<復活節第7主日>

2020年5月24日()   礼拝説教
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「教会の「内と外」?」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
ダニエル書5:17−30

17 ダニエルは王に答えた。「贈り物など不要でございます。報酬はだれか他の者にお与えください。しかし、王様のためにその文字を読み、解釈をいたしましょう。
18 王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。
19 その権勢を見て、諸国、諸族、諸言語の人々はすべて、恐れおののいたのです。父王様は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。
20 しかし、父王様は傲慢になり、頑に尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。
21 父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。
22 さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。
23 天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。
24 そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。
25 さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。
26 意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。
27 テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。
28 パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」
29 これを聞いたベルシャツァルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖をその首にかけるように命じ、王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出した。
30 その同じ夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。

2) 新約聖書
マルコによる福音書4:10−12



◆たとえを用いて話す理由

10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
12 それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年5月24日

「教会の「内と外」?」

きょうのマルコ福音書の箇所は、

ガリラヤ湖畔で教えを語ったイエス様が、

いったん休憩に入った時のことでしょうか。

「イエスがひとりになられた時」

マルコはそんな書き出しで様子を語ります。

イエス様を取り巻いていた大勢の群衆は、

どうやらイエス様を離れたようです。

「ひとりになると」とマルコは描写しますが、

ひとりぼっちになったわけではありません。

イエス様の周りには人々がいました。

十二人の選ばれた弟子たちもいました。

そのとき、近くにいた人々が、

イエス様に対して質問するのです。

マルコはその様子をこう描写します。

 

 イエスの周りにいた人たちが、

 たとえについて尋ね、

 そこには十二人もいっしょにいた。

 

原文のとおりに訳すとこのようになります。

どうやら、イエス様に質問をしたのは、

十二人の中心的な弟子ではなく、

イエス様の周りにいた人々だったようです。

彼らが誰で、何人くらいいたのか、

わたしたちにはわかりません。

マルコにとって重要だったのは、

彼らがイエス様の周りにいたことでした。

彼らはイエス様に、

「たとえ」について尋ねたのでした。

この「たとえ」という言葉が指すのは、

種蒔きの「たとえ」のことではなさそうです。

なぜなら、「たとえ」は複数形ですから。

しかも、マルコは面白い表現を用いています。

「たとえについて尋ねていた」と。

それに対するイエス様の応答についても、

「イエスは彼らに言っていた」。

どちらも「〜していた」という表現。

起きたことがらを事実として語るのではなく、

そこで起きていた情景を、

時間の経過を含めて物語るのです。

わたしたちは周りにいた人々とイエス様が、

尋ね、答え、語り合い続けていたその風景、

話し合っているその様子を想像させられます。

このとき語られたイエス様の言葉を、

マルコは書き記しています。

それは、なんと謎めいていることか!

 

 あなたがたには、

 神の国の秘密が打ち明けられているが、

 外の人々には、

 すべて「たとえ」で示される。

 

