<聖霊降臨祭>

2020年5月31日()   礼拝説教
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「イエス様、お言葉の意味がわかりません」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
ダニエル書7:1−28

◆四頭の獣の幻

1 バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。彼はその夢を記録することにし、次のように書き起こした。
2 ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。
3 すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり、
4 第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた。見ていると、翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のようにその足で立ち、人間の心が与えられた。
5 第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にくわえていた。これに向かって、「立て、多くの肉を食らえ」という声がした。
6 次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。
7 この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。
8 その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。
9 なお見ていると、
王座が据えられ
「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く
その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎
その車輪は燃える火
10 その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え
幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き
巻物が繰り広げられた。
11 さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。
12 他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた。
13 夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。
15 わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。
16 そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。
17 「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。
18 しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」
19 更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである。
20 その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。
21 見ていると、この角は聖者らと闘って勝ったが、
22 やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである。
23 さて、その人はこう言った。「第四の獣は地上に興る第四の国
これはすべての国に異なり
全地を食らい尽くし、踏みにじり、打ち砕く。
24 十の角はこの国に立つ十人の王
そのあとにもう一人の王が立つ。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。
25 彼はいと高き方に敵対して語り
いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され
一時期、二時期、半時期がたつ。
26 やがて裁きの座が開かれ
彼はその権威を奪われ
滅ぼされ、絶やされて終わる。
27 天下の全王国の王権、権威、支配の力は
いと高き方の聖なる民に与えられ
その国はとこしえに続き
支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」
28 ここでその言葉は終わった。わたしダニエルは大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった。しかし、わたしはその言葉を心に留めた。

2) 新約聖書
マルコによる福音書4:13−20



◆「種を蒔く人」のたとえの説明

13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年5月31日

「イエス様、お言葉の意味がわかりません」

新約聖書ギリシア語を最初に学んだのは、

いまから半世紀ほど前のことです。

以来45年間、ギリシア語を学び、

神学校で新約聖書ギリシア語を教え始めて、

三十数年になります。

それなのに、今日の聖書箇所、

マルコ福音書4:13−20には、

本当に参りました。

なんで今更になって、

こんなにも困惑させられねばならないのか。

文句の一つも言いたくなります。

「イエス様、お言葉の意味がわかりません」と。

イエス様の言葉が難しいわけではありません。

わかりにくい単語があるわけではなく、

技巧を凝らした文体でもなく、

むしろ単純なギリシア語の文章です。

イエス様が群衆に語った、

種蒔きのたとえとして知られる言葉を、

イエス様ご自身が弟子たちに説明しています。

弟子たちに少し怒っているのでしょうか。

「このたとえがわからないのか、

では、どうして他のたとえがわかるだろうか」。

そう嘆いてから種蒔きのたとえを説明します。

説明するのですから、

わかりやすく解説するはずでしょう。

ところが、意味がわからない。

いったいなにが問題でしょうか。

何のことを説明しているのか、

よくわからないのです。

だから、日本語に訳すのが、

とても困難な聖書箇所の一つです。

単語は全部わかる。

文体も単純。

それなのに、イエス様の説明を理解しようと、

じっくりと読めば読むほど、

意味がわからなくなります。

そのことは日本語の聖書からもわかります。

14節の言葉

「蒔かれる種とは、御言葉のことである」。

なるほど、これはよくわかります。

この物語は「たとえ」なのですから、

種が単純に本物の種であるはずはなく、

種は何かを象徴しているはずです。

イエス様は蒔かれたのは御言葉、

すなわち、神の言葉だと言われます。

ここまでは大丈夫。

問題はそこから先の言葉です。

 

 道端のものとは、こういう人たちである。

 石だらけの所に蒔かれるものとは、

 こういう人たちである。

 

道端のもの?

石だらけの所に蒔かれるもの?

ここで言われる「もの」とは何でしょうか。

種のことを指しているのでしょうか。

だとすれば、種とは人のこと?

それとも他の何かを指すのでしょうか。

それがあいまいなままで、

このたとえの説明を理解しようとしても、

はっきりするはずがありません。

それに続く箇所との関連が、

どうにも曖昧でわからないからです。

そこで、イエス様が言おうとしているのは、

土地の違いのことだと考えられてきました。

現代のある聖書注解書は、

このように結論付けています。

「読者はそこで

『わたしはどんな土地であろうか』と

問うことになる」。(ウィリアムソンp.159)

あなたは道端ですか?

石だらけの所ですか?

あるいは茨の生える土地ですか?

それとも良い土地ですか?

