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朗読箇所

三位一体後第18主日

旧約 イザヤ書 26:16−19


16 主よ、苦難に襲われると
人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと
彼らはまじないを唱えます。
17 妊婦に出産のときが近づくと
もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前で
このようでした。
18 わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず
地上に住む者を
産み出すこともできませんでした。
19 あなたの死者が命を得
わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。


新約 フィリピの信徒への手紙 3:17−4:1


17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
4篇
1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

説教

お互いを模範として歩む

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    礼拝の準備のために、
    次の日曜日に開く予定の聖書の言葉と
    向き合い続けることは、
    牧師たちがすべき大きな務めです。
    この言葉が、礼拝に集うみなさんにとって、
    現代の日本社会に生きるわたしたちにとって、
    どのように信仰者として生きる指針を与え、
    どのように神と隣人と
    共に生きることを励ますのだろうかと、
    時に喜び、時に驚きながら、
    また時には頭を抱えながら、向き合っています。
    わたしにとってこの働きは基本的に喜びですが、
    時々、バツの悪い言葉と向き合うことになります。
    正直、どのように伝えれば良いのか
    わからない言葉です。
    きょうのパウロの言葉は、
    フィリピの信徒への手紙を
    礼拝で読み進めていこうと決めたときから、
    どう語れば良いのだろうかと、
    いつも頭の隅で考え、悩んでいた箇所です。

    パウロは「きょうだいたち、皆一緒に
    私に倣う者となりなさい。」(3:17)と書いています。
    たしかに、教育や技術の習得にかんして、
    学生や弟子たちが、
    その先生や師匠の真似をすることは
    とても重要なことです。
    真似をすることを通して、
    先人の知恵や技術、
    またその背後にあるものの考え方などを
    受け継ぎ、身に着けていきます。
    キリストを信じて生きることにも、
    それと似た側面があります。
    どのように祈り、
    どのように聖書を読み、
    どのように信仰者として物事を見つめ、
    どのように身の回りや世界中で起こる出来事について考え、
    そして、信仰を抱いてどのように生きるのか。
    そのようなことについて、
    わたしたちは礼拝を通して、
    教会の交わりを通して、
    先に信仰を持った人びとを通して学びます。

    わたしがバツの悪さを感じるのは、
    パウロが自分に倣うようにと伝えていることです。
    教会の牧師も同じように、
    教会に集う方たちに自分に倣ってくれと
    言わなければならないのでしょうか。
    正直、わたしは自分を良い模範とも思っていませんし、
    わたしよりも模範として
    ふさわしい信仰者や牧者はたくさんいます。
    100歩譲ってそれで良いとしても、
    誰もがわたしのようである必要だってありません。
    それは、パウロ自身に倣うことについても同じです。
    誰もがパウロのようになる必要もないはずです。
    誰かひとりの真似のみをするなんて、
    歪なコミュニティが出来上がりそうで恐ろしいです。
    みんながまったく同じである必要などどこにもありません。
    この世界はとても多様性に溢れたものとして造られ、
    ここで生きるわたしたち一人ひとりも、
    実に多様な存在として神によって造られたのですから。

    それなのに、パウロが自分自身のことを
    フィリピ教会の人たちが真似るべき模範として
    提示したのはなぜなのでしょうか。
    それは、パウロが自分のことを
    理想的な信仰者として
    紹介するためではありませんでした。
    また、自分自身の生き様を通して、
    神を信じる者なら、こう生きなさい、
    絶対こうあるべきだ、というような
    ひとつの理想的な型を人びとに
    教え込んだり、押し付けるためでもありませんでした。
    パウロは、そんな自分にうぬぼれたような態度で
    フィリピ教会の人たちに接したわけではありません。
    寧ろ、フィリピ教会の人たちを気遣ったため、
    彼からこのような言葉が出てきたのだと思います。
    というのも、フィリピ教会の人たちは、
    キリストを信じている人たちだけと
    一緒に生活をしているわけではなかったからです。
    いや、むしろ、教会の交わりの中にいるのは
    週の最初の日、日曜日の朝だけです。
    教会に集まる日以外、
    彼らはフィリピの町の中で働きました。
    彼らは、フィリピの社会の中では
    少数派、マイノリティです。
    自分の周りにはほとんど、
    誰もキリストを信じて生きる人はいません。
    パウロが彼らに伝えたことは、
    決してフィリピの町の常識とは言えない、
    いや、パウロが教えたことなど
    思いつきもしなかったであろう社会です。
    周囲の人たちにとって、
    ギリシア・ローマ的な考えや生き方が当たり前です。
    皇帝崇拝がなされ、
    他の神々が礼拝されることは当たり前で、
    社会的地位や階級を乗り越えて
    親しい関係を築くことなど
    できるわけもありませんでした。
    そんな社会の中で、彼らは生きていました。

