説教者 稲葉基嗣 牧師
きっと誰にとっても、
新しい場所で温かく迎え入れられ、
歓迎されることはとても嬉しいことだと思います。
歓迎してくれる相手が、
よく知って慣れ親しんだ人たちであっても、
それは同じでしょう。
お帰りと笑顔で受け入れられるのは、
とても嬉しいことです。
きょう読んだ箇所で、
パウロもきっと同じように考えていたと思います。
パウロはふたりの人物を送り出す計画を
フィリピ教会の人びとに伝えています。
どうかこのふたりをそのように温かく
教会の交わりへと迎え入れてほしいと、
パウロはフィリピ教会の人たちにお願いしています。
パウロがフィリピ教会の人びとのもとへと
送り出そうと考えていた人物のひとりはテモテです。
彼はパウロと一緒に福音を伝える旅をしていた、
パウロの大切な仲間です。
テモテはパウロにとても信頼されていて、
パウロが直接出向くことが難しいとき、
パウロに代わって教会へと派遣されることもありました。
それは、パウロが行けない代わりに
いろいろな教会へ足を運んで、
その教会の情報を集めてくる
といったものではありませんでした。
パウロはテモテにそれ以上のことを任せています。
テモテは、パウロが伝えたその教えに、
教会に集う人びとが留まることを励ますために、
教会を教え、導く働きをしました。
また、教会が抱えた困難な問題に
向き合うことだってありました。
このように、テモテはパウロからとても信頼されている、
パウロの福音宣教の同労者でした。
そんなテモテのことを
フィリピ教会の人びともよく知っていました。
というのも、かつてテモテはパウロと共に
フィリピを訪れたことがあったからです。
ですから、テモテを遣わす計画を立てているという、
パウロのこの言葉は、とても自然なものとして
フィリピ教会の人たちに受け止められたでしょう。
テモテがフィリピ教会の人びとのもとへと
遣わされてくるのは、教会を助けるためでした。
問題を抱えているならば、その問題に対処するために。
パウロが伝えた福音を忘れているようならば、
その福音のメッセージをしっかりと届けるために。
テモテはフィリピ教会へと遣わされる予定です。
それともうひとつ、
テモテが遣わされる大切な理由がありました。
それは、フィリピ教会の人びとが一番気にしている、
パウロの様子を彼らに知らせるためでした。
「私は自分のことの見通しがつき次第すぐ、
テモテを送りたいと願っています」(2:23)
と書いているように、
パウロは投獄されている自分が
この先どうなるのかわかったら、
そのことをテモテが知らせに来ると伝えています。
ですから、投獄されたパウロの生死という
とても重要な情報を伝えるために、
テモテはフィリピ教会へやって来る、ということです。
フィリピ教会の誰もが
パウロの身を案じていました。
だからこそ、そんなパウロについての知らせを携えて
エフェソからやって来るテモテが
歓迎されないはずはありませんでした。
テモテがパウロの死を知らせに来たならば、
フィリピ教会にとってテモテは、
これから頼るべき指導者です。
また、彼がパウロの釈放を知らせるならば、
テモテは嬉しい知らせを持ってきてくれた人物です。
テモテは歓迎を受けることが間違いのない人物でした。
もう一人の人物についてはどうでしょうか。
パウロが送り出す予定の、
それもテモテよりも先に送り出す予定の
もう一人の人物は、
エパフロディトという人です。
あまり聞き覚えのない名前ですね。
それもそのはずです。
彼はパウロがフィリピ教会に宛てた
この手紙にしか登場しないのですから。
そのため、情報はとても少ないのですが、
エパフロディトはパウロとフィリピ教会にとって
とても重要な人物でした。
この手紙の終わりの方を読んでみると、
エフェソで投獄されたパウロを支援するために、
フィリピ教会を代表してエパフロディトが
パウロのもとを訪れたことがわかります。
この当時、投獄された囚人には
食べ物が支給されたようですが、
それはとても僅かな量だったようです。
そのことを知っていたからこそ、
フィリピ教会の人びとは
エパフロディトにパウロの支援を頼み、
彼に手紙と十分なお金を持たせて、
彼を送り出しました。
フィリピ教会の人びとは、
パウロに十分な食事を提供することだけでなく、
投獄中にパウロが行いたいと願っている
さまざまなことを実際に助けて欲しいと願って、
エパフロディトをフィリピ教会の代表として、
パウロのもとに送り出したと思います。
エパフロディトを通じて物質的・金銭的な支援があり、
彼が来てくれたということは、
パウロの投獄中の生活にとって助けとなりました。
また何よりも、自分の働きを思い通りに出来ず、
不甲斐ない思いを抱え、落胆していたであろうパウロに、
大きな励ましと慰めを与えたことでしょう。
まさに、フィリピ教会との関係は
パウロにとって喜びを与えるものでした。
そんなフィリピ教会から派遣されてきた
エパフロディトはパウロの喜びでした。
ただ、エパフロディトにかんして起こった出来事が
これだけだったならば、感謝を伝えて、
エパフロディトをフィリピへと送り出せるのですが、
どうやらひとつトラブルが発生していたようです。
エパフロディトが瀕死の病を患ってしまったのです。
フィリピからエフェソまでの距離は、
陸路でおよそ730kmです。
単純計算で大人が歩いて1ヶ月ほどの距離ですが、
荷物の重さや旅先での食料の調達、
また天候などの影響を受けるため、
2ヶ月ほどはかかったかもしれません。
エフェソに向かうこの旅の途中で
