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朗読箇所

三位一体後第16主日

旧約 エレミヤ書 4:1−4


1 「立ち帰れ、イスラエルよ」と
主は言われる。「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」
2 もし、あなたが真実と公平と正義をもって
「主は生きておられる」と誓うなら
諸国の民は、あなたを通して祝福を受け
あなたを誇りとする。
3 まことに、主はユダの人、エルサレムの人に
向かって、こう言われる。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。
4 ユダの人、エルサレムに住む人々よ
割礼を受けて主のものとなり
あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに
わたしの怒りは火のように発して燃え広がり
消す者はないであろう。」


新約 フィリピの信徒への手紙 3:1−11

◆キリストを信じるとは
1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

説教

君の誇りは何?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    他の人に自慢できたり、誇れるものはありますか?
    小さなことでも、何でも良いです。
    人前で「これがわたしの誇りです!」と
    自信満々に言える人は
    なかなかいないかもしれません。
    けれども、心のなかで
    「これかな?」と思えるものを
    ひとつくらい挙げることは
    もしかしたら出来るかもしれません。
    それは今手元にある大切なものであったり、
    過去の素敵な経験だったり、
    他の人には出来ない技術や能力だったりします。
    そのような誇りや自慢といったものは、
    自分の価値を保証し、
    自分を励ましてくれるもののように思えます。

    驚いたことに、
    パウロはフィリピ教会に宛てた手紙の中で、
    彼自身が誇りと思っていたことについて、
    7つも挙げました。
    多いですね。
    ただ、パウロが挙げた彼の7つの誇りは、
    自分が熱心に律法を守るユダヤ人であるという、
    ひとつのことを色々な言い方で表現した結果でした。
    イスラエルの文化をよく知り、
    それによく親しんでいたパウロにとって、
    7という数字は完全さを表します。
    ですので、自分が熱心に律法を守るユダヤ人であることを
    より理想的で、完全なものとして伝わるように、
    パウロは自分の誇りとするべきことを紹介していると言えます。

    ということは、フィリピ教会の人たちは、
    そんなパウロの自慢話に
    耳を傾けなければならないのでしょうか?
    何というか、それは……、正直、嫌ですね。
    いかにパウロが優秀で、
    いかに熱心なユダヤ人であるかについて、
    フィリピ教会の人たちはよく知っていました。
    わざわざそんな話を聞かされたくありません。
    もちろん、パウロは自分の能力や生まれを誇るために
    このような話をしたわけではありませんでした。
    パウロが伝えたいことはむしろ、
    それとは正反対のことでした。
    これまで自分が心から誇りとして抱き、
    頼りとしてきたものは、
    無意味なものに変わってしまった、ということでした。
    自分が熱心に律法を守るユダヤ人であることは、
    かつてのパウロにとって、とても素晴らしく、
    重要で、理想的なことでした。
    その事実を知れば知るほど、
    パウロがその誇りや自慢を
    手放していることに驚きを覚えます。
    それどころか、ユダヤ人であることを誇りとすることや、
    律法を熱心に守ることを誇りとすることは、
    自分にとって益となることではなく、むしろ損害であり、
    それらはゴミクズや塵に等しいとまでパウロは言います。
    一体、パウロに何が起こったのでしょうか?

    パウロからこの言葉を引き出すきっかけを作ったのは、
    パウロから「犬」と呼ばれている人たちの存在でした。
    現代の日本社会で生きるわたしたちにとって、
    犬は可愛いペットであり、
    人生を共にする家族やパートナーです。
    でも、古代の人々にとって
    犬は卑しい存在でした。
    犬はいつも飢えていて、道端を歩き回り、
    ゴミとして捨てられていたものを何でも食べました。
    そのため、汚れた存在を比喩的に示す言葉として、
    「犬」という単語が用いられることがありました。
    特に、ユダヤ人にとって「犬」は、
    異邦人を指す、侮辱的な言葉です。
    でも、パウロはここで、
    ユダヤ人以外の人やキリストを信じない人を指して、
    犬と言ったわけではありません。
    むしろ、ユダヤ人としての誇りを強く持っていた、
    キリストを信じるユダヤ人の一部の人たちに対して、
    「犬」という言葉を異邦人を指すときに
    使っていた可能性のある立場の人たちに対して、
    パウロはこの言葉を使いました。

