説教者 稲葉基嗣牧師
古代イスラエルの人びとは、
さまざまな不安を抱えながら生活をしていました。
食料や飲み水を安定して得られるのかは、
常に気にかけていなければいません。
雨が降らない時期が続けば、
彼らの生活は一気に厳しくなりました。
彼らの生活の不安は、
天候や農作物のことだけではありません。
また、武力による暴力に怯えていました。
アッシリアやバビロニアなどといった、
帝国に攻め込まれる危険とも
常に隣り合わせだったからです。
もしも自分たちの国が
帝国の手によって滅ぼされてしまうならば、
どこか知らない地へ連れて行かれてしまいます。
また、病が町中に広がることだってありました。
病に対する知識や医療知識がなければないほど、
病は恐ろしく、人の手には負えないものです。
古代の人びとは、病の原因は悪霊や人びとの罪だと考え、
心にある不安を何とか取り除こうとしました。
パウロが手紙を書き送ったフィリピ教会の人びとは、
どういった不安を抱えていたのでしょうか。
彼らは、フィリピの社会の中で
キリストを信じて生きる上で、
色々な不都合を経験していたと思います。
ローマ帝国の守りの中にあったため、
抵抗できないほど大きな暴力に晒される
不安や恐怖はあまりなかったでしょうが、
日常の中では小さな嫌がらせもあれば、
陰口といった暴力があったことでしょう。
それは、この町でこれから生きていく上で、
彼らにとっての不安や
悩みの種ともなったことでしょう。
ローマ帝国のおかげで旅は安全になったとはいえ、
やはり旅には危険がつきものでした。
家族や友人を旅へと送り出すのも、
自分自身が旅立つのも不安が付きまといます。
フィリピ教会の人びとにとっては、
投獄されているパウロの身の安全や、
フィリピ教会のメンバーであり、
パウロのもとに送り出した
エパフロディトのことが心配だったと思います。
特に、エパフロディトにかんしては、
旅先で瀕死の病になった
という知らせまで届いたのですから。
現代に生きるわたしたちは、
古代の人びとやフィリピ教会の人びとが抱いた
不安からはすでに解放されているのかといったら、
決してそういうわけではありません。
どれほどの技術を身に着け、
設備を整えていたとしても、
天候の悪い日が続けば、
農作物がうまく育たないことは変わりません。
不作が続くと、農作物の値段は上がります。
それだけならば、まだ良いのかもしれませんが、
現代社会は複雑に色々な要因が絡み合いながら、
物価が上がり、税金が増え、
わたしたちの生活を圧迫しています。
戦争や紛争はなくなるどころか、
更に過激さを増し、一般市民が巻き込まれるほどです。
この数年、わたしたちの世界は
目に見えないウイルスに戸惑い、
不安を感じてきました。
遠くへ旅に出る家族や友人がいたら、
たとえ簡単に連絡が取れるとしても、
やはり心配です。
どれだけ時代が流れても、
どれだけ技術が進歩しても、
どれだけ知識が積み重ねられてきても、
わたしたち人間は変わらずに、
不安を抱え続けています。
だからこそ、きょう読んだパウロの言葉は、
正直、素直に受け入れることの出来ないものです。
パウロは言います。
「主にあっていつも喜びなさい」。
そして、念を押すように続けます。
「もう一度言います。喜びなさい」と。
いつも喜んでいるなんて、無理な話です。
嬉しいことばかりで
人生が満ちているわけありません。
苦しい時期があります。
涙を流さずにはいられない時があります。
作り笑いで何とか乗り切るしかない時があります。
逃げ出したい時があります。
すべてのことを投げ出してしまいたい時があります。
それなのに、いつも喜んでいなさいだなんて、
パウロは何と難しいことを勧めるのだろうか。
そして、何て残酷なのだろうか。
日々、わたしたちが抱く嘆きや不安を覆い隠し、
見ないふりをするために、
自分を偽って喜ぶようにと
勧めているように思えてしまいます。
パウロはなぜ、常に喜びなさいと
フィリピ教会の人たちに、
そしてこの手紙を読むわたしたち一人ひとりに、
語りかけているのでしょうか。
もちろん、パウロは人の苦しみや悲しみ、嘆きや不安を
まったくわからないタイプの人間ではありません。
この手紙を書いているとき、
パウロは、エフェソで牢屋に入れられ、
自分が処刑されることも覚悟していました。
パウロが投獄されている間、
彼のことを悪く言う人たちも中にはいたようです。
ですから、パウロは
わたしたちから希望を奪い、
喜びや笑顔を失わせることが
この世界に数多くあることをよく知っていました。
そして、そのような中でも、
決して失われることのない喜びや希望を
自分だけでなく、すべての信仰者たちが
確かに持っていることを
パウロは強く確信していました。
だから、何もパウロは、
わたしたちの周囲で起こっている物事すべてに
目を背け、自分の心を欺いて、
いいからとにかく喜べ、
と伝えているわけではありません。
パウロは喜びを失ってしまう状況の中でも、
それでも、決して失われることのない喜びがあることを、