病を患ったのでしょうか。
それとも、エフェソに到着してからでしょうか。
詳しい情報をパウロは明かしません。
エパフロディトの病について、
フィリピ教会に知らせが届き、
フィリピの人たちが心配しているという知らせを
パウロは受け取っていました。
だから、これ以上フィリピ教会の人びとに
心配をかけたくなかったからなのかもしれません。
それとも、フィリピ教会の人びとに
エパフロディトについて悪い想像を
させないためだったかもしれません。
いずれにせよ、この出来事が原因で、
エパフロディトは本人が願っていた通りの働きを
パウロのもとですることが出来ませんでした。
もちろん、パウロに手紙を届け、
パウロのために食料を調達するなどの
最低限の助けはできたでしょう。
でも、それはフィリピ教会の人びとや
エパフロディト本人が望んでいた
理想の支援とは違っていました。
だからこそ、彼は失敗したと感じ、
落胆し、自分に失望しました。
病気から回復したエパフロディトは
早くフィリピへ戻りたいと願い、
でも、同時に自分が帰ってきた時の
フィリピ教会の人びとの反応を想像し、
不安を感じていました。
そんなエパフロディトを近くで見ていたから、
パウロはエパフロディトをフィリピへと帰すとき、
彼がフィリピ教会で歓迎されることを願って、
この手紙を書いています。
パウロはエパフロディトの働きにとても感謝しています。
エパフロディトが瀕死の病気になったときは
確かに心配したけれども、
彼が落胆する必要などない。
本当にパウロにとって必要なことをしてくれたのだから、
気落ちする必要などない。
鎖に繋がれているときに、助けとなるために
長い旅路を歩いてエフェソまで来てくれたことは、
パウロにとって大きな励ましとなりました。
フィリピ教会の人びとの思いや祈りや愛情が
十分に込められた支援を届けてくれたため、
エパフロディトの旅は、パウロに喜びを与えました。
いや、そればかりでなく、エパフロディト自身が
その支援の贈り物として輝いて見えたはずです。
パウロはその感謝をフィリピ教会に伝えています。
どれほどエパフロディトが自分にとって
大きな存在であったかを
フィリピ教会の人びとに伝え、感謝しています。
そして何よりも、失意の中にあるエパフロディトを
大切に受け止めて欲しいと教会に伝えています。
フィリピ教会の人びとが願った
理想通りの働きができなかったエパフロディトについて、
彼を厳しい目で見て、
批判や非難をするのはとても簡単なことでした。
でも、失意の中にあるこの人を
愛をもって受け止めて、慰めてほしい。
悪いように想像し、
彼についての悪い噂が広がっていくことが
決してないように、配慮してほしい。
失意と落胆の中にある彼を
教会の交わりの中でどうか歓迎してほしい。
それがパウロの心からの願いでした。
このようにお願いすることによって、
パウロは教会の交わりが
愛をもってお互いに受け入れ合うものであることを
概念や思想として伝えるのではなく、
実際にフィリピ教会の人たちと
関係のあることとして伝えました。
パウロは、エパフロディトだけを
受け入れるようにとは言っていません。
29節でこう書いています。
だから、主にある者として大いに歓迎してください。
そして、彼のような人々を敬いなさい。(2:29)
何かを成し遂げた人を歓迎することは、
比較的、簡単なことです。
でも、挫折や失敗を経験したときこそ、
わたしたちは交わりの中で歓迎される必要があります。
愛され、慰めを受け、傷を癒やされる必要があります。
だって、エパフロディトがそうだったように、
挫折や失敗を経験した本人こそが、
自分自身を赦すことができないのですから。
後悔に苛まれてしまうのですから。
だからこそ、教会の交わりが
そのような時を過ごす人びとを
受け止める必要があるのではないでしょうか。
誰にだって、挫折や失敗は訪れる可能性があります。
失敗したらダメだ、
挫折したらもう立ち直れない
なんてことはありません。
挫折や失敗であなたの価値は決して損なわれないからです。
でも、わかっていても、すぐに立ち上がれるわけありません。
時間が必要です。
そして何よりも、傷を癒やし、
また立ち上がり、歩き出すために、
安心して帰ってこれる場所がわたしたちには必要です。
エパフロディトにとって、
それはフィリピ教会の交わりでした。
パウロはエパフロディトが安心して戻れるように、
フィリピ教会の人たちに教会の姿を
改めて思い出すようにお願いしました。
「主にある者として大いに歓迎してください」と。
主キリストに結ばれている者として、
主イエスに受け入れられたように、
お互いに受け入れ合うことを思い出してください、と。
イエスさまはあらゆる人を受け止めました。
傷ついた人びとや差別を受けている人びとを
まさに失意のどん底にある人たちを食事の席に歓迎しました。
性別も、社会的な立場も、年齢も、肌の色も関係なく、
誰もが平等に歓迎されました。
イエスさまはあらゆる人を受け止めました。
傷ついた人びとや差別を受けている人びとを
まさに失意のどん底にある人たちを食事の席に歓迎しました。
すべての人を別け隔てなく歓迎しました。
いや、むしろ、弱っている人たちこそ歓迎しました。
「それが教会の姿でしょ?」と、
パウロはエパフロディトを
歓迎してほしいと伝えることを通して、
今もわたしたちに語りかけています。
わたしたちもそんな教会の交わりであり続けたいですね。
イエスさまが愛し、受け入れてくださったことを
いつも思い起こし続けながら。