イエス様はここで、

「あなたがた」と「外の人々」とを、

はっきりと区別して語っています。

あなたがた内輪の人と、

あなたがたに属していない外の人、

そういう意味でしょうか。

わたしたちは誰でも、ほとんどの場合、

自分たちと自分たち以外の人たち、

つまり内側の人と外側の人を、

区別して考えています。

たとえば家族と家族ではない人、

会社内部の人と社外の人、

同じ学校の生徒と別の学校の生徒、

日本人と外国人、

仲間と他人、

敵と味方、

隣人と隣人ではない人、

といった具合に。

イエス様はあるとき、

隣人を愛しなさいと語りました。

するとそこにいた律法学者が、

「わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねます。

この律法学者の考えでは、

隣人と隣人ではない人の区別があって、

隣人は愛することが必要だが、

隣人ではない人は愛する必要はない、

そのように分けて考えていたのでした。

それに対するイエス様の問いは、

思いがけない言葉でした。

隣人か隣人でないかの区別ではなく、

隣人になったかどうかだと問うたのです。

でも、わたしたちは大抵の場合、

あの律法学者と同じです。

内の人と外の人、

その区別を最初に設けて人を分けるのです。

そして、内側の人たちには親切にするが、

外側の人には無関心でいます。

教会も例外ではありません。

教会もまた、

教会の中の人と、

教会の外の人、

そういう区別を設けて、

このように考えるのです。

わたしたち救われている人と、

救われていない人、

天国に行く人と、

行くことのない人、

教会の兄弟姉妹と、

教会とは関係のない人。

ときどきわたしたちは教会を、

内輪の交わりのことと考えます。

教会の中で恵まれることには熱心だが、

外の世界のことには無頓着になります。

イエス様もそのような意味で、

「あなたがた」と「外の人々」を仕分けし、

切り離して教えたのでしょうか。

ともすればわたしたちは、

教会を内輪の閉鎖的な集団とみなし、

自分たち内輪で恵まれることだけが、

わたしたちの求めるものになります。

しかし、イエス様も最初の教会も、

そのように固定化した考えで、

教会の内と外を区別したりはしませんでした。

では、なぜイエス様はここで、

「外の人々」などと言ったのでしょうか。

どうやらわたしたちは、

日本語の聖書に惑わされているようです。

日本語聖書は、この箇所に関しては、

翻訳上の不確かさがあるようです。

ここでイエス様は、

弟子と弟子ではない人を、

内と外と仕分けしたわけではありません。

イエス様は、

弟子として従っていない人を、

「外の人」と呼んだのではありません。

日本語の聖書には、

ある重要な一語が翻訳されてはいません。

「あれらの」という肝心の言葉が、

訳し出されてはいないのです。

イエス様が言われたのは、

「あれら外の人たち」でした。

イエス様は閉鎖的集団を作るために、

「内」と「外」を分けたのではなく、

イエス様から離れた人々を指して、

「あれら外の人たち」と呼んだのです。

しかも、イエス様の言われる「あなたがた」は、

固定された「十二人」の弟子ではありません。

むしろ十二人の弟子は付属的であり、

この会話の主体は

イエス様の周りにいた不特定多数の人たちでした。

そうであれば、わたしたちは考えてみましょう。

「あなたがた」と「あれら外の人々」、

その違いはどこにあるのでしょうか。

その区別は明白です。

「あなたがた」はイエス様のそばにいて、

二人称で呼びかけることのできる人たち。

「あれら外の人々」は、

イエス様から離れている人たちです。

イエス様のそばに居続けるか、

イエス様から離れているか、

その違いが区別の根拠です。

たまたまその時に近くにいたかどうか、

ということが問われているのではありません。

このイエス様の言葉の意味を、

わたしたちは、

わたしたちの魂の在り方として、

霊的な意味において、

受け止めるべきではないでしょうか。

教会の内と外の間に垣根を設けて、

「わたしたち」と「わたしたちでない人」

という仕方で仲間と仲間でない人を、

クリスチャンとそうでない人を分けて、

その隔てを固定化してしまうことは、

イエス様の弟子の交わりにとって、

そして教会にとって、

間違った考え方です。

なぜなら、クリスチャンだと言いながら、

霊的な意味において

主イエスといっしょに歩み、

主イエスと共に生きてはおらず、

主イエスから離れていることもあるからです。

ほんとうに重要なことは、

霊的な意味において、

いつもイエス様と共にいることです。

わたしたちはこの世を旅しています。

その旅の途上、

いつもイエス様といっしょに旅をすること、

それがキリストを信じる者の基本であり、

わたしたちの日毎の姿です。

主イエスといつも共にいること。

そのことを別の言い方で、

クリスチャンと呼ぶのですから。

主イエスと共にいるなら、

主イエスの言葉はわたしたちにとって、

神の国の秘密を打ち明ける言葉、

もっとマルコの言葉を直訳するなら、

神の国の奥義が与えられている言葉です。

それは全部を理解できるということと違います。

わたしたちは聞いてもすぐには理解できず、

意味がわからないことも多くあります。

わたしたちの理解が不充分なこともあります。

しかし、わたしたちが聞く御言葉はすべて、

神の国の奥義を伝えるものとして、

今すぐにはわからなくても、

いつかその意味が分かる時が来ると信じ、

心に留めておくことはできます。

いつか、希望と力と慰めを受ける、

神の国の言葉だと気付く時が来ることでしょう。

主イエスの近くに居続けるかぎり、

今はよくその言葉を理解できないとしても、

自分には関係のない、

役に立たない言葉だと考えて、

主イエスのもとを離れたりはしないでしょう。

わたしたちは主イエスと共にいて、

その言葉を喜んで聴きながら、

この世の旅を続ける、

天に本国を持つ神の民です。



(以上)

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