    キリストを信じるユダヤ人のすべてではありませんが、
    その中の一部の人たちは、
    キリストを信じる異邦人も
    ユダヤ人のように生きるべきと考えました。
    彼らは、その考えをいろいろな教会で広めていたようです。
    彼らの考えは、ユダヤ人であることが、
    救われるために必要であるかのようです。
    でも、違いますね。
    キリストにある救いは、
    ユダヤ人の誇りを必要としません。
    律法、つまり旧約聖書に記されている言葉を
    熱心に研究し、それを守ることを誇りとすることも
    わたしたちの救いの絶対条件ではありません。
    いや、わたしたちが持っているようなあらゆる誇りも、
    わたしたちが他人を羨んだりしてしまうような
    誰かがもつ特別な何かも、必要ありません。
    わたしたちに与えられている合言葉は、
    「神の恵みによって」ですから。
    ただ神がわたしたちを
    キリストを通して愛してくださった。
    そのことゆえに、すべての人は
    神の救いへと招かれています。
    だから、ユダヤ人の誇りを
    誰からも押し付けられる必要はありません。
    また、誰も、パウロのような理想的で、
    誇るべきユダヤ人になる必要もありません。
    そのため、パウロは強い口調で
    彼らの存在に気をつけて欲しいと
    フィリピ教会の人たちに伝えました。
    結局のところ、
    ユダヤ人として生きるようにと伝えてくる
    彼らの言うことは、
    外面を整えることに過ぎません。

    パウロは何の条件もなく、
    ただ神の一方的な恵みによって、
    すべての人を救いへと招くキリストと出会い、
    彼が長い間抱いていた、ユダヤ人の誇りを
    自分の救いのために必要な
    信頼できるものと考えることをやめました。
    イエス・キリストこそが救いの望みとなったからです。
    それは、パウロの価値観を
    大きく変える出来事でした。
    もちろん、神との契約関係を
    身体に刻み込むしるしである割礼を受け、
    神の言葉である律法を守り、
    ユダヤ人として生きることを
    完全に無意味で捨て去るべきものとは
    パウロは考えませんでした。
    けれども、それらを自らの誇りとして、
    自分の救いを達成するものとして信頼することを
    パウロはやめました。
    イエス・キリストこそが救いの望みだからです。
    ですから、パウロにとって、
    イエス・キリストのみが誇りでした。
    イエスさまのみが、
    彼の救いを保証し、
    彼に希望を与える存在でした。

    キリストのみが誇りであること。
    キリストのみがわたしたちの望みであること。
    それは、私たちが持ち合わせる、
    さまざまな誇りを
    本来あるべき価値へと戻してくれます。
    かつてのパウロにとって、
    律法を熱心に守ることは、
    彼に絶対的な価値と望みを与える、彼の誇りでした。
    だから彼は一心に、その誇りを守り、
    その誇りに生きることを喜びとしました。
    でも、キリストこそが
    パウロに絶対的な価値を与え、
    パウロに揺るがない望みを与えることを知った今、
    キリストこそが彼にとっての誇りとなりました。
    パウロは律法を完全に捨て去ったわけではありません。
    律法は、救いを保証するものではなく、
    神の民が喜びと感謝のうちに生きられるようにと、
    神が与えた道しるべなのですから。
    キリストにのみ望みを置き、
    キリストのみを誇りとすることによって、
    パウロは律法を本来あるべき位置へと
    戻すことができました。

    さて、わたしたちは一体、
    何を誇りとして生きているのでしょうか?
    家族との絆でしょうか。
    お金でしょうか。
    社会的な立場でしょうか。
    友人との関係でしょうか。
    学歴でしょうか。
    業績でしょうか。
    国籍や民族的なアイデンティティでしょうか。
    特別な能力や技術でしょうか。
    わたしたちにとってそれらのものひとつひとつは、
    とても価値ある、大切なものです。
    でも、わたしたちに
    絶対的な価値を与えるものでは決してありません。
    わたしたちの救いを保証するものでもありません。
    時に与えられ、
    時に失ってしまうものです。
    時に価値が増え、
    また時に価値を失ってしまうものです。
    それなのに、わたしたちはそれらのものに、
    簡単に絶対的な望みを置いてしまいます。

