朗読箇所
三位一体後第21主日
旧約 ネヘミヤ記 8:9−12
◆
9 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
11 レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
12 民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。
新約 フィリピの信徒への手紙 4:10−23
◆贈り物への感謝
10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
16 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
17 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
18 わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
20 わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
◆結びの言葉
21 キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
22 すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。
23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。
説教
贈り物の届け方
-
説教者 稲葉基嗣牧師
プレゼントというものは、
受け取るのも、また贈るのも嬉しいものです。
受け取るプレゼントを通して、
贈ってくれた相手が自分のことを
よく気にかけてくれることを
知って、嬉しくなります。
受け取る相手のことを想像しながら、
時間をかけて選んだプレゼントを
喜んで受け取ってもらえる姿を見て、
「ありがとう」という言葉を聞いて、
プレゼントを贈る側も嬉しくなります。
贈り物を贈ったり、受け取ったりすることは、
ある意味で、両者の間の関係性の
確認のような側面があるでしょう。
フィリピ教会からの贈り物について記した、
きょうのパウロの言葉を読んで、
不思議に思うことはないでしょうか。
フィリピ教会に書き送ったこの手紙の最後で、
パウロはエパフロディトを通して受け取った
贈り物について触れています。
エフェソに投獄されたパウロの生活を支援するために、
フィリピ教会の人びとは、自分たちを代表して、
エパフロディトをパウロのもとに送り出しました。
フィリピ教会の人びとは、
エパフロディトにお金や物資を持たせて、
彼をエフェソへの旅に送り出し、
パウロのもとに必要なものを、つまり贈り物を届けました。
それとともに、エパフロディトを
パウロの生活や働きの支えとして用いて欲しいと、
彼らは願っていました。
エパフロディトは病気になったため、
十分に期待された働きをすることは出来ませんでした。
けれども、パウロはエパフロディトを送ってくれたことや、
彼を通して贈り物を届けてくれたことに感謝をしています。
手紙の結びを迎え、いよいよフィリピ教会の人びとに
感謝の言葉を述べるときに、
パウロはどのように彼らに感謝を伝えたでしょうか。
驚いたことに、パウロはフィリピ教会の人びとに
直接的に感謝を伝える表現を用いていません。
むしろ、パウロが彼らに感謝を伝える言葉は間接的です。
「フィリピ教会の自分に対する心遣いが
とっても嬉しかった。
もちろん、わたしは自分の力で生活をし、
キリストを伝えることが出来る。
けれども、エパフロディトから受け取ったもので、
わたしは満ち足りました。
フィリピ教会から受け取った贈り物は、
神が喜んでくださるいけにえのようだ」というように、
パウロはフィリピ教会に感謝の思いを伝えています。
何だか、まどろっこしい感謝の表し方ですね。
パウロはなぜ、もっとストレートに
感謝の気持ちを伝えようとしなかったのでしょうか。
きっと、贈り物がその送り手と受け手に与える影響を
パウロはよく知っていたから、
注意深く言葉を選んで、感謝を伝えたのでしょう。
というのも、贈り物には、
両者の力関係を明らかにしてしまう側面があるからです。
もしも、自分が贈った3千円ほどのプレゼントに対して、
遥かに価値のあるものが、
たとえば自分が贈ったものの10倍以上の金額のものが、
お礼として送り返されてきたらどう感じるでしょうか。
たしかに、そんなことがあったら、
驚きですし、嬉しいかもしれませんね。
けれども、それ以上に申し訳ない気持ちになってしまいます。
また、自分と相手の立場の違いを
知ることになってしまうでしょう。
あまりにも価値がかけ離れた贈り物のやり取りは、
両者の力関係を明らかにしてしまいます。
どれほどの力の差があり、
どれほど社会的な立場が違うのかを
嫌というほど突きつけられてしまいます。
パウロにとってフィリピ教会は喜びです。
主キリストにあって結ばれている、信仰の友です。
彼らは単なる、教会の指導者と、
教会の信徒といった関係ではありません。
彼らは単なる、支援者と
その支援の受け手といった関係でもありません。
パウロにとって、フィリピ教会は同じ福音を信じ、
場所や環境は違えど、
キリストの福音をこの世界に伝える協力者でした。
そのため、パウロは自分とフィリピ教会の人びとの
立場の違いを明確にしてしまう恐れのある贈り物から
自分やフィリピ教会を解放したかったのだと思います。
確かに、パウロがフィリピ教会から
受け取った支援は喜ばしいものでした。
それらのものはパウロの生活を助けました。
でも、この贈り物が、
彼らの関係性がどのようなものであるかを規定し、
決定づけるものとはならないようにとパウロは願って、
フィリピ教会の人びとに間接的に感謝を伝えたのでしょう。
パウロにとって、贈り物があるから、
フィリピ教会との関係があり、
その関係が継続するのではありません。
お金やものによって、
彼らがパウロと結ばれているのではありません。
彼らを結ぶきずなは、平和の主であるイエス・キリストです。
そして、この贈り物がパウロのもとに届けられたのは、
主キリストに結ばれた彼らの関係性の表れです。
だからパウロは、彼とフィリピ教会の関係性において、
彼らの間に絶対に必要なものとして、
贈り物や支援を定義づけしませんでした。
たとえ贈り物や支援がなかったとしても、
パウロは神によって支えられています。
パウロやフィリピ教会の人びとだけでなく、
すべての人が、神の恵みと支えの中で生きているというのが、
わたしたちの確信です。
パウロ自身も、「私を強めてくださる方のお陰で、
私にはすべてが可能です」と言います(4:13)。
でも、現実はその通りとは思えない?
