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朗読箇所

三位一体後第22主日

旧約 ルツ記 1:1−22

◆残されたナオミ
1 士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。
2 その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。
3 夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。
4 息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、
5 マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。
6 ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。
7 ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。
8 ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。
9 どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、
10 言った。「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」
11 ナオミは言った。「わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。
12 わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、
13 その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。わたしの娘たちよ、それはいけません。あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
14 二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。
15 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」
16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
17 あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
18 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。
19 二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。20 ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
21 出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ
全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
22 ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。


新約 ガラテヤの信徒への手紙 3:26−28


26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

説教

境界線を乗り越える友

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    ルツ記はひとりの女性の危機を伝えることから、
    その物語を語り始めます。
    その女性の名前はナオミです。
    ユダのベツレヘム出身であった彼女は、
    ユダで起こった食糧難を逃れて、10年ほど、
    ベツレヘムの東にある死海を越えたところにある、
    モアブの野で暮らしていました。
    モアブは、イスラエルの民と血縁関係のある民族として、
    旧約聖書では描かれています。
    けれど、旧約聖書全体では、
    否定的な印象を与えることが多い民族です。
    モアブへと、ナオミの家族が移住することを
    決断しなければならないほど、
    事態は深刻だったのでしょう。
    異文化の中で暮らす彼女を襲った悲劇は、
    彼女の夫であるエリメレクと息子たちの死です。
    現代の日本社会で生きるわたしたちの場合、
    自分のパートナーを亡くしても、
    社会制度を用いて生活の助けを得ることができます。
    けれども、古代社会で生きたナオミにとって、
    利用できる制度などありません。
    その上、自分の生まれ故郷とは違う
    異文化の社会で暮らす彼女にとって、
    頼れる親戚や友人もいません。
    男性優位の社会において、
    この当時の女性たちが生き延びる手段は、
    結婚することであり、
    自分の息子に助けてもらうことでした。
    けれども、夫も息子たちも亡くしたナオミにとって、
    頼る当てはありませんでした。
    平均寿命が40才程度の古代社会において、
    この時点でおそらく40代前半であったであろうナオミが、
    再び結婚できる望みもありません。
    残されたのは、オルパとルツという名の、
    息子たちがモアブで結婚した女性たちだけでした。

    ナオミの状況は絶望的です。
    そのような中でナオミは一筋の希望を見出します。
    彼女はモアブの野で噂を聞きました。
    神がイスラエルの民を顧みて、
    食べ物を与えてくださっている、と。
    10年の月日が経ち、
    自分の故郷ベツレヘムの食糧難が
    どうやら解消されたらしい。
    故郷に戻れば、生きていく手段が見つかるかもしれない。
    そんな望みを抱いて、ナオミは旅立つことにしました。

    故郷ベツレヘムへ戻る上で問題となったのは、
    義理の娘たち、オルパとルツでした。
    正直、ナオミにとっても、
    また彼女たちにとっても、
    3人で一緒にベツレヘムへ戻ることは
    あまり賢い選択とは思えませんでした。
    夫を亡くした女性たちが
    生きることが困難な古代社会で、
    女性たちが男性たちの助けを得ず、
    3人だけで一緒に生きることは当然、難しいことでした。
    その上、モアブ人に対して良い印象を抱いていない
    イスラエルの社会に彼女たちを連れて行くなど、
    更に生き難さが増しそうです。
    自分と違ってまだ若いオルパとルツならば、
    モアブに留まればすぐに結婚相手が見つかることでしょう。
    その方が遥かに良い選択に思います。
    ナオミと一緒にベツレヘムへ行く必要などないのです。
    だから、ナオミは彼女たちを祝福し、
    彼女たちに別れを告げます。
    説得の末、オルパと別れることはできました。
    けれども、ルツはナオミから離れませんでした。
    やむを得ず、ナオミは
    ルツと一緒にベツレヘムへと旅立ちます。

