<三位一体後第1主日>

2020年6月14日()   礼拝説教
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「わたしたちを教育するのはだれか」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書1:11−17

◆ユダの審判

11 お前たちのささげる多くのいけにえが
わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に
わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが
誰がお前たちにこれらのものを求めたか
わたしの庭を踏み荒らす者よ。
13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など
災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを
わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を
16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
17 善を行うことを学び
裁きをどこまでも実行して
搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り
やもめの訴えを弁護せよ。
2) 新約聖書
マルコによる福音書4:24-25



◆「ともし火」と「秤」のたとえ

24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年6月14日

「わたしたちを教育するのはだれか」

いま、新型コロナウィルスの影響で、
学校はどこもたいへんです。
学校教育の遅れが心配されています。
大学もオンライン授業はしていますが、
教師も学生も苦労しています。
教育といえば学校でするもの。
わたしたちはそう考えています。
だから学校を卒業して大人になったら、
もう教育は終了、
学ぶ必要はなくなった。
もしそのように考えるとしたら、
二つの大きな考え違いをしています。
一つの考え違いは、
教育は学校で終わったと考えることです。
実際には、教育は生涯必要で、
わたしたちは一生涯、
学び続けるべきです。
そうでないと何十年も前の知識が、
今でも通用すると思い込みます。
もう一つの考え違いは、
教育するのは学校だと思い込むことです。
実際にはわたしたちは、
刻一刻と絶え間なく、
あらゆる仕方で、一生涯、
教育を受け続けています。
たぶんほとんどの人は、
教育されているとは思ってもいません。
でも、たとえばテレビはどうでしょう。
テレビのスイッチを入れたとたん、
わたしたちの教育が始まります。
テレビは全的・包括的、効果的な仕方で、
わたしたちを教育し続けています。
テレビを通してわたしたちは、
何よりも価値観を教育されます。
コマーシャルのたびに、
若くて健康で明るいことが価値だと教わり、
欲望が刺激されるように教育されます。
善悪がニュースやワイドショーで教育され、
何が面白いと感じるかが、
お笑いやバラエティ番組で教育されます。
物を買うことが良いことだと思わされ、
所有を増やすことが幸福の基準と教えられ、
娯楽や快楽を手に入れることが、
人生を楽しくする方法だと教え込まれます。
ゲーム世界の価値観が現実を見る目を教え、
親や友だちとの会話が世間の価値を教育し、
良い学校や優秀な成績や勤め先が、
人間の価値にまで及ぶかのように教育され、
近所や世間体の評価が教え込まれます。
スーパーの陳列棚は物の価値の序列を教え、
アウトレットは流行に敏感であるようにと教え、
世の中の格差の現実が人生の勝ち負けを教え、
国家の繰り出す飴と鞭、甘い話と脅迫が、
わたしたちを国家への従順さへと教育します。
要するに、世の中のあらゆるものが、
わたしたちの教育を担い、
わたしたちは意識するとしないとに関係なく、
ある決まった考え方へとわたしたちを追い立て、
世間の常識というものを教育するのです。
それはこういう常識です。
結局、他の人を量るその秤で、
自分も量られることになるという常識。
そして、金持ちはもっと金持ちになり、
貧乏人はもっと貧しくされる、
それがこの世の現実だという常識です。
こうした考え方、こうした世界の見方を、
わたしたちはあらゆる仕方で教育されています。
現代社会の資本主義が経済の現実を教え、
新自由主義がこの世は競争だと教育し、
格差の現実が自己責任という言葉を教えます。
自分の量る秤で、自分も量られる。
持っている人はいっそう豊かになり、
持っていない人は持っているものも失う。
そのことをわたしたちは、
あらゆることを通して教育され続けています。
あれ?
どこかで聞いたような言葉ですが・・
そう、なんということはありません。
イエス様の言葉そのものです。
イエス様の時代のユダヤも、
現代の日本も、
同じことをわたしたちに教え込んでいます。
昔も今も、わたしたちは、
この世の現実に教育され続けているのであり、
その教育の中身は何も変わっていません。
実際、イエス様がきょうの箇所で語った、
ふたつの「たとえ」、
たとえというよりも格言は、
イエス様の時代の格言そのものでした。
