説教者 稲葉基嗣 牧師
きょうのパウロの言葉を聞いて、
首を傾げたくなったのは、わたしだけでしょうか?
パウロはフィリピ教会の人たちに宛てた手紙の中で、
「自分の救いを達成するように
努めなさい」(12節)と書いています。
神が聖書を通してわたしたちに宣言する救いって、
わたしたちの努力によって
手に入れるものだったのでしょうか?
いいえ、神はわたしたちが誰であるのか、
わたしたちに何が出来て、何が出来ないのか、
わたしたちが何をしたのかなど関係なく、
わたしたちに愛と憐れみを注ぎ、
主キリストにあってわたしたちを
罪から救い出してくださったと
わたしたちは信じています。
一方的な神の恵みによって、
救いは、贈り物としてすべての人のもとに訪れ、
わたしたちは神の子どもとされています。
でも、きょうのパウロの言葉は、
それと正反対のものに感じます。
自分の救いを達成するように努めなさいと、
まるでわたしたちのとった行動によって、
わたしたちの救いが完成するような印象さえ受けます。
神によって成し遂げられた救いの業に、
わたしたちの側が何かを
付け足す必要があるとでも言うのでしょうか。
パウロが言いたいのはもちろん、
そのようなことではありません。
わたしたち自身の行動によって
神がわたしたちを救うか、救わないか、
神の意志が変わるわけではありません。
わたしたちの行動によって、
救いのレベルだとか、天の御国での立場が
変わるといったものでもありません。
パウロが言いたいことは、
1章27節で彼がフィリピ教会の人びとに
「ひたすらキリストの福音に
ふさわしい生活を送りなさい」と
既に伝えていたことです。
キリストを通して救いを得たという事実を
新約聖書は「福音」と呼んでいますが、
キリストを通して既に起きた出来事は、
単に過去に起こった喜ぶべき出来事ではなく、
今のわたしたち自身の生き方に
大きな影響を及ぼすものだとパウロは伝えています。
そう、救いを与えられたわたしたち自身は、
その救いをあずかっている現実を
どのように生きるのかを神から委ねられています。
キリストの福音にあずかっている者らしく生きるのか、
そんなの関係なく、これまでと何も変わらない生活を送るのか。
ある意味で、わたしたちは自由に選べます。
だからこそ、その救いの現実が
心の中に留まるだけでなく、
人格と生活のすべてに、
外へ外へと広がっていくことをパウロは願いました。
福音とパウロが呼ぶ、キリストによって実現された救いを
あなた自身の心と存在とその生涯を通して受け止めて、
今この時、そしてこれからも、
キリストによって変えられた
この救いの現実の中を生きてほしい。
このように、パウロは言葉を変えて、
フィリピ教会の人たちに向かって、
再度呼びかけているのです。
パウロはフィリピ教会に集う一人ひとりの信仰者たちが、
その個人の生活において福音にふさわしく生きること以上に、
フィリピ教会の交わりが福音にふさわしく、
救いの現実を生きるものであってほしいと願っています。
教会の交わりがキリストの福音を
反映していたものであることを、
パウロは強く願っています。
キリストが与えてくださったものを
この交わりの中で、発見し、その発見を喜んで、
そして味わってほしいというのがパウロの願いです。
イエスさまはわたしたちに何を与えてくださっているのでしょうか。
それは、愛であり、憐れみであり、慰めです。
また、平和であり、喜びであり、希望です。
フィリピ教会が福音にふさわしく生きるならば、
救いの現実を生きることに努めるならば、
彼らは交わりの中でキリストの愛や憐れみや慰めを
見出すことができます。
キリストを通して与えられたものを
お互いに分かち合いたいと願うからです。
そのようにして、教会の交わりの中に平和や喜びや希望が
ますます広がっていくことをパウロは思い描いています。
んー、パウロはなかなか無理難題を
語っているようにも思えてしまいますね。
けれども、キリストを通して
すべての人の救いを成し遂げてくださった神によって、
教会の交わりはそのようなものになれると
パウロは信じています。
たしかに、不平不満や、誰かを見下す思いや、
お互いをけなしあったり、自分中心であることは、
フィリピ教会の中にもあったでしょう。
でも、そんな現実を乗り越えて、
お互いにへりくだり、相手を尊重する交わりを