    10年ぶりの故郷ベツレヘムへの到着は
    どのようなものだったでしょうか。
    ナオミは冷たく扱われたわけでも、
    誰もがナオミのことを
    忘れていたわけでもありませんでした。
    「ナオミじゃないの!?」と、
    ベツレヘムの町に住む女性たちが騒ぎ立ちながらも、
    喜んで彼女を歓迎している様子が描かれています。
    一見、事態は好転しているように思えます。
    すべての問題が解決しているわけではないけれど、
    モアブの地にいたほどの絶望はないように思えます。
    ベツレヘムに食料はあります。
    神がベツレヘムに住む人びとを
    顧みて、心に留めていてくださっています。
    そのような地にナオミはたどり着きました。
    そして、ベツレヘムには、
    自分のことを歓迎してくれるコミュニティがあります。
    その上、ナオミがベツレヘムに到着した時期は、
    大麦の刈り入れが始まった頃だったと伝えることで
    ルツ記1章はさらなる祝福を予感させます。

    でも、ナオミは失望し、絶望で打ちひしがれています。
    物語全体では飢饉が終わり、収穫が始まることを告げ、
    大きな問題が解決されたことを伝えていますが、
    彼女は事態が好転しているなど思っていません。
    神の祝福など感じられません。
    自分が苦しみの中にあるのは、
    神が自分を懲らしめているからだと感じています。
    だから、「喜び」や「甘い」という意味の
    ナオミという名で自分のことを呼ばないでくれ。
    辛く、苦しい経験をした自分のことは、
    「苦い」という意味のマラと呼んでくれと、
    ナオミはベツレヘムの女性たちに伝えます。
    彼女は自分の苦しみは不当なものだと感じ、
    神に訴え、抗議し続けています。

    そんなナオミと一緒に居続けることを選んだのが
    ルツという女性でした。
    この物語のもう一人の主人公です。
    もしかしたら、ナオミにとって、
    ルツはお荷物のような存在だったかもしれません。
    自分一人の生活だけでも大変なのに、
    女性たちふたりで生きていく術を
    探らなければなりません。
    その上、モアブ人であるルツは、
    ベツレヘムの人びとから敵視されていた外国人です。
    ルツが一緒にいるために、
    ナオミが不利益を被る可能性だってあります。
    でも、ルツはナオミの助けになりたい。
    ナオミと共に生きたいと願い、
    それを拒むナオミの願いを押し切って、
    ナオミと一緒にベツレヘムへやって来ました。
    ルツにとって、自分の生活を優先し、
    ナオミと別れてモアブに残れば、
    もっと快適に暮らす手段が待っていたかもしれません。
    けれど、彼女は境界線を越える決意をしました。
    それは、モアブとイスラエルという
    地理的な境界線だけではありません。
    ルツはイスラエルの社会の中へ入っていくわけですから、
    民族の境界線を越えようとします。
    そして、彼女は文化という境界線を越えようとしました。
    モアブの文化に慣れ親しんだルツは、
    イスラエルの文化の中へと踏み出しました。
    彼女がナオミに語った言葉は、
    ルツの決意が表れていると共に、
    ルツがいかに境界線を
    乗り越えようとしたのかがわかる言葉です。
    ルツはナオミに言いました。
    「あなたの民は私の民
    あなたの神は私の神です」と(1:16)。
    境界線を乗り越えていくことは、
    決して簡単なことではありません。
    文化の違いによって、傷つかずにはいられません。
    人びとの無理解や偏見がルツを襲ったことでしょう。
    けれども、ルツは苦しんでいるナオミが行く場所へ
    彼女と一緒に行くために、
    この境界線を乗り越えようとしました。
    そこで受ける傷を引き受けようとしました。

