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朗読箇所

三位一体後第12主日

旧約 イザヤ書57:14−21

◆へりくだる者の祝福
14 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
15 高く、あがめられて、永遠にいまし
その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。
16 わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように
わたしの造った命ある者が。
17 貪欲な彼の罪をわたしは怒り
彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。
18 わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ
慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために
19 わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
20 神に逆らう者は巻き上がる海のようで
静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。
21 神に逆らう者に平和はないと
わたしの神は言われる。


新約 フィリピの信徒への手紙 2:1−11

◆キリストを模範とせよ
1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

説教

教会が歌い続ける理由

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    少なくとも6曲の賛美歌を
    わたしたちは毎週日曜日に礼拝の中で歌っています。
    なぜこんなにも教会は、
    礼拝を通して歌い続けるのでしょうか。
    礼拝とはそういうものだから?
    賛美歌を歌うことを通して、
    わたしたちが何を信じているかを知るため?
    歌うことが好きだから?
    神をたたえて生きることが
    信仰者の生き方だから?
    賛美歌を歌うことを通して、
    神に心を向け、神に祈ることが出来るから?
    いろいろな答えが返ってきそうですね。

    わたしたちの礼拝に
    賛美歌を歌うことが欠かせないように、
    パウロにとっても
    賛美歌を歌うことはとても大切なことでした。
    かつてパウロがフィリピの町で捕まり、
    牢屋に入れられたとき、
    パウロは一緒に投獄されたシラスと共に
    神を賛美する歌を夜中に、
    牢獄の中で歌いました(使徒16:25)。
    結果的に、パウロとシラスはすぐに釈放されましたが、
    捕らえられ、鎖で繋がれていたそのときは、
    これから自分たちがどのように扱われるのか
    わからない状況に置かれていたのですから、
    牢獄の中で過ごす夜は彼らにとって、
    不安や恐怖を覚えるものであったことでしょう。
    そんなとき、彼らは賛美歌を歌うことを知っていました。
    気を紛らわせるために歌ったわけではありません。
    賛美歌を通して歌われている、
    神への感謝と賛美を心に抱き、
    神がかつて信仰者たちに伸ばしてくださった
    救いのわざを思い起こし、
    神に希望を置き、
    神を信頼することを思い起こすために、
    彼らは賛美歌を歌ったのでしょう。
    信仰者が賛美歌を歌うことによって
    どれほど励ましを受けるか
    どれほど慰めを受けるか。
    パウロは自らの経験を通して
    よく知っていたのだろうと想像できます。

    このような経験があったからでしょうか。
    パウロはフィリピ教会の人びとに、
    へりくだって生きることを教えるとき、
    説明することをしませんでした。
    教会の交わりを深めていくために、
    争い合ったり、競い合ったり、
    陰口を言ったり、
    相手を無視したりするんじゃなくて、
    相手のことをもっと尊重して、
    お互いにへりくだる交わりを築いていきなさい。
    自分に注目が集まることばかり願ったり、
    自分が楽しいことばかりを求めるのではなくて、
    目の前にいる人が何を考え、
    何を喜び、何を必要としているかを想像して、
    共に生きる人びとに仕える生き方こそが重要なんです。
    イエスさま自身もそのようにして生きました。
    誰に対しても、イエスさまはしもべのように生きました。
    誰に対しても、へりくだりました。
    それが教会の交わりのあり方なのではないですか?
    といったように、たくさんの言葉を重ねて
    フィリピ教会の人びとを説得しようとはしませんでした。
    パウロは、へりくだりについて最低限の説明をした後、
    「互いにこのことを心がけなさい。
    それはキリスト・イエスにも見られるものです」と書いて、
    賛美歌を引用し始めます。
    たくさんの言葉を重ねて説明するよりも、
    キリストを見つめて歌う賛美歌を
    一緒に歌うことこそが、
    へりくだりとは何であるかを知り、
    フィリピ教会に集う信仰者たちの交わりや
    彼らの信仰の旅が豊かになる上で、
    重要なことだとパウロは考えたのでしょう。