そうだとしたら、
イエス様はその時代の格言を、
もっともらしく繰り返しただけでしょうか。
そうであれば、
イエス様はなんということはない、
人々がなんとなくそうだと思っていることを、
確信を込めて声高に言い、
人々に「やっぱりそうだったのか」と思わせる、
大衆評論家のような方だったのでしょうか。
もし、イエス様が二つの格言を語っただけなら、
おそらくそうであったことでしょう。
でも、そうではありませんでした。
わたしたちはイエス様があの二つの格言、
当時も良く知られていた、
自分が量る秤で自分も量り与えられる、
持っている人はさらに与えられ、
持っていない人は持っているものまで取られる、
という格言を語るに先立って、
ある言葉を語ったことを考えるべきです。
最初に語られたこの言葉、
「何を聞くかに注意しなさい」という、
この言葉こそが、
それに続く格言に別の意味を与え、
神の言葉としての命を吹き込んだからです。
「何を聞くかに注意しなさい」。
イエス様の時代、
人々は何を聞いていたでしょうか。
現代のわたしたちは、
いったい何を聞かされているでしょうか。
世間にはあらゆる言葉が溢れています。
巷には教訓に教訓、道徳に道徳、
あれが常識、これが常識、
あれがほしいこれが必要という願望、
荒れが大切これも大切という、
価値観の洪水に浸らされています。
それら押し寄せる無数の声や主張を、
ぜんぶ無批判に聞き、
それらが押しつける教育を受け続けるなら、
わたしたちはどんな存在へと育てられることか。
たぶん間違いなく、
わたしたちや、わたしたちの子どもは、
この世の価値観に染まり、
この世が必要だと言うものを必要だと信じ、
この世でうまく生きるための知恵を教育され、
結局、この世の定住者へと育てられ、
この世の定住者として生きることを教育され、
この世の価値観を日々教え込まれることでしょう。
この世界ではそういう声しか聞こえないでしょうか。
この世界はこの世の価値と常識だけが大合唱となり、
わたしたちに大音量で迫るだけでしょうか。
量も大きさも圧倒的に強い、
この世の声しか響いていないのでしょうか。
いいえ。
イエス様はそういう世界に来られ、
神の言葉を人々に語り、
イエス様の教えを告げ知らせました。
今もこの世界には、
主イエス・キリストの教えと言葉が響きます。
たしかに、この世の価値観や常識の声は、
はるかに強く大きく、溢れかえっています。
でも、注意深く聞き分けるなら、
わたしたちは今もイエス様の言葉が、
この世界で語られているのを聞くでしょう。
それは、世の常識や世の価値観の声と比べて、
ずっと弱くて小さいかもしれません。
でも、イエス様はわたしたちの魂にささやきます。
だから、何を聞くかに注意して、
イエス様の教えを聞くことが必要です。
ただでさえ、わたしたちは世の教育を受けています。
だから、それに対抗する教育が必要です。
わたしたちを教育するのはだれか。
わたしたちの主、イエス・キリストです。
イエス様はわたしたちに、
神の愛を語り、神の愛を示し、
互いに愛し合いなさいと教えます。
イエス様はご自分の命をかけて、
罪の赦しを与えてくださり、
そのうえで敵をも赦しなさいと言われました。
イエス様はわたしたちに、
天の国と永遠の命の約束を与え、
わたしは再び来ると教えました。
だからわたしたちは天の国と永遠の命を望み、
ふたたび主イエスが来られるのを待ち望みます。
憐れみなどは価値がないと教える世界で、
イエス様は憐れみ深くありなさいと教えました。
平和を作る人は幸いだと教育しました。
神の国と神の義を第一に求めよ。
それがイエス様の教えたことでした。
イエス様によって教えられたわたしたちは、
イエス様の教えに基づいて聞くなら、
世間の常識として語られていたあの格言が、
イエス様によって全く異なる意味を与えられ、
わたしたちの祝福となることに気付くでしょう。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、
さらにたくさん与えられる」。
そう、わたしたちが主イエスの教えによって、
人々と世界を量るならば、
つまり、憐れみ深くあり、
互いに愛し合い、
和解し赦し合い、
平和を作るという秤で量るなら、
わたしたちも神によって、
その神の秤によって量られ、
その恵みと祝福が、
いっそう豊かに与えられることでしょう。
「持っている人はさらに与えられ、
持っていない人は
持っているものまでも取り上げられる」。
愛は与えるほどにいっそう豊かになります。
憐れみは人々に向けるほどに、
いっそうその人を憐れみ深くします。
天の国と永遠の命の約束を持っている人は、
日々いっそう、
天の国と永遠の命を確信します。
しかし、
愛を物で置きかえようとする人は、
いっそう愛よりも物に執着して愛を失い、
憐れみを持たない人は、
いっそう冷淡になって、
憐れみを失ってゆきます。
天の国と永遠の命の約束を軽んじる人は、
やがてその望みを失い、
この世の定住者になりきることでしょう。
だから、
この世で生き、
世の教育にさらされているわたしたちは、
いっそう、
何を聞くかに注意し、
イエス様の教えと約束をとおして、
イエス様によって教えられて、
この世を旅してゆきましょう。



(以上)

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