    人が引く境界線はさまざまです。
    そんな線など本来ないのに、
    私たちはあまりにも簡単に、
    線引をし、敵か味方かを分けてしまいます。
    役立つか、役に立たないか。
    話す言葉や人種、見た目や性別、
    信じる宗教や支持する政党などによって、
    理解し合えるか、理解し合えないかを
    あまりにも簡単に決めつけてしまいます。
    でも、ルツの生き様は、
    わたしたちが無意識のうちに引いてしまう
    そのような境界線を越えて、
    わたしたちが誰かと顔を合わせて出会える、
    そんな可能性を伝えているかのようです。
    境界線を越えて、
    わたしたちは新しい共同体を作ることが出来る、と。
    何よりも、苦しみ、悩み、失望しているナオミに対して、
    ルツが境界線を越えて、
    ナオミに寄り添い、彼女と共に歩もうとしたように、
    苦しむ誰かのために、境界線を越えていくことが出来る。
    そんな生き方があることを
    ルツはわたしたちに教えてくれます。
    出来るならば、わたしたちも誰かにとって、
    境界線を乗り越えていく友となりたいものです。

    でも、わたしたちが境界線を越えて行く者となるよりも先に、
    イエス・キリストこそが、境界線を越えて、
    わたしたちの友となってくださいました。
    社会的な身分も、人びとの抱く偏見も、
    民族も、宗教も、性別も越えて、
    イエスさまはすべての人のもとに訪れてくださいました。
    イエスさまこそ、ナオミに対するルツのように、
    わたしたちの苦しみのとき、葛藤のとき、
    神に向かって叫び、抗議するとき、
    わたしたちの生涯のあらゆる時に、
    わたしたちと共にいようとしてくださる方です。
    安全な場所から助けの手を伸ばすのではなく、
    わたしたちに愛と憐れみを与えるために、
    危険を冒して、命をすり減らし、分け与えるように、
    その安全な場所から出て行き、境界線を乗り越えて、
    わたしたちと共にいてくださる方です。
    この事実は、わたしたちにとって大きな慰めです。

    ところで、きょうはわたしたちよりも先に、
    天の御国へと帰って行った方々を記念し、
    共に祈るときを持つ礼拝の時間を
    わたしたちは過ごしています。
    境界線を越えることについて、
    ひとつ付け足すことが許されるならば、
    わたしたちが絶対に乗り越えられない境界線を
    イエスさまこそが越えてくださるということです。
    それは、生と死の境界線です。
    誰もこの境界線を乗り越えて
    交わりを持つことは出来ません。
    死は残酷なほどに、わたしたちから交わりを奪います。
    けれど、わたしたちは、主キリストにあって、
    復活の日が訪れることを信じています。
    それは、言うならば、生と死の境界線を
    神が乗り越えさせてくださる日です。
    主キリストにあって、わたしたちは
    死が作り出し、わたしたちの力では
    絶対に乗り越えることが出来ない境界線を乗り越えて、
    愛する友人たちや家族と
    また再び出会えることを信じています。
    主キリストにあって境界線を乗り越えていく。
    それは、現在においても、
    そして、将来においても、
    わたしたちの大きな希望です。


週報より

  • 2023.11.05 週報より抜粋・要約

  • ① きょうの礼拝は召天者記念礼拝です。
    わたしたちよりも先に、わたしたちの故郷である天の御国と帰った方々を
    思い起こし、記念し、祈る時を持ちました。
    教会員、教会に関係のある方の一覧は別紙をご覧ください。
    万一、記載漏れや誤記などがありました場合は、
    訂正いたしますので牧師までお知らせください。

    ② 礼拝後、ティータイムのあとに月例役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。
    おもな議題は、クリスマスの行事についてです。
    役員会で話し合ってほしいことがある方は、
    牧師または役員までお知らせください。

    ③ 来週は礼拝の中でこども祝福式をおこないます。
    小学生以下の子どもたちを祝福します。プレゼント付きです!
    どうぞ子どもたちといっしょにいらしてください。

    ④ 次週礼拝後、ティータイムのあとに月報『モレノ』の編集会をおこないます。
    モレノチームのみなさまはよろしくお願いいたします。
    月報へのみなさまのご寄稿をお待ちしています。
    絵、写真、原稿など、なんでも、お気軽にご寄稿ください。
    『モレノ』12月号のための原稿は、来週日曜日が締め切り予定です。
    ご協力よろしくお願いします。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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