形作っていくことができると、パウロは信じています。
それは、神が教会に集う一人ひとりに働きかけて
一人ひとりを新しく造り変えることが出来る方だからです。
パウロはとても前向きに
この確信をフィリピ教会の人びとに伝えています。
「キリストの福音によって実現する出来事を
わたしたちは教会の交わりの中で体験し、
味わうことができる。
そんな実現が困難に思えることが
神の働きによって実現する。
キリストの福音があなたの心を動かし、
神があなたに思いを与えるならば、
それは実現へと向かって行く。
だって、神がその思いを
あなたに与えたのだから」というように。
パウロはキリストの福音が
教会に集う一人ひとりを変えて、
教会の交わりを変えていくことを信じています。
パウロはこう書いています。
とがめられるところのない純真な者となり、
ゆがんだ邪悪な時代にあって、
傷のない神の子どもとなって、
この世で星のように輝き、
命の言葉をしっかり保つでしょう。(2:15−16)
今、フィリピ教会に集う人たちが、
このような存在であるとパウロは言っていません。
少しずつ、神によって、
このように変えられていくという希望を
パウロはフィリピ教会の人びとに、
そしてこの手紙を読むわたしたちに伝えています。
神は共同体をあるべき姿へと回復してくださる方です。
神が願うその姿に向かって、教会は歩んでいます。
もちろん、このように語ることによって、
パウロは教会を理想的なものとして
描いているわけではありません。
教会にはいろいろな人が集まるわけですから、
教会が問題を抱えないわけがありません。
神はすべての人を分け隔てなく
教会へと招いているのですから、
特定の人が集まるグループよりも
たくさんの問題が教会には集まってくることでしょう。
でも、パウロは、キリストの名の下に集まってくる
この教会という交わりの中に神の力が働くと信じています。
ここに集う人びとに神が愛と憐れみを注ぎ、
ここに集う人びとを神が新しく造り変え、
ここに集う人びとを神が少しずつ、
地上の星のように輝かせてくださると
パウロは信じています。
パウロにとって、教会の交わりは
地上に輝く星のような存在です。
というのも、ここに集う人びとを生かす命の言葉を
神は語りかけ、新しく生きるようにと
神が励ましてくださっているからです。
神は命を与え、その命を豊かに輝かせてくださる方です。
だからこそ、神から命の言葉を
語りかけられている教会の交わりが、
この命の言葉を喜んで生きるならば、
それは、この世界に光を放つことになるのです。
キリストが示された憐れみや正義に生きるならば、
平和を追い求めるならば、
フィリピの教会はこの世界の光となりうるというのが、
パウロの強い確信です。
そして、パウロのこの言葉は、
時代や文化を越えても、同じです。
わたしたちは、小山市において、
この世界の光となりえます。
いいえ、わたしたちに命の言葉を与えた神は、
既に、わたしたちを輝かせ、
この世界の光としてくださっています。
そうです。
ここに集うみなさんは、福音の光をこの世界に放つ、
地上に光り輝く星なんですね。
それは何だか、とっても不思議なことのようにも思えます。
だって、この世界を福音の光で照らしたいと願う神は、
もっと効率の良い方法で
福音の光を広げることが出来るように思えるからです。
すべての権力者のもとにイエスさまが訪れて、
国民すべてがこのように生きるようにと宣言する、
というような形で福音の光を広げる方が
効率が良いように思えます。
でも、神はそのような方法を願いませんでした。
神がこの世界を照らそうと考える方法は、
とても小さな存在であるわたしたちを通してです。
それは、片隅にいる人びとに、小さくうずくまっている人びとを、
神が福音の光で照らしたいからなのでしょう。
ここから、この場所から、この教会の交わりから、
神はこの世界を照らし出そうとしています。
この交わりに集うわたしたちを
少しずつキリストに似たものへと変えて、
少しずつ福音の光を放つものへと変えて、
神はわたしたちを通して、この世界を照らし出します。
それはキリストの愛や憐れみを通して変えられた
わたしたち自身が放てる輝きです。
また、それは、神がわたしたちに働きかける際に輝く
恵みに満ちた光です。
福音の光の輝きは、キリストの福音を受け止めた、
わたしたちが集うここから始まるのです。