    パウロが危険視したのは、
    それらのものの価値が移り変わることや、
    それらのものが絶対的な救いの保証となるわけではない、
    という理由だけではありませんでした。
    価値が揺らぎ、決して救いの望みを保証しないものを
    お互いに押し付け合い、自慢し合うとき、
    教会の交わりを傷つけることになるからです。
    だから、パウロはキリストのみに望みを抱き、
    キリストに誇りを抱く道を
    フィリピ教会の人びとに伝えたかったのだと思います。

    もちろん、パウロは
    どんなものにも究極的には価値がなく、
    それらはつまらない、空しいものだ
    と言いたいわけではありません。
    ひとつひとつは良いものです。
    わたしたちの人生に喜びや達成感を与えます。
    でも、それを過剰に誇るならば、
    目の前の人を傷つけてしまいます。
    いつかは失ってしまうそれらのものに
    絶対的な価値を置き、過剰に信頼をするならば、
    いつか失うときが来たとき、
    大きな失望を抱くことになります。
    けれども、キリストに望みを置くことは違います。
    イエスさまは、わたしたちに
    確かな救いの望みを与える方です。
    すべての人の望みであるキリストは、
    わたしたちを結びつける絆となり、
    わたしたちに愛と憐れみと
    平和に生きることを教えてくれます。
    強さを誇るのではなく、
    弱く苦しんでいる人に
    手を差し伸べる道があることを教えてくれます。
    誰かをコントロールするよりも、
    誰かに仕えてる生き方があることを
    イエスさまはその生涯を通して指し示されました。
    そして、イエスさまは
    わたしたちに復活の希望を与える方です。
    復活の希望には、
    わたしたちの身体の復活だけでなく、
    この世界のあらゆるものの回復が含まれます。
    それは、私たちが喜びと誇りを抱くけれど、
    簡単に移ろいゆき、傷つき、
    朽ち果て、失われてしまうものも
    含まれているということです。
    キリストにあって、
    神の恵みとして、
    この世界の神に造られたひとつひとつのものが
    復活の希望の中で回復されていきます。
    キリストこそ、私たちの希望であり、誇りです。
    これ以上に誇るべきものを
    わたしたちは知りませんし、
    これ以上にまさる希望を
    わたしたちは持ち合わせていません。

週報より

  • 2023.09.24 週報より抜粋・要約

  • ① 月報『モレノ』を10月号が完成しました。
    原稿や写真を寄稿・投稿してくださった方、
    編集や製本に加わってくださった方、ありがとうございました。
    表紙・裏表紙の絵、挿絵、写真、原稿などを募集しています。
    手渡しでも、データでも受け付けています。
    なんでも、お気軽にご寄稿ください。 

    ② 先週の礼拝はニシャンタ先生を説教者としてお招きしました。
    9月3、10,17日の礼拝とランチの会で76,000円の募金が集まり、
    ニシャンタ先生にお渡ししました。ご協力ありがとうございました。
    ニシャンタ先生がスリランカでおこなっている活動のために
    引き続き、祈りに覚えていきましょう。

    ③ 先週は教会全体会を開きました。
    ご出席くださったみなさま、ありがとうございました。
    かんたんな報告書を作成しましたので、ご確認お願いいたします。

    ④ 教会ピクニックのお知らせ
    10月8日の礼拝後に、小山祈りの家で秋の教会ピクニックをします。
    賛美やゲーム、バーベキューなどをする予定です。
    参加費は無料です(自由献金あり)。どなたでもご参加ください。
    雨が降った場合、祈りの家の施設をお借りして屋内でおこなう予定です。
    大体の人数把握のため、現時点で参加をご希望の方は
    受付テーブルに置いてある用紙にご記名ください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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