そのように自分を吟味させるのが、

イエス様の言いたいことなのでしょうか。

一見、もっともらしく思われ、

わかりやすくなるので、

そうなのだと信じ込まされます。

原文に忠実であろうとさえしなければ。

このイエス様の言葉を、

しっかりと読めば読むほど、

イエス様はそんなことを問うてはいないと、

気付かされることになるはずです。

第一、もしイエス様によるたとえの説明が、

わたしたちに自分がどんな土地かを考えさせ、

気付かせることにあるのだとしたら、

このイエス様の解説は、

わたしたちに、ある深刻な疑問を抱かせ、

おそらく深い落胆を与えることになります。

たぶん、ほとんどの人が、

「わたしは良い土地だ」などとは思えず、

道端か石だらけの地か、茨の生える土地かと、

自分のことを自己吟味してそう考えるでしょう。

自分がそのような土地だと思い至るなら、

イエス様の弟子になる資格などなく、

自分はふさわしくないのだと考えて、

希望が失われることになります。

そもそも、自分を道端や石だらけの地、

あるいは茨の茂る地と思う人の誰が、

努力しさえすれば良い土地になれる、

などと楽観的に受け止めるでしょうか。

あきらめ、失望、落胆。

それが行き着くところになることでしょう。

これではまるで、

人それぞれがどのような土地の存在なのか、

予め定められているかのようです。

はたしてイエス様は、

人間をそのような四通りの種類に区分して、

良い土地の人だけが実を結ぶことを、

弟子たちに説明したのでしょうか。

いいえ、そうではないはずです。

わたしは今回、

この箇所と時間をかけて取り組むことで、

こうした解釈が誤りだと信じるに至りました。

イエス様は、種蒔きのたとえの説明を通して、

自分がどの土地かということを、

人々に考えさせようとしたのではありません。

日本語の聖書は訳を見直す必要があります。

「道端のものとは、こういう人たちである。」

ここで句点を打って文を切ることが、

いっそう意味の理解を妨げるのです。

日本語としてはぎこちなくても、

15節を訳し直してみました。

 

 これらの人々は、

 御言葉が蒔かれたのは道端で、

 聞いた途端に、サタンが来て、

 彼らに蒔かれた御言葉を取り上げてしまう、

 という人々だ。

 

イエス様は御言葉を聞く人々の違いを定義して、

人々を四通りに仕分けしてはいません。

イエス様がここで語るのは、出来事です。

御言葉を聞く人に何が起き、

そこからどう生きるようになるのか。

そのことを出来事として、

体験することとして語るのです。

「道端のものとは、こういう人たちである」、

そう言うのであれば、それは定義です。

イエス様の言いたいことは、

そのような定義を語ることではなく、

御言葉を聞いた人に起きる一連の出来事です。

御言葉を通して体験する出来事が、

わたしたちを育て、養い、導き、

良い実を結ぶ者へと、

わたしたちの生き方を

方向付けることでしょう。

わたしたちは誰ひとりとして、

生き方を予め定められたりはしていません。

自分がどのような土地なのかは、

予め定められていません。

御言葉を聞いてからどのような体験をし、

どのような出来事を生きるのか、

それがわたしたちの生き方を作り上げます。

その結果としてどこに行き着くのか。

その最後の結果をイエス様は見せます。

わたしたちは、今はまだ、

自分がどのような土地かという、

終点には来ていません。

出来事を体験する途上にあります。

御言葉という種は蒔かれています。

そこから先、

どのような出来事を生きるのでしょうか。

この世の悪が神の言葉を葬り去るのを、

見過ごして放置するのでしょうか。

一時は御言葉を喜んで聴くけれども、

自分の生き方の土台にしないので、

やがて御言葉とは無関係になるのでしょうか。

御言葉を聴いて歓迎はするけれども、

神の言葉以上に大切だと思うものに忙殺され、

神に喜ばれる生き方の優先順位が、

低められ、小さくされてゆくのでしょうか。

あるいは、御言葉によって自分に起きることが、

良い実を結ぶ出来事となることを体験し、

喜んでそのように生きるのでしょうか。

わたしたちの生き方が、

御言葉によってどのような出来事となるのか、

その途上をわたしたちは生きています。

わたしたちの未来は決められてはいません。

御言葉がわたしたちに引き起こす出来事を、

わたしたちは体験しながら、

今とこれからを生きてゆきます。

だから、わたしたちの未来はオープンです。

どのような未来になってゆくのかは、

御言葉をどう受け止めて生きるか次第です。

そして、何よりも重要なことは、

わたしが自分でこうした出来事を体験し、

自分の力だけで自分の生き方を定め、

作り上げてゆくのではないということです。

イエス様の弟子たちがそうでした。

彼らは復活の主イエスから約束を受けました。

 

 あなたがたの上に聖霊が降ると、

 あなたがたは力を受ける。

 

聖霊がわたしたちに降り、

聖霊の力によってわたしたちは励まされ、

支えられ、守られ、養われて、

御言葉が造り出す出来事を体験し、

わたしたちの生き方が形作られます。

聖霊はわたしたちの願いと思いと祈りを無視して、

無理矢理に働くことはないでしょう。

しかし、わたしたちが御言葉を受け止め、

養われてゆくことを願い、祈るなら、

わたしたちは御言葉が造り出す出来事を体験し、

生き方が定められてゆくことでしょう。

良い実を豊かに結ぶ者となるように。

願わくば、わたしや皆さんのこれからの生が、

良い実を結ぶ未来となりますように。



(以上)

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