    そのため、フィリピで生きる上で
    何の頼りもなく、何の指針もなく、
    キリストを信じて生きるなど、
    正直言って、無理な話でした。
    フィリピで生きる多くの人たちの常識に
    あまりにも簡単に流されてしまうでしょう。
    あまりにも簡単に、信仰者としての歩み方を
    忘れてしまうでしょう。
    一体、フィリピでどう生きればよいのか。
    色々な教えや考えに晒され、右往左往しながら、
    フィリピ教会の人たちは
    キリストを信じる生活を送っていました。

    だからこそ、パウロはそんな彼らに
    見える指針として、自らを提示しました。
    何もパウロが特別だから、優秀だから、
    といった理由でパウロは自分を
    模範として示しているわけではありません。
    うぬぼれではなく、
    ただただ、フィリピ教会の人びとが迷わないため、
    自分をひとつの模範として提示しました。
    でも、もちろん、パウロは
    自分のみを模範として示すことの限界や、
    その歪さをよくわかっていたのだと思います。
    パウロが続けて書いた言葉に、
    わたしはとても安心しました。
    「また、あなたがたと同じように、
    私たちを模範として歩んでいる人々に
    目を向けなさい」(3:17)。
    パウロは、フィリピ教会の人びとに、
    「わたしのことだけを見るべきではないよ」
    と伝えているかのようです。
    パウロはいつまでもフィリピ教会の人たちと
    一緒にいることが出来るわけではありません。
    実際、この手紙を書いているとき、
    パウロはエフェソで投獄されていたので
    離れた場所で自分を模範として提示しました。
    古代世界において手紙は、
    手紙を書いた本人がそれを読む人たちと
    直接、顔を合わせて会話をする代わりのものと
    考えられていたようです。
    そのため、離れていても、
    手紙を通してパウロはフィリピ教会の人たちに
    キリストを信じて生きることの
    模範を示すことができました。
    でも、やはり限界はあります。
    正直、フィリピ教会の人々の記憶にある
    パウロの姿をいくら思い起こしても、
    それは徐々に忘れてしまうものです。
    記憶とは違うパウロの姿を
    彼らが形作ってしまう恐れだってあります。
    人は過去の思い出を美化したり、
    無意識のうちに自分に都合の良いように
    書き換えてしまったりしまうので、
    記憶の中でのパウロの模範は、
    決して完璧な模範とは言えません。

    だから、パウロはフィリピ教会の人びとが
    模範として見つめるべき対象を
    徐々に広げていきました。
    「私たちを模範として歩んでいる人々に
    目を向けなさい」というパウロの言葉に、
    そのことは明らかにされています。
    「私たち」と言っているパウロにとって、
    それは彼の同労者であり、彼がフィリピ教会へと送る予定の
    テモテとエパフロディトでしょう。
    つまり、フィリピ教会の人たちと
    一緒にフィリピの町で生活を送ることができる人たちです。
    パウロだけでなく、今、もしくは近い将来、
    同じフィリピの町で同じ信仰を抱いて生活をする
    パウロの同労者のテモテと、
    フィリピ教会からパウロのもとに送られてきたエパフロディトが、
    フィリピでキリストを信じて生きることの
    模範となってくれることをパウロは期待しました。

    その意味で、フィリピ教会の人びとにとって、
    この町でどのようにして、
    キリストに従って生きるべきかについて、
    学ぶことの出来る模範はパウロ以外にもいました。
    いや、それはテモテやエパフロディトだけでもありません。
    パウロは「私たちを模範としている人びとに
    目を向けなさい」と書いています。
    つまり、キリストを信じる信仰者たちが、
    お互いに学び合うようにと促しています。
    わたしたち一人ひとりは良いものも、素敵なところもあれば、
    反対に、弱い部分も欠けている部分も持ち合わせています。
    でも、お互いを模範として、学び合うことができます。
    わたしたちの日々の何気ない歩みや、
    わたしたち自身の存在が、
    不思議と誰かの力になり、
    励ましになることがあります。
    それは、誰かひとりだけを見つめて、
    誰か一人だけの真似をしていたら
    決して得られないものです。
    それは、キリストに従うすべての人と手を取り合い、
    学び合うことを通して得られる喜びです。