    パウロが引用した賛美歌は、
    当時の教会が歌っていた賛美歌かもしれませんし、
    パウロ自身が作ったものかもしれません。
    この賛美歌がどこから来たかはさておき、
    パウロはなぜこの賛美歌を
    フィリピ教会へ宛てた手紙の中で
    引用したのでしょうか。
    へりくだって生きることや、
    その模範としてのイエス・キリストについて
    詳しく説明することを選ばず、
    賛美歌を引用したのはなぜなのでしょうか。
    きっと、パウロはこの賛美歌を
    フィリピ教会の人びとに
    一緒に口ずさんでほしかったのでしょう。
    教会の交わりにとって、
    そしてキリストを信じる者にとって、
    この賛美歌で歌われていることが
    とても重要だとパウロが確信していたからです。
    そして何よりも、パウロが事細かに説明するのではなく、
    賛美歌を引用することにとどめたのは、
    信仰とは、また信仰者同士の交わりとは、
    頭で理解することだけが重要ではなかったからでしょう。
    たしかに、知識はわたしたちの日常の歩みを豊かにします。
    知識は、わたしたちが何を信じているのかを説明し、
    わたしたちを納得させ、わたしたちに確信を与えます。
    目の前の相手だ誰であるのか、情報としてよく知ることは、
    どのようなコミュニケーションが
    適切なのかを考える材料にはなるでしょう。
    でも、神を信じて生きることは、
    頭で考えることだけではありませんね。
    仲間や愛する人たちと共に生きることは、
    情報のやり取りとは違いますね。
    わたしたちの信仰や、わたしたちの教会における交わりは、
    温かな血の通ったものです。
    信仰は、知識だけで片付けられるものではなく、
    わたしたちの生き方に、
    わたしたちの生活と人生のすべてに関係があります。
    教会の交わりは、情報の伝達ではなく、
    語り合い、励まし合う、生き生きとしたものです。

    信仰や信仰に基づいた生き方は、
    頭の中で片付けられるものではないからこそ、
    パウロは賛美歌を引用したのだと思います。
    歌はわたしたちの身体を必要とします。
    口を開き、喉を揺らし、
    言葉に乗せて、メロディーを紡ぎます。
    自分の歌声は、自分の耳にも届きます。
    時には、その歌の内容に、心が震えます。
    そして、繰り返し歌う時、
    歌はわたしたちの生活に浸透します。
    日常の何気ない瞬間、音楽が心に響きます。
    気づけば、鼻歌を歌い出します。
    昼も、夜も、時間を問わず、
    歌はわたしたちと共にあることができます。
    場所を問わず、思い起こすことができます。
    わたしたちの存在のすべてに、
    わたしたちの生活のすべてに、
    行き渡り、浸透することができるのが、
    賛美歌でした。
    信仰者の生き方に、人生のすべてに、
    教会の交わりのあらゆる場面に、
    キリストの道が広がっていくことを願ったから、
    パウロはキリストのへりくだりを歌うこの賛美歌を
    フィリピ教会の人々に届けたのではないでしょうか。

    パウロがこの賛美歌を通して伝えるのは、
    キリストの物語です。
    でも、イエスさまがどのように生きたかを
    この賛美歌は事細かには歌いません。
    この賛美歌が集中して歌うのは、
    「神の形」から「僕の形」になったことです。
    人間となって地上で生活をし、
    すべての人々に仕えようとして生きた神の子は、
    最終的に十字架の死に向かって歩んでいく。
    神のもとにいたキリストが
    下へ、下へと降っていったことを
    この賛美歌は歌っています。
    イエスさまのこの徹底的なへりくだりの意味を
    この賛美歌は事細かには説明しようとはしません。
    わたしたちはすぐに意味を知りたがりますが、
    教会の交わりの中で歌われながら、
    日常生活の中で、昼も夜も口ずさみながら、
    キリストのへりくだりと
    向き合い続けることこそが狙いなのかもしれません。

