<三位一体の主日>

2020年6月7日()   礼拝説教
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「キリストという光が照らす世界を見る」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書60:19−22

◆四頭の獣の幻

19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり
あなたの神があなたの輝きとなられる。
20 あなたの太陽は再び沈むことなく
あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり
あなたの嘆きの日々は終わる。
21 あなたの民は皆、主に従う者となり
とこしえに地を継ぎ
わたしの植えた若木、わたしの手の業として
輝きに包まれる。
22 最も小さいものも千人となり
最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。
2) 新約聖書
マルコによる福音書4:21−23



◆「ともし火」と「秤」のたとえ

21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年5月31日

「キリストという光が照らす世界を見る」

現代世界はめまぐるしく変動します。

一年前の世界と現在の世界が、

どれほど大きく異なっているか、

改めて考えると、

わたしたちはとても驚かされます。

この一週間はもっと大きく世界が変わり、

世界の各地で大きな変化が生じ、

以前と同じ世界に戻ることは、

もはや考えられないのが現実です。

わたしたちがこの世界の現実、

めまぐるしく変動する世界の現実を、

あるいは現在の世界で起きていることを、

どのような光で照らし、

どの光のもとで見るべきかを知らないなら、

わたしたちは世の中に洪水のように溢れる、

あらゆるたぐいの情報や意見にさらされ、

もろもろの主張や解説、噂や風評の洪水で溺れ、

世界といっしょに揺り動かされて、

群衆の流れに一緒に押し流されることでしょう。

そこで、きょうわたしたちは、

キリストという光が照らす、

その光のもとで世界を見ることを、

改めて考えたいと思います。

イエス様は「たとえ」で教えてきましたが、

きょうの福音書箇所でも、

短い「たとえ」を語られました。

たとえの舞台は、

暗くて中がよく見えない部屋の中です。

その部屋に誰かが入ってきて、

そこで何かをするためには、

ランプを灯さなければなりません。

その場面を思い浮かべてみましょう。

誰かが灯火を持って部屋に来る様子が、

わたしや皆さんの想像する場面でしょうか。

そうであれば、

イエス様はきっとこう言われたでしょう。

「ある人が灯火を持って部屋に来る」と。

ところが、イエス様はそうは言われません。

とても奇妙な言い方で、

人々に問いかけるのです。

残念なことにここでも日本語の聖書は、

本来の奇妙さを取り除く仕方で、

この箇所を訳してしまっています。

「灯火を持って来るのは、

升や寝台の下に置くためだろうか」。

この訳し方だと、

誰かが灯火を持って来たことになります。

それなら主語はその「誰か」です。

でも、イエス様の言い方は違います。

主語は人ではなく灯火だからです。

この言葉を直訳してみましょう。

 

 灯火は来るだろうか、

 升や寝台の下に置かれるために。

 

灯火が主語なのです。

でも奇妙ではないでしょうか。

灯火は意志を持たず足もありません。

だから「灯火が来る」という言い方は、

考えてみれば変です。

だから聖書の翻訳者は、

誰かが灯火を「持ってくる」という仕方で、

分かりやすいように訳したのでしょう。

でも、そのように分かりやすく変えたぶん、

「たとえ」が本来持っていたはずの、

謎と奇妙さが消し去られてしまいました。

イエス様がなぜここでわざわざ、

「灯火が来る」という言い方をしたのか、

その謎がなくなってしまうのです。

なぜイエス様はここで、わざわざ、

灯火が自分の意志でやってくるかのような、

そんな不思議な表現を使ったのか。

その理由こそ重要ではないでしょうか。

きっと、旧約聖書に手がかりがあるはずです。

なぜなら、イエス様も弟子たちも群衆も、

旧約聖書の教えを聞いて育ってきたからです。

旧約聖書に灯火は出て来るのでしょうか。

はい、たくさん。

どんなふうに出て来るでしょうか。

たとえば、サムエル記下22章29節には、

ダビデというイスラエルの王となった人が、

神によって敵の手から救い出された時の、

感謝の歌の一節があります。

 

 主よ、あなたはわたしの灯火

 主はわたしの闇を照らしてくださる。

 

なるほど、主なる神が灯火であり光なのです。

きょう交読した詩編27編でも、

 

ダビデはこのように歌いました。

 

 主はわたしの光、わたしの救い、

 わたしは誰を恐れよう。

 

光とは主なる神のことだと言うのです。

詩編119編は神の言葉を讃えて歌います。

 

 あなたの御言葉は、わたしの道の光

 わたしの歩みを照らす灯。

 

そして、新約聖書はイエス・キリストこそ、

人となられた神の言葉だと告げています。

イエス様ご自身も、ご自分のことを、

こう言い表したのでした。

 

 わたしは世の光。

 

そうであれば、

 

イエス様がきょうの福音書箇所で、

 

