朗読箇所
三位一体後第19主日
旧約 サムエル記 上 20:11−15
◆
11 「来なさい、野に出よう」とヨナタンは言った。二人は野に出た。
12 ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓って言う。明日または、明後日の今ごろ、父に探りを入れ、あなたに好意的なら人をやって必ず知らせよう。
13 父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように。主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。
14 そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、
15 また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい。」
新約 フィリピの信徒への手紙 4:2−3
◆勧めの言葉
2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
説教
彼女たちを助けてあげてください
-
説教者 稲葉基嗣牧師
パウロが手紙を送ったフィリピ教会は、
教会の始まりに女性たちが大きく関わり、
有力な女性の指導者たちがいた教会でした。
パウロはこの手紙の中で、
エボディアとシンケティという
ふたりの女性の名前を書いています。
「彼女たちを助けてあげてください」(4:3)と、
パウロはフィリピ教会の人びとに依頼します。
彼女たちは、福音がこの世界に広がっていくために、
パウロや彼の協力者たちと一緒に力を合わせて
戦ってきたと、パウロは書いています。
そのため、一見、福音のために
毎日奮闘している彼女たちが
助けを必要としていることとは、
フィリピでキリストを信じて生きることであり、
教会の指導者として人びとを励ますことのように思えます。
たしかに、それは教会の指導者として、
彼女たちがいつも必要としている助けだったでしょう。
キリストを信じる人など自分たち以外は誰もいない、
そんな社会の中でフィリピ教会に集う人びとは
生活をしていたのですから、
そんな彼らのために働く自分たちのことを理解し、
助け、励ましてくれる人たちの存在がいるならば、
とても助けられたことでしょう。
でも、パウロは別のことを考えて、
彼女たちの助けを
フィリピ教会の人びとに依頼しています。
「主にあって同じ思いを抱きなさい」(4:2)という、
このふたりの女性たちに向けられた言葉が、
このことを考える上での大きな手がかりです。
全く同じフレーズをパウロは2章でも用いています。
パウロは2章で既に
フィリピ教会の人びとに向けて語りかけたことを
もう一度思い起こして欲しいと願ったのでしょう。
パウロは何を語ったのでしょうか?
それは、フィリピ教会の人たちが同じ愛を抱き、
心を合わせ、思いを一つにすることでした。
それは、誰もがまったく同じ意見や思想を持つ
という意味ではありません。
反対意見を一切持たず、
誰もが同じように物事を考えることでもありません。
パウロがここで伝えたいことは、
共通の目標を持っているということでした。
天の御国に国籍を持ち、天の御国を目指して歩む旅人であり、
今、フィリピで天の国からの移民として生活をしている。
フィリピでは当たり前のローマ的な生活を送るよりも、
天の国に生きる者が目指すべき生活を送ろうと努力する。
キリストに愛されたように、
周囲の人たちを愛し、平和のうちに生きようとする。
パウロがフィリピ教会の人びとに語りかけたことは、
そういったことでした。
そのような生活を送る上で、
パウロが大切なこととして考えたのは、
キリストを模範として、お互いにへりくだり、
相手を自分よりも優れた者と思うことでした。
こういった願いを込めて、
パウロは「主にあって同じ思いを抱きなさい」(4:2)と、
このふたりの女性たちに語りかけています。
パウロがこのことをこのふたりの女性に、
エボディアとシンケティに、
思い起こさせる必要があったということは、
このふたりの間に
対立やいさかいがあったからなのでしょう。
パウロはこのふたりの対立が
解決することを願っています。
ふたりの女性たちの対立を解決しようと試みた
パウロがとった方法は、いくつかの点で、
現代社会に生きるわたしたちの方法とは
違うことに気づかされます。
もしも現代社会ならば、
何か大きな問題があった場合、
実名入りで告発を受けます。
問題を抱えていたエボディアとシンケティが
パウロによって名指しされているのは、
同じ理由からでしょうか。
いいえ、パウロは決して彼女たちを批判したり、
非難したりなどしていません。
というのも、教会の交わりに
問題をもたらしている人びとについて書くとき、
パウロは基本的に、その人たちの名前を書きません。
ですから、わたしたちは
パウロの論争相手の名前を知りません。
フィリピ教会の人びとに宛てたこの手紙を読んでも、
ユダヤの文化や律法を
押し付けてくる他のキリスト者や(3:2)、
パウロを苦しめようとする人たち(1:15−17)、
キリストの十字架を否定するような人たち(3:18)が
フィリピ教会に影響を与えていたことはわかります。
けれど、誰がこの問題を
もたらしたのかまではわかりません。
パウロは敵対者の名前を挙げません。