    ところで、わたしたちは具体的に
    何を学ぶべきなのでしょうか。
    パウロによれば、それは、
    わたしたちの国籍が天にある、ということです。
    わたしたちは天国へ帰っていくということを
    忘れないようにという意味でしょうか?
    たしかに、それはすべての人にとっての大きな希望です。
    けれど、それだけでは、今のわたしたちの生活とは
    まったく関係がないように思えてしまいます。
    もちろん、パウロはそのことだけを考えて、
    国籍が天にあることを示したのではありません。
    ローマの植民都市であった
    フィリピにいた人びとの中には、
    ローマの市民権を持っている人がいました。
    彼らはローマには帰らず、フィリピで過ごしていました。
    でも、彼らは決してローマ人であることを忘れず、
    ローマ人らしく過ごしていました。
    天に国籍を持つわたしたちも
    同じように生きるようにと召されています。
    天の国は、今のわたしのこの地上での生活とは
    まったく関係のない場所だと思って、
    この地上で生活するのではありません。
    わたしたちは天からの移民です。
    ローマの市民権を持った人びとが
    自分の故郷であるローマを大切にしたように、
    わたしたちも自分の故郷である天の国を大切にします。
    ローマの市民権を持った人びとが
    フィリピでローマ的に生きたいと願ったように、
    いや、それ以上に、
    天の国が告げる喜びや平和や正義が、
    わたしたちの人生や、わたしたちの生きるこの世界を
    包み込んでほしいとわたしたちは強く願っています。
    でも、だからこそ、わたしたちは悩み、葛藤します。
    天の国が告げる喜びや平和や正義とは、
    正反対のものがこの地上には広がっているからです。
    ここは天の国ではないよとわたしたちの耳元で囁き、
    わたしたちが天の国を待ち望んで生きることを
    諦めさせようとする声が響いているからです。
    だからこそ、わたしたちには共に生きる仲間が必要です。
    一緒に天の国を指し示し合って励まし合い、
    一緒に天の国を目指す者の姿を学び合う、
    お互いに模範として見つめ合う、信仰の友が必要です。
    キリストを信じ、天の国を目指して歩んでいる、
    ここにいるみなさんは、
    お互いに天の国を目指す旅人の模範です。
    わたしたちは、人生で起こる
    あらゆる出来事に右往左往し、
    心が、そして信仰が揺れ動くことだってあります。
    でも、そんな中、いつでも、
    わたしたちが天の国を目指す
    旅人であることを思い起こさせてくれる
    信仰の仲間たちが模範としていてくれることは、
    行き先が不透明なこの地上での旅路を
    歩んで行くわたしたちにとって、
    とても幸いなことです。


週報より

  • 2023.10.01 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に小山祈りの家で教会ピクニックを予定しています。
    賛美やゲーム、バーベキューなどをする予定です。
    参加費は無料です(自由献金あり)。どなたでもご参加ください。
    飛び入り参加も大歓迎です!
    礼拝後に車の乗り合わせや荷物の分担などを確認した後、
    準備ができ次第出発します。

    ② (モレノ・チームより) 月報『モレノ』への寄稿・投稿を歓迎します!
    月報へのみなさまのご寄稿をお待ちしています。
    絵、写真、原稿など、なんでも、お気軽にご寄稿ください。
    『モレノ』11月号のための原稿は、きょうが締め切りです。
    来週は礼拝後に製本作業を予定しています。
    ご協力よろしくお願いします。

    ③ スリランカのニシャンタ先生より支援の感謝のメールと写真が届きました
    先月に教会で集めた支援金を
    戦災孤児の支援のために用いてくださいました。
    支援の様子は『モレノ』11月号の写真ページに掲載予定です。

    ④ 10月は伝道月間です。
    ナザレン教会の伝道の働きを覚えてお祈りください。
    伝道月間献金にご協力くださる方は
    受付テーブルの上にある献金袋をご利用ください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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