たしかにその通りです。
権力による富の集中や、
自分の利益のみを求める人の欲や、
戦争による物資不足や、
水や電力などのライフライン供給の停止など、
人間同士の争いや人間の罪によって、
また社会構造のもたらす悪によって、
届くべき神の恵みが奪われいることは明らかです。
だからこそ、神の恵みがこの世界に行き届くために、
贈り物や支援が必要なのは明らかです。
贈り物そのものを否定していないため、
パウロ自身、そのことをよく理解していたと思います。
贈り物や支援は必要なものです。
でも、贈り物や支援を届けることよって
この世界の力関係を更に強化しないように、
持つ者と持たない者の立場を明確にするものとして、
贈り物が利用されないように
というのがパウロの願いです。
だから、贈り物がそのようなものにならないようにするため、
パウロは贈り物を携えるわたしたちの視点を
自分たちの関係性にではなく、
神へと移すように招きます。
パウロの確信は、相手を心から気遣い、
目の前で苦しむ人の助けとなったらと願う、
その愛や憐れみの思いにおいて、
わたしたちが誰かのために携える贈り物や支援は、
神に喜ばれるいけにえとなるということです。
わたしたちが携える贈り物は、
お金やモノだけではありません。
パウロにとってエパフロディトがそうであったように、
わたしたち自身の存在そのものが、
誰かにとっての贈り物となり得ます。
それはわたしたちの用いる時間かもしれませんし、
わたしたちが自分の欠点と思うことかもしれませんし、
わたしたち自身は何も気に留めない
とても些細なことかもしれません。
神の恵みや憐れみ、平和や正義を携えるならば、
わたしたちはきっと、誰かにとっての贈り物となります。
でも、だからこそ、わたしたちはより注意深く、
パウロの声に耳を傾ける必要があります。
というのも、この世界で贈り物を携えて生きる時、
誰もがわたしたちの携えるものを
神へのささげものとみなすわけではないからです。
この世界は、わたしたちがどれだけ多くのものを残したか。
わたしたちがどれだけ価値ある能力を持つのか。
わたしたちがどれだけ意味あるものを生産できるのか。
わたしたちがどれだけ有益な情報をもたらすのか。
そういったことでわたしたちを測り、判断し、
贈り物を携えるわたしたちに値付けをしてきます。
そして、打算的に、
関係を築こうとするかもしれません。
支配し、支配され、
利用し、利用されます。
そして、いつの間にか力関係が築かれ、
決してフラットにはならない、平坦にはならない、
抵抗することが許されていないように思えてしまう、
そんな人間関係の中に置かれてしまうこともあるでしょう。
そういった価値基準に飲み込まれるならば、
わたしたち自身も、打算的に、自分の利益を求めて、
贈り物を届けてしまいかねません。
誰かを支配するために、
自分の力を誇示するために、
自分の持っている良いものを贈り物として、
携えていくことだって出来てしまいます。
主キリストに結ばれ、神の愛を知り、
神の憐れみに触れ、平和を学び、
正義を追い求めるわたしたちにとって、
贈り物は何のために届けるものでしょうか。
贈り物を携える自分自身のためではありません。
自分のもつものの豊かさを誇示するためではありません。
自分の持つ力で誰かを支配し、
利用し、搾り取るためではありません。
苦しむ誰かの欠けを満たすため、
誰かを生き生きとさせ、一緒に喜ぶために、
わたしたちは自分の持つ良いものを
分かち合って生きるように招かれています。
神の愛と憐れみのうちに生きるわたしたち自身が、
神の平和と正義を祈り求めるわたしたち自身が、
誰かにとっての贈り物となります。
それが、パウロがフィリピ教会との関係に求めたものです。
同じように、わたしたちもここから始めましょう。
わたしたちが目指すのは、
良いものを得られるから、
誰かを支配し、利用できるから、
贈り物を届け、受け取る交わりではありません。
愛と憐れみを携えて、
それらに基づいた言葉や行いを
贈り物として届け合う交わりです。
どうかわたしたちの教会の交わりが
そのようなものであり続けることができますように。
それこそが、わたしたちにとっての
喜びであり続けますように。