ですから、パウロに名前を呼ばれているこのふたりは、
パウロに非難され、告発を受けるために、
この言葉を語りかけられたわけではありませんでした。
寧ろ、パウロは彼女たちの友として、
また、親しい同労者として、
このふたりが対立していることを取り扱い、
ふたりの間に和解を求めています。
パウロが和解を求める方法はとても現実的です。
ふたりだけで問題が簡単に解決できるとは思っていません。
だから、フィリピ教会に集う人たちにお願いをしました。
「彼女たちを助けてあげてください」(4:3)と。
ふたりがまた手を取り合って、
キリストのために生きることができるように、
フィリピ教会の指導者としてふさわしく、
このふたりが良い関係を築いていくことが出来るよう、
どうか助けてあげてください。
教会の皆さんの助けが必要なんです。
「真の協力者よ、
あなたにもお願いします」(4:3)と、
パウロは切実に呼びかけています。
現代に生きるわたしたちは、
パウロのこの姿勢にしっかりと学ばなければならないと
強く思わされます。
というのも、現代に生きるわたしたちの感覚ならば、
対立するふたりがいるならば、
どちらの味方につくかを迫られてしまいます。
そして、ひとつの群れがふたつのグループに別れ、
ますます対立が深まってしまいます。
この問題に関わることに嫌気が差した人から順番に、
そのグループを去っていくことでしょう。
もしくは、現代社会ならば、
そんな対立など他人事です。
自分とはまったく関係のない話です。
でも、パウロはフィリピ教会の人びとに
助けを呼びかけることを通して、
ふたりの対立が教会の交わりの中に広がり、
教会がばらばらに引き裂かれたり、
自分にはまったく関係のない問題だとして
最初から諦めてしまうという、
ふたつの危険を避けました。
そうです。
エボディアとシンティケの対立は、
ふたりだけの問題ではないとパウロは考えました。
大いに教会全体に関係があると、
パウロは確信しています。
彼女たちが対立したままになるならば、
争いや憎しみがどんどん膨れ上がってしまう。
フィリピで生きる他の信仰者たちに悪い影響があるでしょう。
彼女たちから、憎しみ合うことを学んでしまいます。
そして、その争いや憎しみに周囲が巻き込まれてしまいます。
だから、パウロは教会に呼びかけました。
「彼女たちを助けてあげてください」(4:3)と。
彼女たちだけの力ではどうしようも出来ない問題でも、
誰かが平和の手を差し伸べるならば、
きっと解決へと導かれる。
この二人が再び手を取り合えるとパウロは信じています。
お互いにへりくだっていくことが出来る。
お互いを良い存在と尊重し、仕え合うことが出来る。
それは、どちらかがどちらかに
従属することでもありません。
同等の立場で、相手を尊重し合うことが出来る。
パウロは決して悲観しているように思えません。
出来ると信じているのでしょう。
彼女たちの間に、誰かが立ってくれるならば、
憎しみや妬みや争いが
彼女たちから広がっていくのではなく、
和解や平和がきっと実現する。
目の前の相手を愛し、憐れみ、尊重することが、
ここから広がっていくはずだ。
だから、パウロはフィリピ教会に呼びかけました。
「彼女たちを助けてあげてください」(4:3)と。
きょうのこの言葉を聞いて、
わたしが安心するのは、
少なくともわたしの目には、
今、わたしたちの教会に
このような争いが広がっているわけではないことです。
でも、だからといって喜んではいられません。
だって、わたしたちは明らかに、
対立が当たり前の社会で生きているのですから。
先日、パレスチナを実効支配するハマスが
イスラエルに奇襲攻撃を仕掛けました。
現代の国家としてのイスラエルが建国されて以来、
住む場所を追われ、抑圧を受けてきた
先住民のパレスチナの人びとの苦しみが
その攻撃の背後にあることはわかりますが、
だからといって、決して許される行動ではありません。
イスラエルの側は彼らの行動の理由に聞く耳をもたず、
報復をおこないました。
対立するこの両者が、
自分たちだけの力で和解し、
平和的関係を築いていくことなど、
不可能に思えます。
武力や暴力で黙らせることしか、
解決の道がないように思えてしまいます。
どちらの側に同調したとしても、
対立や争いを更に深め、憎しみを増し加えるばかりです。
わたしたちは、対立し、争い合い、憎しみ合い、
武力で牽制し合い、暴力で黙らせることが
まるで当たり前であるかのような世界で生きています。
だからこそ、わたしたちはパウロがとった方法に
心から耳を傾けていく必要があると思うのです。
それは、教会が主キリストにある愛の交わりを
自分たちだけで喜ぶためではありません。
憎しみや争いが広がる以上に、
わたしたちは主キリストにある
愛の交わりを広げていきたいと思うのです。
それは、自分たちに出来るところから、
対立し合う誰かの間に立って、
平和を築いていくことを願いながら、
始めていくことなのだと思います。
いや、わたしたちは間に立っても、
無力さを感じてしまうかもしれません。
でも、わたしたちが立つところに、
きっと、この世界に和解をもたらそうとしておられる、
キリストが一緒に立ってくださるはずです。
どうか、ここに集うみなさんにとって、
きょう、ここから、愛と平和を学び、
それらを少しでも分かち合い、広げていく場所として、
わたしたちの教会があり続けることができますように。