました。
    キリストを信じていることは
    もう心の中にそっとしまい込んでおいて、
    ローマ人のように生きてしまえば良いじゃないか。
    それが楽な生き方のように感じられたことでしょう。

    そのような危険を感じ取ったからこそ、
    パウロはフィリピ教会の人びとに向かって、
    「ひたすらキリストの福音に
    ふさわしい生活を送りなさい」(27節)
    という、勧めの言葉を語りかけました。
    パウロは通常、「歩き回る」という意味の単語を使って、
    日常生活を送ることを表現します。
    でも、フィリピ教会に対しては違う言葉を選びました。
    パウロは「生活を送りなさい」と言う時、
    ローマの都市を意味するポリスの動詞形を使いました。
    つまり、「ポリスに生きる市民として生活をしなさい」と。
    このパウロの言葉に「キリストの福音にふさわしい」
    という言葉がついていなかったなら、
    フィリピの町でローマ人らしく
    生活を送るようにしたら良いよ
    というアドバイスのように聞こえます。
    でも、パウロは「ローマ人らしく」生きることや、
    「フィリピで生きる人らしく」生きることを
    フィリピ教会の人びとの
    生きる基準や指針として紹介していません。
    キリストを信じ、キリストに結ばれている
    フィリピ教会の人びとにとって、
    生きる上での基準や指針となるものは、
    キリストの福音ですよ、とパウロは伝えています。
    キリストがどのように生きたか。
    イエスさまがどのように愛や憐れみを示して生きたのか。
    どのように平和や正義を求めて生きたのか。
    何に喜び、何に悲しみを抱いたか。
    そういったことを心に刻んで、
    キリストの福音にふさわしく
    フィリピで市民生活を送りなさいと、
    パウロはフィリピ教会の人びとに勧めました。

    パウロがこのように勧めるのは、
    キリストに結ばれている人びとは、
    フィリピにおいて市民権を持ちつつ、
    天の御国に市民権、つまり天における国籍を持っている
    という確信をパウロが持っていたからです。
    天に国籍を持っているという事実を決して忘れることなく、
    フィリピでの生活を送って欲しいと
    願ったからに他なりません。
    ただ、キリストの福音を生きる上での指針として持ち、
    天に国籍を持ちながら、フィリピで生きることは、
    フィリピ教会の人たちの毎日に
    葛藤や苦しみを生んでいたことは間違いありません。
    フィリピで生きる他の人たちのように
    日常生活を送れる場面はいくつもありました。
    でも、その一方で、
    彼らと同じようには生きられないことも
    何度も経験してきました。
    まさに、地上での国籍と天における国籍、
    そのふたつの国籍の間で彼らは葛藤していました。
    この葛藤や日々の生活の中で出会う嫌がらせや、
    キリストを信じているからこそ出会う衝突などが、
    フィリピ教会の人びとが抱えている苦しみでした。
    フィリピ教会の人びとがそのような緊張の絶えない状況に
    置かれていることを知っているからこそ、
    パウロはキリストの福音にふさわしく
    生活を送っていくことを励ましたのだと思います。

    ただ、パウロはこの勧めの言葉を
    個人的なものとしては書いていません。
    フィリピ教会の人たちが
    キリストの福音に基づいて生きようとするからこそ
    抱えることになった葛藤や苦しみを、
    彼らの個人的な問題としてパウロは考えませんでした。
    だから、パウロはフィリピ教会の人たちが
    キリストの福音に基づいて生活を送るならば、
    良い報告が聞けることを知っていると伝える際、
    フィリピ教会が共に支え合う姿を描きました。
    「あなたがたが
    一つの霊によってしっかりと立ち、
    福音の信仰のために心を一つにして共に戦っており、
    どんなことがあっても、
    敵対者たちにひるんだりはしない」(27−28節)
    とパウロは書いています。
    パウロは、日々の生活の中で抱える苦しみや葛藤を
    ひとりで孤独のうちに抱えるものとしては考えていません。
    フィリピ教会の人たちが「共に戦う」ものと考えています。
    フィリピにローマの退役軍人たちがたくさんいたため、
    パウロは軍事的な用語を意識的に使っています。
    そのため、「戦う」という言葉が選ばれたのでしょう。
    パウロが伝えたいのは、フィリピ教会に集う人たちが
    苦しみや葛藤をひとりで抱え込むのではなくて、
    お互いにその葛藤や苦しみを背負い合って、助け合って、
    信仰の旅路を歩み抜いて行くことです。
    パウロは、そのようにして
    苦しみを担い合って歩みなさいとは言いません。
    キリストの福音に基づいて生活をする
    フィリピ教会の人たちは、
    既にそのような教会であると信頼しています。
    お互いのことを気遣い合い、
    苦しみや葛藤を一緒に担いあっていける交わりが
    すでに築かれていると信じています。
    そして、彼らが聖霊においてひとつに結ばれて、
    しっかりと信仰に立ち続ける未来を想像して
    パウロは喜んでいるのです。