    失望の中にあるとき、
    この賛美歌はわたしたちに語りかけます。
    キリストが高き所から、最も低い所まで降ってくださった、と。
    自分では何も出来ない、どうしようも出来ない、
    そんなわたしのいる低き所まで、
    キリストは来てくださっていることを
    この賛美歌は伝え、わたしたちに慰めを与えます。

    教会の交わりの中で悩むとき、
    この賛美歌はわたしたちに語りかけます。
    キリストこそがへりくだってくださった。
    キリストがその模範を示してくださった。
    キリストは、立場を問わずにすべての人を受け入れ、
    見返りもなしに、愛と憐れみを示してくださった。
    キリストに受け入れられているように、
    わたしたちも互いに受け入れ合いたい。
    そのように、この賛美歌はわたしたちを励まします。

    この賛美歌を通して、パウロがキリストを示したのは、
    教会の交わりだけのためではありませんでした。
    キリストがへりくだるとき、
    キリストが仕えたのは、
    自分を慕って一緒に旅をする
    弟子たちだけではありませんでした。
    自分を主と呼ぶ信仰者たちだけではありませんでした。
    キリストが仕えたのはすべての人です。
    すべての人にへりくだる姿を示し、
    すべての人をキリストの前での
    へりくだりへと招いています。
    現実は、色々な立場の違いや不平等が広がっているけれど、
    神の前においては、誰もが平等な存在です。
    教会の交わりはその事実を映し出すものでありたいですし、
    教会の交わりの外においても、
    誰もが平等に扱われ、お互いに尊重し合って生きられる
    そんな現実が広がっていくことを
    わたしたちが抱くことをこの賛美歌は励ましています。

    さて、パウロはなぜこの賛美歌を
    フィリピ教会の人びとに紹介したのでしょうか。
    それはまさに、教会が歌い続けるためだったでしょう。
    賛美歌を歌い続けることによって、
    わたしたちはキリストを思い起こします。
    日常の中で、交わりの中で、
    口ずさみ続けることによって、
    頭の中だけでなく、心の中に、
    生活の中に、人生のすべての瞬間に、
    わたしたちはキリストの道を刻み込みます。
    昼も、夜も、時間を問わず、
    そして場所も問わず、
    賛美歌は、教会の歌声は、
    わたしたちの日常のただ中で響き出します。
    教会の歌声によって神の救いのわざを思い起こし、
    教会の歌声によって励まされ、慰めを受け、キリストを示されて、
    わたしたちはこれからも御国へ向かう旅を続けていきます。
    これからも賛美歌がみなさんの心に響き、
    日常の一歩一歩の歩みの中に染み渡っていきますように。

週報より

  • 2023.08.27 週報より抜粋・要約

  • ① 月報『モレノ』9月号が完成しました。
    寄稿・投稿してくださった方、製本・編集に加わってくださった方、
    ありがとうございました。
    表紙・裏表紙の絵、挿絵、写真、原稿などを募集しています。
    手渡しでも、データでも受け付けています。
    なんでも、お気軽にご寄稿ください。 

    ② 8月は青年日月間です。
    ナザレン教会の青年会の活動のための献金にご協力お願いします。
    献金袋は受付テーブルにあります。

    ③ 9月17日は教会全体会を開きます。
    教会への要望、取り組みたいこと、将来の夢、ビジョンなど、
    みんなで話し合いたいことがありましたら、牧師にお知らせください。
    当日の出席をぜひご予定ください。

    ④ 来週の礼拝後に月例教会役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いします。

    ⑤ パキスタンの支援にご協力お願いします。
    8月16日にパキスタンで暴動が起き、
    キリスト教会やキリスト教関係施設やキリスト教徒の家が破壊されました。
    被害にあった地域に住む方々の支援を
    わたしたちの教会はダウドさんとそのご家族を通してすることが出来ます。
    先週集まった11,000円はダウドさんのご家族が行う
    1度目の支援に用いられる予定です。
    支援金はきょうまで集めますが、
    きょうの分は2度目の支援で用いられる予定です。
    支援にご協力いただける方は、受付テーブルの上の箱にお願いします。
    また、パキスタンの地での平和のためにも覚えてお祈りください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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