 はたして灯火は、

 升や寝台の下に置かれるために

 来るだろうか。

 

と言われたのは、

イエス様ご自身がこの世を照らす灯であり、

世の光だからに違いありません。

世の光であるイエス・キリストが世に来た、

だからこそ、この「たとえ」でイエス様は、

「灯火は来る」と言われたのだと思います。

灯火は闇を照らします。

そして、闇の中では見ることのできないことを、

その光は照らし出すのです。

聖書はこの世界が光と輝きに満ちた、

明るい世界だなどとは教えていません。

この世界で光や輝きだと思われて、

みんなが求めたり憧れたりするのは、

世の富であり権力であり名誉であり、

この世の力、支配、優越です。

それらが一部の人に偏れば偏るほど、

世界は不公平・不平等になり、

支配する人と支配される人、

過剰に豊かな人と困窮する人が生まれ、

この世界に闇を拡げます。

世界の上澄みにいる数%の人が、

世界全体の富と権力の大部分を手にし、

人種や民族への差別と偏見が、

この世界に憎悪と対立を生み出しています。

聖書はむしろ、この世が闇だと教えます。

この世界は闇の支配の下にあり、

しばしば「暗闇」と表現されています。

この世界で生きるならいつか必ず、

「死の陰の谷を行く」時が来ます。

しかし、それだからこそ聖書は、

救い主のことをこう呼んで、

永く待ち望んできたのでした。

「闇の中に輝く光、

世に来られたまことの光」と。

救い主は、この世の闇を照らす光。

この救い主こそイエス・キリストだと、

聖書は証言し・宣言しています。

イエス・キリストは闇の世を照らす光として、

この世に来られたのでした。

イエス様の「たとえ」に戻りましょう。

暗くて中のものが見えない部屋に、

灯火は入って来ました。

この灯火の光は、

いったいこの部屋の何を、

この世の何を照らし出すでしょうか。

救い主キリスト、

世の光は、

その光でこの世をばら色の世界にはしません。

その光は魔法でハッピーな世界には変えず、

この世界から問題や苦しみを消し去らず、

人々をおとぎの国の住民にはしません。

この世を照らす救い主の灯火は、

むしろ、この世の罪深さ、

この世の愛のなさ、

憐れみのなさ、

この世の敵意と暴力と怒りと憎しみを、

くっきりと照らし出します。

この光に照らされるまで普通だと思っていた、

この世の罪と異常さがあらわにされます。

救い主キリストを信じる時、

わたしたちはその光が照らす世の現実を、

そしてわたしたち自身の神の前での姿を、

あらわにされ、示されることでしょう。

主イエスはこの世界の現実を照らします。

キリストという光が照らす世界を、

わたしたちは見ることになります。

しかし、世の光であるキリストが照らすのは、

そうしたこの世の現実だけではありません。

キリストという光が照らし出す、

もう一つの、そしていっそう大切なものは、

この世界が、わたしたちが抱くべき希望です。

キリストという光は、

一方でこの世界が罪深く、

無慈悲と良くと敵意と暴力と争いに満ちる、

この世の現実を見せます。

しかし、もう一方でキリストという光は、

愛と憐れみ、和解と平和、感謝と喜び、

それら神の賜物を抱いて生きる希望を、

わたしたちに見せてくれます。

たしかにキリストは世の罪を明らかにし、

この世の悪を照らし出し、

無慈悲と不正義が世に満ちている、

その現実を見せるでしょう。

そして、世の人々はその現実が、

普通の正常な世界だと思い込み、

それになじんで生きています。

キリストがそうした世の現実、

世の罪深さと誤りを顕わに見せるのは、

世の醜さを際立たせることで、

わたしたちを世の中嫌いの人間にしたり、

皮肉屋に仕立て上げるためではありません。

この世界と自分自身の姿を悟ることで、

神の前に悔い改めて、

キリストを通して神に立ち帰らせるためです。

そしてその時、同時に、

キリストはわたしたちに、

希望をも照らし出して見せてくれます。

互いに愛し合うことがこの世界を造り変え、

憐れみ深く生きることが形作る未来を思わせ、

神の国の祝福を受け継ぐ約束を、

わたしたちの希望として見せてくれます。

それがキリストという光が照らす、

この世界の現実と希望です。

わたしたちのもとにキリストは来られます。

真の灯火であるイエス・キリストが、

わたしたちのもとに来て、

霊において共にいてくださいます。

だから、わたしたちはこの世界を、

キリストという光を通して見ます。

世界の現実は今も闇の世です。

しかし、キリストにある希望を一緒に見ます。

愛を生き、憐れみ深さを忘れず、

キリストの平和を望み見て、

感謝と喜びを抱いて生きる、

その希望をキリストという光は、

わたしたちに見せてくれているのです。



(以上)

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