そのような喜びをわたしたちが確かに与えられていることを
フィリピ教会の人たちに思い起こさせるために、
彼らの心に刻むために、
繰り返し語りかけました。
「主にあっていつも喜びなさい」と。
パウロは喜びなさいという言葉に、
「主にあって」という、
とても重要な言葉を付け加えています。
これが、パウロにとって重要な言葉でした。
わたしたち自身から湧き出るものではなく、
神によって、わたしたちの外からおとずれるものによって、
わたしたちは常に喜ぶことが出来る。
キリストに結ばれているならば、常に喜びがある。
それがパウロの強い確信でした。
パウロは、この喜びの正体を短く説明し、
いかにわたしたちの生涯が
キリストに結ばれることを通して得る喜びに
下支えされているのかを伝えています。
パウロが伝える、わたしたちの喜びの正体は、
「主は近い」ということです。
パウロはとても曖昧な表現をしています。
というのも、時間的に近いのか、
それとも、距離的に近いのかがわからないからです。
おそらく、パウロは敢えて曖昧に語り、
どちらの側面も伝えているのでしょう。
キリストはすぐにわたしたちのもとに来てくださる。
今はまだ共にいることは出来ないけれど、
必ず、将来、すぐに、わたしたちのもとにやってきて、
天の御国をもたらしてくださる。
わたしたちの苦しみや悩みを終わらせ、
暴力や不正義や憎しみの連鎖を終わらせ、
わたしたちの世界を喜びで満たしてくださる。
死に勝利し、あたらしい命を
この世界で生きるすべてのものに与えてくださる。
そんな希望に満ちた約束が
神によって実現することを心待ちにする喜びです。
また、何よりも、聖霊によって
わたしたちはキリストと結ばれ、
キリストはわたしたちと共にいてくださっています。
目には見えませんが、
キリストは近くにいてくださっています。
神はわたしたち一人ひとりに関心をもっているため、
キリストを通してわたしたちと共にいて、
わたしたち一人ひとりに深く関わろうとしています。
だから、パウロは神がわたしたちの声を
聞いてくださることを決して疑いません。
わたしたちの願いや、祈りや、
嘆き声や、声にならない叫びを
聞いてくださる方だと信じています。
だから、わたしたちが抱えるすべての思い悩みを
わたしたち以上にわたしたちのことを知っている神に
祈り、打ち明けて、
神に信頼してすべてを委ねなさいと、
パウロは勧めています。
「そうすれば、 あらゆる人知を超えた神の平和が、
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスにあって守るでしょう」(4:7)と、
パウロは続けて書いています。
パウロがここで用いている「守る」という言葉は、
見張りのイメージを読者に伝える単語が用いられています。
町に住むすべての人びとを守るために、
決して眠らずに、夜通し危険を警戒し、
危険が迫ってきたら守ってくれる。
そんな見張りのイメージを用いて、
パウロは神の守りを表現しています。
悩みは多い。苦しみも、不安なことも多い。
けれども、神は見張りのように、
いや、見張り以上に、
夜通しわたしたちを守ってくださる。
だから、すべてのことを神に信頼しようと、
パウロはフィリピ教会の人びとを励ましているのです。
そして、だからこそ、どのような危険が迫っていたとしても、
キリストに結ばれている人びとは、
喜びをいだき続けることが出来ると、
パウロは信じています。
きょうの説教題をどのようにしようか思い悩んでいるとき、
娘のピアノのレッスンに一緒に行きました。
和音を鳴らすとき、ハーモニーを響かせるとき、
一番下の低音、つまりベース音が大切なんだよと、
ピアノの先生は娘に説明していました。
わたしたちの人生を彩る音は様々です。
嬉しく、楽しい音を鳴らせるときもあれば、
悲しい音を鳴らすときもあります。
でも、たしかに響き続けている音があります。
それは、最も低い場所で
わたしたちの歩みを下支えする音です。
わたしたちの人生は、
喜びや笑顔の多い日ばかりではありません。
けれども、わたしたちの人生を下支えする喜びを
神がキリストを通して与えてくださっています。
それは、わたしたちの人生を
華やかに彩る装飾音とは違います。
神がわたしたちに喜びを与え、
わたしたちの人生を下支えする
ベース音を鳴らし続けてくださっています。
この音は決してかき消すことができないものです。
でも、わたしたちは耳を傾けることを
忘れてしまうことがあります。
不安や悲しみに彩られた音が
強烈に響いてしまうからです。
そんなとき、喜びなど、希望など、
まったくないように錯覚してしまうのです。
でも、パウロの言葉は、
わたしたちが耳を澄すことを励ましてくれます。
「主にあっていつも喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。」(4:4)
どうか耳を澄ましてください。
主キリストによって与えられた喜びが、
いつも、わたしたちの人生を下支えする低音として、
あなたの人生に響き続けているのですから。