    時代が変わっても、文化が違っても、場所が違っても、
    キリストを信じ、キリストに結ばれている信仰者たちは
    この葛藤や苦しみを抱え続けています。
    わたしたちも今この時代、この国で、この地域で暮らしながら、
    同時に、天の御国に国籍を持って生きています。
    イエスさまがどのように生きたのかを思い起こしながら、
    日常生活を送る時、イエスさまが望んだように、
    愛や憐れみを広げていけない、
    平和や正義を実現することができない、
    そんな葛藤があります。
    その上、キリストを信じて生きるという選択そのものが、
    家族や周囲との摩擦を生むことだってあります。
    だからこそ、この社会の中でマイノリティとして生き、
    この世界の基準とキリストの福音との間で葛藤し、
    苦しみを抱えるわたしたちも、
    フィリピ教会が苦しみや葛藤を分かち合い、
    背負い合い、手を取り合って信仰の旅路を歩んだように、
    葛藤や苦しみを分かち合って、
    お互いに支え合っていくことが必要です。
    それは、わたしたち教会が
    毎週のように集まり続けることの理由のひとつです。

    わたしたち人間は、誰もが忘れることが得意です。
    葛藤や苦しみを抱える時、
    大切なことをあまりにも簡単に忘れてしまいます。
    キリストの福音に基づいて、
    イエス・キリストを人生の指針として生きていこうという
    パウロが語りかけた言葉を忘れてしまいます。
    神がわたしたちを愛し、慈しみ、
    天の御国の国籍を与えてくださっているということを
    忘れてしまいます。
    パウロが語りかけたように、わたしたちが抱く苦しみは、
    キリストの苦しみであることも、
    キリストがわたしたちの声に耳を傾け、
    わたしたちの苦しみを
    一緒に担ってくださることさえも忘れてしまいます。
    教会の交わりに足を運び続けることは、
    わたしたちにそのような大切なことを
    思い起こさせてくれます。
    神の前に集うこの交わりが
    キリストをわたしたちに向かって指し示し、
    忘れてしまいがちな大切な事柄を思い出させてくれるのです。
    この交わりこそが、神の愛を告げ、神の恵みの喜びを教え、
    天の御国への希望を思い起こさせてくれるのです。
    だから、わたしたちは集まり続け、
    共に神を礼拝し、パンと杯を分かち合い、語り合います。
    共に苦しみや葛藤を担い合い、祈り合い、励まし合いながら、
    わたしたちは天の故郷へ向かって旅を続けていきます。
    この旅に加わる特別な条件や資格などありません。
    神が既にすべての人に向かって呼びかけているのですから、
    その呼びかけに応えて、
    ただキリストの後に従って歩み出せば良いのです。
    わたしたちが神の前に集まり続けることは、
    神の恵みに溢れるこの信仰の旅に
    わたしたち自身が加わり続けることを
    きっと、そっとあと押しし続けてくれるはずです。

週報より

  • 2023.08.13 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に月報『モレノ』の編集会をおこないます。
    モレノ・チームのみなさま、よろしくお願いします。
    今回のみの参加も大歓迎です。
    モレノ・チームは、みなさまのご寄稿をいつでもお待ちしています。
    絵、写真、原稿など、なんでも、お気軽にご寄稿ください。
    また、今回からモレノの製本日を日曜日の礼拝後に変更してみます。
    来週の礼拝後に製本をおこないますので、
    ご協力いただける方はよろしくお願いします。

    ② あしたから木曜日まで、基嗣牧師は夏季休暇をとります。
    家族で京都へ帰省する予定です。
    小山には木曜日の午後に戻る予定です。
    緊急の連絡は教会のメールアドレス、LINE、
    牧師個人の携帯にお願いします。

    ③ 8月は青年日月間です。
    青年会の活動のための献金にご協力お願いします。
    献金袋は受付テーブルにあります。

    ④ 9月17日は教会全体会を開きます。
    教会への要望、取り組みたいこと、将来の夢、ビジョンなど、
    みんなで話し合いたいことがありましたら、牧師にお知らせください。
    当日の出席をぜひご予定ください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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